蛸石は城内第一位の巨石。高さ5.5m、長さ11.7m、表面積59.43㎡で坪数にすると18坪となる。
蛸石と言う呼び名は江戸時代からあり、石の表面に滲じみ出た鉄分が、
ちょうど「蛸」が横泳ぎしているように見えることからその名が付いた。
また画像にはないが左側に振袖石があり、城内第三位の石で、高さ4.2m、高さ13.5m、表面積53.85㎡。
石の形が女性の振袖によく似ていることからこのように呼ばれ「袖石」とも呼ばれる。(案内板より)
天守閣の東側の石垣は中程から大きく窪んでいるのがわかる。
また東側石垣にはこの石垣面の歪センサーが取り付けられ観測をしている。
太平洋戦争の時、天守閣の北側に爆弾が落ち大きくえぐれた。
その影響で年と共に徐々に地面がづれて石垣に影響を及ぼしているとのこと。
隠し曲輪は家康が後に付け足したもので、本丸西側に設けられた。正式には帯曲輪と呼ばれるものである。
築城学的には城内に侵入してきた敵兵を背後から襲うための兵の隠し場所。
小さく目立たない出入り口が一つしかなく、立ち入りの管理が容易な点から
江戸初期には焔硝蔵などの重要施設が置かれていた。
この隠し曲輪の東面の石垣には各藩の刻印を打った石が多く見られる。
大阪城も先の大戦で被害を受けたが、昭和5年に市民の募金150万円によって再建、翌年に完成した天守閣は残った。
爆撃を受けた原因は、大阪城東側に大きな軍需工場があったからと云われている。
戦闘機からと思われる機銃弾の跡が痛々しく残る。
石垣にこれ程の跡が残るという事は相当な威力だったことが覗える。