佐世保要塞の中のひとつで、歴代陸軍中将が配属された。中将といえば神様よりも偉かったかもしれない。700万陸軍のなかで中将の階級に登るものは、陸軍の歴史70年をトータルして500人だ。
つまり任意の年の帝国陸軍には50人、在職は10年程度なので、毎年5人程度が中将になった。
ぼんやり読んではいけない。700万人中の5人という数がお分かりか。まさに神だろ。その神を佐世保要塞に配置するのだから、軍はいかに西方に突き出したこの半島を重視していたのかがわかる。
完成1900年(明治中期)、西南戦争からまだ20年もたってないとき、帝国は大陸を見てニヤニヤしていたのだ。
佐世保港を取り囲むように、執拗なほど要塞がある。
石原岳要塞に行くには西海橋を通る。すぐ横には針尾の電波塔(送信所)がある。ニイタカヤマノボレを打電したといわれている。
この送信所は海軍のもので、防空施設が完璧だったためさすがの米軍も破壊できなかった。
ウソウソ。昭和19年になると中・長波の送信所は、この針生送信所を除いてすべて破壊されていた。米軍は日本軍の情報をつかむため一箇所になったこの送信所をあえて破壊しなかったのだ。
その証拠に日本は、ここで一体何機の米戦闘機グラマンを落としたか。 0
石原岳要塞も、どんな頭をしているとこんなバカなものを造るのか不思議だ。中将とか言っても耄碌していたのだろう。
小銃用の銃眼があった。軍艦に小銃で何をするのか。すでに、航空機の時代になってもこの要塞は火薬庫のすぐ上に砲をすえて戦争するつもりでいた。米軍のガンカメラフィルムを見るがいい。
グラマン(F6F)は遊覧飛行をし、ときどき退屈しのぎに住民を殺した。
ここも破壊する価値もないところだったが、小日本の陸軍は判断が遅かった。廃止したのは1930年だ。昭和になってやっとやめることにした。
この要塞が完成し4年して日露戦争が起こる。数千名の日本兵が毎日死んでいった。しかも陸軍は半年もそれを繰り返した。
石原岳の要塞はそこそこ大きいほうであるが、ロシアには数万人が、厚いコンクリートの下でレールに乗って快適に生活し移動する要塞があった。そのことは「中将」ですら想像できなかった。
旅順要塞。