~中央高校という名前がついている学校は元女学校である場合が多い。その影響は共学になっても続く。女子が8割を占め得意とする科目もなぜか文系科目が多い。
男子が少ないとそこの男子はモテそうなもんだが、やはりブ男はどんなにアドバンテージを貰ってもいい目に合うことはなかった。
男のくせに元女学校の、~中央高校に来ようと思うだけでなんだか気持ち悪いのである。女子談。
逆に福山は男ばかりの工業高校だが、稲佐山には女子が列をなしていた。この僕、理系の一番奥の教室で、全校で40人しかいない女子とは話す機会もなかった。
と続くと思ったか。そうはいくか。不運で、不幸で、貧乏で、小心で、ブ男で、話題がなく、背が低く、肌が汚い、且つ息が臭い。そんな男が持てようものなら僕は即座にテロに走る。女子のいる教室で自爆する。
モテたい一心のこんな高校生時代を過ごしたが、ま、僻まれても仕方ない品位というものが僕にはあった。だが、それがあるからといって誰にでも食いつくわけではない。
ところが先生になると話は違う。馬鹿な高校は若い体育の先生がモテるし、しっぽをつかまれない頭のいい女子生徒がくっついてくれるから先生も安心だ。
だがある高校では、まさかと思おうおじいちゃん先生めがけ列をなして質問に並ぶことがおこるのだ。オカマの先生に対しても説明がいいからと生徒は頼りにしていた。
おじいちゃんは漢文の先生。テキストとなるとあれもこれも盛り込んでぶ厚いテキストを作りたがる。ところが本物は端的に本質をつかむ。
例えば筑紫女学園の漢文のテキストは10ページ程度。十分なのだ。実力のないのがやたら難しくカッコつけたがる。
朝課外授業で成績が伸びると信じる一部のオウム信者たち。早めに目覚めよ。こんな変なのがいない学校は楽しく成績を伸ばしている。
3流大学の論叢を見ると難しくて僕はよくわからない。よく考えると何にも言ってない。考えて損する。3流地方私大はやがて消える。簡単なことを難しく言うえせ天才たちは河原で自殺する。
では難しいことを簡単に理解させるにはどうするか。
やたら多くの教材にあたらず、わずかな文を繰り返すことによりだんだん漢文が体にしみこんでくる。桑野先生は僕が最も尊敬する先生だ。
古文も同じ。課外授業が好きな無能国語教師には吐き気がする。助動詞の活用を丸暗記させる。それは教えているその教員が出たレベルの大学ならそれで間に合ったに過ぎない。
コネ採用の彼女らは、パズルごっこをしていると自然と現代文になるという。ばか。そんなら最初から現代文で書けよ。古文を学ぶ意義を教員が分かってない。
オカマ先生を気持ち悪がらず学問の指導を受ける生徒たち。立場を自覚し知的好奇心からオカマ先生を尊敬する生徒がほとんどだった。オカマ先生は言った。からけん先生、助動詞なんて5個覚えれば十分ですよ。桐壷だけ何度もやる方がいいんだけど、そうよねえ。
別の例だが、尊敬する灘の橋本先生。自由な授業を保証してもらえばいい授業ができる。橋本先生はその典型だ。
福岡の先生は、いつも焦って、何かに追われ、怯え、イライラしている。そんなところに教育はない。