か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

「九州ろうきん」ありがと!

2020年02月12日 | 教育

先日、10年以上取引のない預金は銀行が巻き上げると聞いたので慌てて預金を調べた。

普通預金とはいつでも返すからねといって人からかき集めたカネのことだ。なのに、貧乏人の小銭は巻き上げてよいことになった。

休眠預金が出ることは預金を受け付けた時点で予想できたことで、必然的に生じるものであったにもかかわらず、今頃になって収益性が低いことを理由に銀行がネコババしてよいということになった。

ひどい話だ。「有銭無罪、無銭有罪」 あらがったところで貧乏人に勝ち目はない。

 

労働金庫(ろうきん)に忘れていた預金があったのを発見した。取り上げられるぐらいなら解約する。

 

手続きを待っている間に労金のロビーで、

とってもいいことだ。ろうきんは本を集めて施設に送っていた。

そして、ぼくはちゃんと本を読もうとする子供がいることに驚くと同時に安心もした。

本を読むことにはエネルギーがいる。ボーっとしていても「you tube」を眺めていれば刺激的な表現であきることなく情報を注入される。簡単に物知りになれる。

電子デバイスは簡単に真人間ぶることができる便利なツールだ。

 

ただ、人間の発明したものは何であれ、そう簡単に以前のモノを全否定するようなものはまず出てこない。

とくに本の特性は、効果音もなく彩りもない代わりに、物事を細かく正確に感じることができる力をつけてくれることにある。

双方向が我が物顔で闊歩する時代に、なんと地味なメソッドだろうか。読書とは、一見一方向の根気のいる作業に見える。

 

不幸にも、読み聞かせをされてない子供は乱暴な子供が多い。なぜか。物事をゆっくり多方面から解釈する力がないからだ。

ネトウヨのような学校の成績が悪い子は、「俺は頭が悪いから」と他人事のように言い、バカは遺伝のせいで自分本人は関係ないという顔をしている。いやなアホ顔。

物事を、「よい」と「悪い」とか、「好き」と「嫌い」とか、二分しかできない子供は本を読まない。音付き映像付きを間抜け顔で眺めるだけ。これでもかと押し付けられた感動に感動し、考えたつもりになっている。

みじめな話だ。

 

最初はお母さんか誰かが読んで聞かせなければ本の楽しさは知りようがない。しかし、一度知ったらそこに広がる世界には音も光もあることを知る。読書はくそ真面目がする退屈な作業だと決めつける人は真に不幸な人だ。

今、労金から本の寄贈を受けた施設の子は、まさにその喜びを知る波打ち際に立っている。

ぼくが書くよりお礼の手紙は雄弁だ。



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