上狛村は低地帯であり、木津川堤は国役普請の堤であったが、正徳2年(1712)と享和2年(1802)に堤の片刈切れ(堤防決壊?)による洪水で大災害を被った(街道資料1より)。今日は朝から天気は良く奈良の橋本町・高札場を出発から約10km、4時間近くかかっていま12時半。お腹も空いてきたので日陰がなく炎天下で仕方なく、上狛小学校横の小さな公園で昼食タイム。
木津川堤防を北に下ると老舗・山城茶の工場があり、「山城茶業之碑」がある。それによると「室町時代には山城各地で栽培されていたが、江戸時代末の神戸港の開港によって山城茶の輸出が急激に増加した。古来から木津川は海外と結ぶ大動脈で茶の道もまた木津川を措いて語ることは出来ない…」とある。先日テレビで「外国人が持ち帰りたい№1は…」とアンケート結果を放映していた。結果「緑茶」が1番だった。今でも外国人に人気があるようだ。当時から宇治茶が外貨を稼いでいたとはね~。お茶の香りが漂う旧街道であった。ついでながら2番目は「BENTO(弁当)」だそうです。
川底にコンクリートの残骸が残る場所の北側にある「挑川故蹟」の道標。「南・木津1丁、奈良1里、東・瓶ケ原渡船場3丁 恭仁京大極殿跡1里 加茂ステンショ1里余り、西・京街道玉水2里、長池3里 新田4里 宇治5里、伏見観月橋6里 三条大橋7里」とある。古代より木津川の北岸と南岸を結び、山城、近江、伊賀を行き来し利用度の多い渡しがあった。道標の文字からこの東へ300mほどに「木津川渡し(瓶ケ原渡船場)」があったことがわかる。また天平年中に行基が架けた泉大橋もその辺りと思われる。道標北面には「昭和4年稟京都三宅安兵衛遺志建立」とある。この旧街道には三宅安兵衛の遺言を引き継いだ子息が建立した多くの道標と出会うことになる。
「明治26年に京都府の費用で掛けられたが、大正6年に流失した」とあり、氾濫を繰り返す木津川だったことがわかる。しかし今の水量からはとても考えられない。新泉大橋北詰めから450m位西にある流失した当時の橋のコンクリートの橋脚の残骸らしいものが川底に見える。
国道24号線に1951年に架けられた380m余りの橋。「日本百名橋に選ばれた泉大橋である。カレンチレバー(ゲルバー)式トラスト橋とある。「カレンチレバー」については良く理解できないが、「トラスト」とは「信頼、信用」という事なので、もう川の氾濫で橋が流出ることは無くなるのだ。「信頼して?」渡る一行。