池底からは、福岡大空襲で落とされたとみられる焼夷(しょうい)弾の不発弾も多数見つかった。信管が付いたままのものもあった。平和な公園で発見された戦争の痕跡に思わず息をのんだ。(1990年) 2018/10/19付 西日本新聞朝刊
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福岡大空襲 1945.6.20 B29約200機が非戦闘員地域である福岡市中心部を焼夷弾攻撃した。B29の高度は2700メートルしかなかったのに探照灯の効果はなく、たった2基の高射砲は作動せず、日本軍の戦闘機は一機も飛ばず、米軍は作業のように福岡を焼いた。わざと半分は不発になるようにしていた。自動的に時限爆弾の役割をした。翌日警告を無視して子供たちをかたずけに動員した小学校では一度に多くの子供が死んだ。焼夷弾(ナパーム)は、ゾル状に加工されたガソリンが爆発する仕組みで、飛び散ったガソリンは肌にケロイドを残し、水をかけても、川に飛び込んでも、消えなかった。効果的な人殺しをするためには国際法を守ってはいけない。この人殺しの理論は米軍の方が何周も先を走っていた。死者はわずか1000人だった。、陸軍はナパームをバケツリレーで消せと命じた。誰も文句を言わない。忠実な臣民は死んだから。
B29 工場
隣国は、なかった虐殺をあったとして100年たっても責め続ける。日本国は為政者がかじ取りを誤り、いつまでも敗者の悲哀を味わう。つまり、米軍の非人道的戦時国際法無視の無差別非道な爆撃を、日本は非難したことはない。
帝国の高射砲 撃墜 0
話しはさらに50年さかのぼり、奉天大会戦。野戦司令部は何枚もの奉天郊外の地図を作り作戦指導にあてた。まだ、勝手に戦を始めれば予算はあとからついてくる時代ではない。薄氷を踏む思いでガラス細工のような作戦を立てた。
カネも人間も食い物も弾も、すべてが不足していたがガダルカナルと違うのは食料がわずかにあった点だけである。
とにかく戦には勝ち、ポーツマスの決定は多くの将兵の命を救った。各司令部はその地図を持ち帰り、地域の有力者に配った。それから50年もたつというのに、進駐する米軍から何と思われるか心配になった無能な有力者は、困りはてる。
大きな地図(3メートル×4メートル)であり激しい議論の跡が残る貴重な歴史、戦史資料だ。人から人に押し付けられた地図はやがて図書館に寄贈された。戦時中は権力のある人間として威張り腐り、状況が一変するとオロオロ地図を抱えて誰かに押し付けようとする。これ以上のバカの見本があるか。これ以上、無教養で情勢を判断できないでいる陳腐な人格がどこにいるか。
そんなバカが集まって何とアメリカに勝とうとした。
僕の祖先のことだ。