福岡県福岡市博多区下川端町3番1号の博多リバレイン7階・8階にある。
アジア美術館に行き篠山紀信を見た。迫力をもって現代を切り取り、また遠い時代になって色あせていくものに丹念に光を当てた。
写真は常に新しい技法を模索し、見る側に衝撃を与えなければならない。彼の言葉にはなかったが、僕は彼の主張を言葉にすればこう言っているように感じた。
これは館内のカフェの椅子。
これを言うと教養のない奴らは条件反射的に反発し思考停止し、せっかくの面白いネタが相互の会話で発展することがなく、日本人の教養の低さを実感する。中国人も全部、韓国人はほとんど気が狂っている。低能な部類の日本人は、AKBの裸踊りコンサートにはいくが高嶋ちさ子さんのバイオリンを聞いても素養がなく感動する能力がない。
というのも僕は彼の変幻自在で発想豊かな作品群に、D.H .Lawrenceを感じた。小説に、きらめく言葉をちりばめながら常にDifferent next oneを追及した。人は激しく生きよ、同じことを繰り返すのは堕落への近道だ。彼の思想はいつか、ひがむ人がいなければ紹介したい。短編はあまり訳が出てないのだ。井の中の蛙はいつも自分が一番だな。
どこがやさしく強く礼儀正しい日本人だ。シナチョンと変わらない。雑魚日本人は自分の教養に無頓着で隣国ばかり非難する。雑魚国民に勝ってどうする。欧米の優れた文化を学べ。
紀信は努力し続けてきた。女の裸で飯を食ってきたのではない。一枚や二枚の女の裸ぐらい誰でも撮れる。彼のほんの一瞬のひらめきが「りえ」の裸であったが、完成したころ彼は次の作戦を立てている。
一生「りえ」の実物に会うこともない無教養、バカ丸出し、脳味噌が筋肉の雑魚日本人は、「りえ」の写真を使い続けて終わる。
篠山がこんなことを言った。なんといっても人の中心は顔です。顔の魅力や、顔に詰まった語りつくせない過去の蓄積や将来への思想、僕はそれを撮りたい、と。
福岡市が運営するので全く期待しなかったが、あたりだ、まぐれあたりだ。