うさぎとかえるの里

鳥獣戯画をこよなく愛する自分の日本文化や日常に関する想いをつづります。

奈良1~信貴山朝護孫子寺

2010-07-12 23:35:49 | 旅行・参拝
12年に一度の奥秘仏毘沙門天の御参り。
今年は7月1日~15日で最後になります。
聖徳太子が大好物な私、やっぱりお参りしないわけにはいかないです。

昨年秋と同じルートでJR王寺駅から生駒線で信貴山下駅へ行ったものの、
やっぱりバスの時間に間に合わず、しょっぱなからタクシーを呼びだしてしまいました(^^;)
昨年もらった、「王寺タクシー」のティッシュ、お守りのように大事に取っておいて助かりました…。



さて、帰りのバス時間をチェックするため、バス停前でおろしてもらい、9時少し前には
無事に信貴山に入山。



梅雨時ですが、今日も晴れ…とはいえないまでも、薄日が差すまずまずの天気。
本堂に向かい、ひとしきりお参りをしましたが…朝だからか、夏だからか、やけにヒッソリ。



パラパラと参拝の老夫婦などはいらっしゃるのですが…ちょっと拍子抜け。
昨年の西国三十三ヵ所の秘仏御開帳のときは、どこに行ってもそこそこ参拝者でにぎわっていたものなので…。

やっぱり毘沙門天となるとまた観音様とはちょっと違うのかなぁ。
思わず、窓口の方に、「奥秘仏はどこでお参りできるのですか?」と聞いてしまいました…。

案内され、靴を脱いで本堂に入ると、御丁寧に毘沙門天の前に連れて行ってくれました。
今回の巡礼計画は、この御開帳に合わせて計画したようなもの。
お参りした後は、その裏に回らせてもらい、ここにもずらりと並んだ毘沙門天の使者の方々にお参りします。

御札を貰って本堂を出ましたが、バスの時間までにはまだかなりありますし、
すぐ横手の霊宝館に二度目の入館。
今回は信貴山縁起絵巻はすべてレプリカですが、ここは他の展示品もお気に入りなんです。
それだけ、信貴山には歴史があるってことなのですけど。

まずは楠木正成関連のもの。刀とか兜とか。
幼名多聞丸、そのため、毘沙門天にひどく帰依していたそうです。
そして、時代は下って、松永久秀の直筆書状。
思えば、足利尊氏に敗れた楠木正成と、足利十三代将軍義輝を弑逆したのが
信貴山に城を持った松永久秀。
そしてその久秀も信貴山城で爆死しているんだから、
これらに関連する信貴山って恐ろしい山です。
しみじみとそんなことを考えながら霊宝館を出て、やはり山頂を目指すことにしました。

真夏の山登りです。
でも、昨年誤って奥の院を目指して時間を浪費したことに比べれば…
と思ったものの、やはりかなりきつかった。
…というのも、この旅で風邪をひき、朝からけっこう熱があったと思われます。
なんだろ、昨日は平気だったのに、はしゃぎすぎたか…。



息を切らしながらも無事登頂。
山頂からの眺めはやはり格別で、風も若干涼しく感じられます。

何よりうれしいのは野鳥のさえずり。
眼下の紅葉の枝に、なんと鶯を見つけてしまいました。
枝の間を飛び回っている小さい鳥、雀かと思いましたが、ふと見ると色がまさに鶯色!
ホーホケキョも聞こえるので、間違いなく鶯でした。

下山したあとは、下の休憩所で一休み。



昨年は行かなかった剣鎧童子にお参りをして、無事にバスにて下山したのでした。

そういえば、信貴山にもお寺なのに大きな鳥居がありますね。
どこに対する鳥居なのだろう。
いくつかの建物群の中で、神様いたかなぁ?



それから、仁王門の裏側の狛犬、左右とも、上を向いて吠えているんですよね。
狛犬も、場所によって色々と形が違うし、それに意味があるとしたら調べてみるのも
面白そうです。
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京都~奈良

2010-07-12 22:54:12 | 旅行・参拝
修学院から出町柳に戻ってまいりました。

京都に来たら歩かずにはいられない鴨川に出て、
賀茂大橋を渡り河原町通りをひたすら下ってみましたが、
丸太町通あたりで力尽き、バスに乗ってしまいました(^^;)

この後は、近鉄で奈良を目指します。
今夜のお宿は奈良です。

さて、奈良につきまして、夜の散策…
…ですが近鉄奈良駅付近も、思いのほかヒッソリ。

平城遷都1300年祭まっただ中なのに…。
ただ、駅近くの商店街は、地元のお祭りなのか小学生くらいの子が神輿を担ぎ、
せんとくんの着ぐるみもいました~。

お宿は興福寺の奥の方だったので、猿沢の池を通過。



昼は人工的な香りの否めない猿沢の池ですが、
夜のライトアップはなかなか味があります。



奥は興福寺の塔。
暗闇に、大きな鹿がのそのそと歩いていて、一瞬逃げそうになりました(私の方が)
道路の真ん中にいるんですもん。
京都とはまたうって変って、のどかな奈良の風景を味わいました。
旅の夜は、一人旅ということもあってさっさと就寝…。
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京都8~修学院離宮

2010-07-12 21:31:49 | 旅行・参拝
ようやく拝観許可をもらえた修学院離宮の拝観。
予定時間の20分前から受け付け開始、とのことですが、思ったより早く着いてしまい、
炎天下の門の前で待ちぼうけ。当然一番乗りです。



時間が近づくにつれ、集まってきたのは外国人さんが多かったなぁ。
私は懲りずに葉書で拝観申し込みをしていたけど
(インターネット予約はいつも満員だから)
みんなどうやって拝観許可もらっているんだろう…。
さて、そんな狭き門(私にとっては)の修学院離宮、自然と期待は高まります。

ましてや、天皇や公家が徳川幕府に行動を制限された時代の造営。
天皇側と武家との確執は、この当時詠まれた後水尾院の御歌にも残されているほど。

葦原よしげらばしげれ おのがまま とても道ある世とは思はず

古くは後白河院、鎌倉は後鳥羽院、南北朝は後醍醐天皇、そして幕末…と歴史を見てくれば、
やっぱり徳川創建時もこんな歴史の一コマがあったのだなぁと
つくづく日本の二大権力の対立を考えずにいられないのでした。

さて本題に戻りまして。
修学院離宮は、1655年より後水尾上皇によって造営が始められました。
ちなみに、桂離宮を作った八条宮智仁親王の甥にあたります。
ここで、桂離宮、曼殊院、修学院離宮の造営が極めて近い近親者の手で行われたことが分かります。

その中でも修学院離宮がずば抜けているのは、とにかく広い…雄大なこと!
お庭は、比叡山を望む山裾に、上、中、下の三つの御茶屋を松並木でつないだものです。



その松並木の両側には、これもまた離宮の一部である棚田が青々を稲穂を風にそよがせているのです。



↓奥の高い山が比叡山です。



案内の方に従って、まずは下離宮から見学。



御幸門には、後水尾院が好んだという花菱紋の透かし彫りがあります。
それをくぐると下離宮。

ここには寿月観があり、扁額は後水尾院の御宸筆。



杮葺入母屋数寄屋風造りで、おもてなしの設備がそなわっていたとか。
襖絵などもじっくり鑑賞できます。

先ほどの松並木を通って次は中離宮。



こちらには、楽只軒とそれに続く客殿。
客殿はとにかく見所がいっぱいです。

まずは濡縁の手すり。



これは、「網干しの欄干」といわれ、漁村で網を干した時の形をあらわしています。
実用をなさないような、低い手すりなので、まさに鑑賞の為なのでしょう。

そして、一の間にある飾棚。
これは、霞棚と呼ばれています。



互い違いに配された大小五枚の板が、霞がたなびいているように見えるからです。

桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに、天下の三棚といわれているそうです。
確かに、こんなに大きな飾棚ははじめてみました。

霞棚の左奥の杉戸には、祇園祭の鉾の絵。



また、鯉が描かれた杉戸には、
その鯉が逃げ出すからと、円山応挙が描いた網が。




さて、再び松並木に戻り、最期の上離宮を目指して、緩やかに山を登ります。

門をくぐると、一気に急な石段。
息を切らしながら登ると、一気に視界が開けて、今までとは打って変わった広大な風景が見下ろせます。



これもまた趣向を凝らした作りです。

さて、その浴龍池を見下ろす丘の上にあるのが隣雲亭。
眺めがよく、洛中まで一望できます。
ここでは、参拝者が、縁側に腰をおろして一休み。



軒下のたたきは、一二三石といって、漆喰に石を埋め込んだつくりになっています。
なんとなく、色合いもかわいらしい。

丘を下って、池沿いに進み、楓橋を渡ると、窮𨗉亭(きゅうすいてい)という
宝形造りの茶屋があります。
修復はあったものの、ほぼ創建当時の建物だとか。
扁額は後水尾院の宸筆。



上段を設けた広い一間は、一枚板を渡した御肘寄があり、
池を見下ろし、光を多く取り入れる開放的な空間。

島の形を泳ぐ龍の姿に見立てた浴龍池は、周りの山々と溶け込んで、
山紫水明という言葉が無意識に浮かんできました。





当時はこの池で舟遊びも行われたそうです。



一時間半をかけて、およそ3キロの距離を歩くこの拝観、みんな汗びっしょりでしたが、
案内の方の説明も丁寧で大いに満足いくものでした。

暮れかけた離宮を跡にし、修学院駅へと向かう私の頭には、なぜか「遠き山に日は落ちて…」の歌が流れていました。
まさに「今日の業を成し終えて…」ってな心境でした。疲れたけれど、「風は涼しこの夕べ」なのです。

この歌、小学生の時は何気なく歌っていたけど、大人になって思い出すと、なんかしみじみとした情感があって好きです。
ああ、旅に出ると、やっぱりなんとなく心は忘れかけたいろんなものを思い出させてくれて、いいものだとつくづく思いました。
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京都7~赤山禅院

2010-07-12 19:31:36 | 旅行・参拝
もうずっと以前から、気になって気になって仕方がなかったここ…寺?と言っていいのか…。
都の表鬼門を守る、赤山禅院。
神仏習合だけでは言い尽くせない、不思議なところなのです。



まずは鳥居がお出迎え。

888年、比叡山の別院として慈覚大師の遺命にて創建。
本尊は、泰山府君が赤山明神として祀られているのですが、
泰山府君と言えば、道教や陰陽道でも登場。
比叡山の別院といえば天台宗。
(泰山府君は天台でも守護神らしい…けど仏教でも神なの?そもそも赤山明神って「神」だよね)
なんとも一筋縄ではいかなそうですが、
都の北東…鬼門を守るためにいろんな仕掛けもされていたんだろうと納得することに。
古くから、方除けの寺として信仰されてきたそうです(やっぱり寺なんだ)

拝殿の屋根に置かれた、御幣を持った猿像は有名。
後ろ姿の小さい写真しか撮れませんでしたが…(泣)



逃げ出さないように檻に入れられていますが、
もともとは日吉大社(比叡山の鎮守)の神猿だそうです。

京都御所の猿が辻の猿と向かい合っており、都を邪気から護っているといわれています。

また、毎年11月に数珠供養が行われることから、境内には大きな数珠が飾られています。



この念珠が、くぐれる門のようになっているから、また何とも不思議な感じがするんですね。



拝殿(本堂?)の周りにはたくさんの社もあり、お寺にいるのか神社の境内にいるのか、
何とも不思議な感覚。配置としては、神社に近いと思いますが…。



結局、実際に訪れてみても、「不思議な場所」という以外、
よくわからないままなのでした。
信仰は信仰として、形式は関係ないのだと思いますが…。

ちなみに泰山府君、命を司るものとして、王権は国家臣民を守るために祀ったそうです。
そういえば、陰陽道系の本で泰山府君の法とかいう死者を呼び戻す術を読んだ気がしますね…。
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京都6~圓光寺

2010-07-12 19:11:37 | 旅行・参拝
修学院離宮の拝観予定は15時。
まだ余裕がありそうなので、次の目的地に向かう前に寄り道をすることにしました。

山沿いの住宅地の間をぬっていく細い道路。
左手に突然現れる、立派な門構え。これが瑞厳山圓光寺です。



もともとは、徳川家康が国内教学の発展のために、伏見に圓光寺学校を建立しました。
その後、相国寺山内、そして現在の一乗寺に移転したそうです。
学業の寺というだけあって、日本最古の木活字が展示されていました。
ここでかなりの書籍が出版されたようです。

案の定、参拝者は私をおいて他には誰もいません…。



本堂を巡り、御庭に出ると、見事な苔の御庭。天地が緑に染まっています。
この7月の京都の蒸し暑さも忘れてしまいそう…。



御庭を通過し、奥の林に向かって、登っていくと…案の定、墓地です。
ここの墓地には、安政の大獄の頃に幕府側の人間として京都で活動していた
村山たかのお墓もあります。
生き晒しの刑になった後、ここで尼僧になったそうです。

さらに、もう少し林の中を登っていくと。



高い木々に囲まれた、「東照権現(徳川家康)の墓」という立て札…と墓石。
権現(神様)のお墓…っていうのも妙な話だと思いながらもそっと手を合わせて下山したのでした。
それにしても、夏の午後のひっそりとした墓地って…なんか郷愁というかもの寂しい気がします。







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京都5~曼殊院門跡

2010-07-12 18:37:07 | 旅行・参拝
暑い中、坂をのぼって辿り着いた曼殊院。
紅葉の時期などは、人も多いのでしょうが、さすがにこのシーズン、ひっそりとして、
たまに見かけるといえば、タクシーで乗り付けるご夫婦くらい…。
じっくり拝観できるので、シーズンオフの平日って好きです。
ときどき寂しいですが…。



曼殊院は草創は8世紀。現在の地に移ったのは、1656年良尚法親王の時のことだそうです。
つまり、桂離宮を手がけた桂宮智仁親王のご次男。
そのため、お庭や書院造りの建物は、桂離宮との関連が深いといわれています。

ひっそりとした建物、お庭に面した廊下を歩いても、誰にも会うこともなく…
ただただ静かです。
なんというか、手入れは行き届いているのですが、本当に古いものがそのまま残っている…と
いう感じで、廊下のきしみも、踏めば少し沈むような床板も、屋根も、手すりの欄干も、
素朴でとてもいい感じなのです。



庭園は、遠州好みの枯山水。つまり西洋手法を取り入れた、当時最先端の作庭。
書院や縁側の手すりも、遠近法を強調する西洋手法が取り入れられており、
これも桂離宮に類似する造りとなっています。



お庭と、自然の林と、建物が、静けさの中で一体化している感覚は、
まさに日本の木造建築ならではの美しさなのではないかと、改めて実感。

こちらの釘隠しも、文化財でとにかく美しい。



富士の山に七宝で雲をあしらったもの。
風に棚引いて、山にかかった雲が美しく表現されています。

さて、ここには国宝の黄不動尊がいらっしゃいます。
昨年は、青蓮院門跡で青不動様にお参りしました。
黄不動尊には、青不動様よりももっと接近してお参りすることができ、その掛け軸の下に
座ると、まるで目が合うような錯覚がするのです。
なんというか、感動というのではないんですけれども、じっと見つめていると
知らず涙が出てきてしまいました。

そして、忘れてはいけないのが、曼殊院といえば…幽霊画で有名なお寺でしたね。
確か、最近は8月の一ヶ月間しか公開されていない、というお話を聞いたことがありますが、
ちゃんと調べたわけではないので分かりません。
ただ、参拝を終えて、庫裡に戻ろうとしたとき…薄暗くなった廊下の途中に、
二枚の幽霊画がありました。
蝋燭が立てられ、横には「撮影禁止」の張り紙と、「撮影をされると後日さしさわりがおこることがございます」
…といったような注意書きが…思わずひえぇ~です。

それにしても、日本の幽霊って、本当に消え入りそうに繊細ながら、なんというか迫力…ちょっと違うな、
鬼気迫るものがあるというか…怖いと思いながらもしばらく見入ってしまいました。
イヤ、私は本当にこういった類のものは苦手なんです。

最期に衝撃の出会いをしたところで、大黒天のお札をもらって参拝は終了。
これからの道程を考えて、門前の弁天茶屋さんというお蕎麦やさんで冷たい手打ち蕎麦を頂いてから
午後の散策を開始することにしたのでした。



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