<引用>
「君は日本軍をどのように評価するかね」(スターリン)
「われわれとハルハ川で戦った日本兵はよく訓練されている。とくに接近戦闘でそうです」と私は答え、さらに「彼らは戦闘に規律をもち、真剣で頑強、とくに防御戦に強いと思います。
若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決ったように捕虜として降らず、『腹切り』をちゅうちょしません。士官たちは、とくに古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです(後略)」(『ジューコフ元帥回想録』)
<引用ここまで>
<さらに引用>
ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。1930年代に、満州国を実質的に支配していた日本(大日本帝国)と、満州国と国境を接し、モンゴルを衛星国としたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍とモンゴル人民軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。
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<引用おわり>
そして大日本帝国陸軍は大敗北を喫した。いまだに1万人の日本兵の骸骨が風雨にさらされている。2万人が不具者になりさみしく死んだ。
軍楽隊も幟も万歳の歓声もなく不毛の土地を取り合って日ソ両軍が宣戦布告もなく激突した。
その大衝突の前にも小競り合いは続いていた。小松原師団長は敵を侮りあいまいな情報や架空の情報を狂信し楽観的に戦局を解釈した。
小松原は、「うまくいけば私の手柄、失敗したら部下のせい」にするつもりだからこんなおいしい話はない。
彼は、この姿勢で一貫していた。この卑怯な態度は彼だけがとった態度ではなく、思想傾向として軍部、国内の言論、政治、学校、会社、…いたるところに蔓延していた。
この宣戦布告なき現地軍の独走を、国家として制御できない小日本は政府内部で責任転嫁するか見て見ぬ振りに終始した。
国民が軍を統制してない。軍が国民を統制している。
これが軍国主義でなくてなんだ。
どこの家庭も戦前はそうであったように私の祖先も男は全部軍人だ。
その軍人の一人、私の曽祖父は、1939年ハルハ川河畔の師団司令部にいた。司令部の参謀のなかでは最年少で、戦闘がまだ小競り合いであったころ、従兵を連れ陸王に乗り敵との停戦交渉に赴いた。
停戦が成立してホッとして司令部に帰ると、必ず敵機が襲来し爆弾を落とす。尾行して司令部の位置を確認したのだ。
仲間をやっとのことで砂の中から救出したのを見計らって今度は戦車や装甲車が来た。この裏切りと姑息さにおいてソ連軍は一日の長、いや、百年の長があった。
ロシア軍にすれば、
わがロシアは何年露土戦争をやってきたと思っているんだ、鳥羽伏見とは違うぞ。そういいたかっただろう。
ロシアの機関銃弾は小日本の戦車を貫通した。何が戦車だ。
日露戦争の敵討ちに燃えるジューコフは、日本軍兵舎や前線司令部を縦横無尽に轢きまわし兵が完全にひき肉になるまでやめなかった。
これを戦争といわずして何が戦争だ。日本は何とこれを「事件」と呼んだ。
戦争によって領土問題を解決するという能天気が現在も国会議員にもいる国では、この不条理が今も現実となりうる。。
下っ端はよい仕事をしてもせいぜいほめられるだけ。「よくやったぞ」、と。
そして成果は上がとる。
問題は、可能性の少ないことを押し付けておいて失敗したら部下のせいにする犯罪的上司の存在だ。
戦争の不条理は現代においても続いている。
おじさんは現場の小隊長クラスに責任を押し付けピストルを渡した。死ねということだ。
100倍近い戦力差に、もはやどう戦おうと勝ち目はなかったのに、下級将校や兵に責任を負わせた。現場の下級将校は自決。兵はその後起こる太平洋戦争で必ず死ぬ作戦に向かわされた。口封じだ。
死んで陛下にお詫びしろという自殺強要を嬉々として命じた人物がいる。小松原と辻だ。彼らは昇進した。
おじさんは、その後の戦闘で負傷し(盲貫銃創)太平洋戦争中は陸軍病院に入院していた。
ずっと悩んでいたのだ。敵弾の飛び交う中、最善の選択をした優秀な帝国の士官に自殺を強要したことを。
彼はその後数十年、隠れるように百姓をして、「申し訳ない」といって自殺した。