紫式部、清少納言とともに平安時代を代表する女流歌人の和泉式部は木津の出身で、宮仕えを終えた後、この地に戻って余生を終えたと伝承されています。しかし和泉式部の墓はあちらこちらにある。移動範囲が広かった分、出会う男性も多く恋も多かったのでしょう。「羨ましい」なんて言っては「ダメ」ですよっ。今更…
国鉄木津駅の西200mにある「木津惣墓五輪塔」。高さ3m余りあり、台石の刻銘によると正応5年(1293)の建立。木津僧衆が木津5郷を勧進し、村人の結縁をえて造立したもの(旧街道資料Ⅰ)。この基礎石の下には何か埋めてあるのだろうかっ。辺りはすっかり住宅街になっている。
木津奈良道大谷の交差点を真っ直ぐ旧街道に入って間もなく、西側に石の鳥居のある小さな公園があり、その中に高さ5~6m位の高さの大きなバチ型の石燈籠がある。近寄ってよく見ると「紀工人 木津 石工 吉?由次郎(丑)」と彫ってある。ここから国道旧163号までは御店、旅籠の旧街道の雰囲気が少し残る。いま11時前だが体感温度は最高気温に近い気温になっていただろう。ゆっくり旅籠の雰囲気に慕っておれず、次へと急ぐ。なおこの日(5月25日)の最高気温28.5℃だった。
行基が開祖し、自ら仏像を彫んだ一刀三禮荒木尊像が秘仏となっている。その後、鎌倉時代から平安時代初期の僧で、浄土真宗では七高僧の第七祖としている法然上人。ここに集まった大衆に法然が説法をしたが、期待していた話が無かった村人が法然に質問をした。その質問に答えるため法然は念仏の功徳を試したという、直径1.5mほどの石が左端の中にある。さーて大変なことが起きた。続きは「奈良の神社」
奈良県と京都府との境を超え木津町大字市坂村にはいる。この東西付近には平城京へ瓦を供給していた「梅谷瓦窯跡」「市坂瓦窯跡」「歌姫瓦窯跡」「音如ケ谷瓦窯跡」などがある。画像は街道添いにある幣羅坂(へらさか)神社。市坂村の氏神で創建は主祭神大毘古命(おおひこのみこと)が童女の歌によって武埴安彦(孝元天皇の皇子)が謀反の企てを知ったと云う伝説がある(奈良街道Ⅰ資料より)。境内には神社なのに新しい鐘楼がある。また隣の安養寺からの参道を登ると石の鳥居があり、その手前のバチ型石燈籠には「南都 石工 嘉助」と彫ってある。