か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

zbrodnia katyn

2012年02月02日 | 西洋歴史

1939年8月独ソ不可侵条約が結ばれるとヒットラーは待ってましたとばかりにその8日後ポーランドに攻め込む。ポーランドの西半分はドイツ第三帝国の一部になった。一方スターリンもヒットラーから攻め込まれる心配なく安心してポーランドの東半分をとる。

こうしていわゆるポーランド分割が完成する。この時点においては、ファシストとコミュニストの利害は一致していた。

スモレンスク郊外のカチンの森はソ連領になった。

さあお食べと一個のポーランドパイを二人の駄々っ子の前に差し出したらどうなるか。最初は仲良く食べている。しかしお互いに相手より自分が強いと信じているから、その仲良しがいつまでも続くはずがない。

最終的には利害が反してくるという正確な見通しをもっていたのはヒットラーの方だった。安心しきっていたスターリンはソビエト連邦の周りに寄り添う社会主義衛星諸国どもを夢想していた。青二才のくせに兄貴より喧嘩が強くなっては困るのだ。子分のくせに強いポーランドはありえない。

スターリンは得意の手を使う。粛清。粛清。2500万人!しかも自分で殺しておいてこの2500万人は名誉の大祖国戦争の犠牲者に参入した。つまりナチスのせいにした。スターリンの猜疑心には限度がない。

スターリンの行った粛清の総数からすれば微々たる数だが、このとき邪魔になったのが捕虜となったポーランド将校だ。彼らはおそらく戦後ポーランド復興に際して重要な人物になる人たちだ。ポーランドを再起不能にしておかなければならない。

彼らは冬のカチンの森に消えた。

人殺しスターリンはナチスがポーランド分割線を破って侵攻を始めても、しばらくは反撃をためらったほど仲良くパイを食べたがった。なのにナチスの侵攻はとどまるどころか自国ソビエト領に深く入り込んできた。こうなるとスターリンの怒りは尋常ではなくなる。ふられた女の逆恨みだ。ナチスとしては当時の国際政治の常道をより巧妙に実現していただけだ。

スモレンスクを占領したナチスドイツはカチンの森に4000人のポーランド人将校の虐殺死体を発見する。
ゲッペルスは映画まで作ってコミュニストの残虐性を弾劾する。大佐級の米軍捕虜、ロシア人捕虜、各国の赤十字が証人となった。そして多くの動かぬ物的証拠をあげた。しかし、信じたものはナチス自身以外いなかった。

戦後ニュールンベルク裁判でアウシュビッツと並んでカチンの森の虐殺事件をソ連から批判されたナチスは一言言い放つ、「恥知らず」

ソ連の破廉恥ぶりにはあきれる。ただ僕は言いたい。ただ一人でもいい。東京裁判では連合国に恥知らずと言えた戦犯がいたか。無能な戦争指導ぶりだけでも十分に戦犯だが、負けて裁判に立たされると途端に言いなり小僧になりやがる。残虐非道さにおいて連合国は日本軍の比ではなかった。

ナチスドイツの将軍はニュールンベルクで言った。たしかに残酷な人殺しはした。しかし、お前に言われたくはないぞ。

東京ではついぞ聞けぬ発言だった。

 
 
 
 
 
 

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