か ら け ん


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ウソはしきりと絶叫する   38

2018年01月20日 | 韓国

ソウル大教授の見解

1  どのように見なければならないか?  「若者よ、古い歴史観を捨てろ」

イヨンフン教授

1905年11月17日 大韓帝国は日本帝国に外交権を譲り渡す条約を結んだ。この後5年間、大韓帝国は日本の保護国となったが、1910年8月に完全な植民地になってしまった。その5年間にも大韓帝国は外形は維持し、また厳密にいえば植民地化への悲劇を避けることができた道がなかったわけでもない。

しかしながら結果においてみると大韓帝国は1905年11月17日に事実上滅んだことにほかならない。だから私は講義室ではあえてその日から日帝のもとでの植民地支配がはじまったのだと教えている。今からちょうど100円前のことだ。私は今、この文章を今日の韓国の若者たちがどんな歴史観を持たなければならないかということを主題に書こうと思っている。この主題を100年前、大韓帝国が滅亡した事件を中心に紐解いていこうと思う。

まず、その事件に対する現代の韓国人たちのまともな理解について話そうかと思う。2~3年前から私は2005年になれば韓国の歴史学会と社会科学会がその事件の経緯とその歴史的意義についてかなり活発な学術的討論の場を用意するものだろうと予想していた。非常に重要な事件でありちょうど100周年だったからだ。ところが2005年も過ぎようとしている今から振り返ると、私の予想は間違いも間違い大間違いだった。政治家たちとそれに歩調を合わせる一部歴史家が中心となり恥かしい歴史を清算しようとの声が大きくなった。しかし、その事件はなぜ起こったのか、その事件は今日韓国人に対しどんな意味を持つものであるのかという省察の声はほとんどない。

中、高校の歴史教科書からしてもそうだ。韓国紙の教科書を見ると1904年日露戦争までの歴史が述べられているかと思うと突然歴史の舞台が変わり独立運動の話が繰り広げられている。いつどのように国が滅んだかの記述が全くない。そんなだからいまだに韓国の公式歴史学会では、その悲しく恥ずかしい話を学生に正面から聞かせる勇気を持てないでいるのだ。このことはともすると韓国人に根深いプライド中心の考え方と関連があるようだ。

いつか韓国精神文化研究院に所蔵している古文書の展示会を開いたことがある。朝鮮の国王が清の皇帝に差し上げた外交文書にサインをしながら「臣何々」と書いた文書があった。私の前で以前政府の高位幹部をなさったある方が「あの臣という字はちょっと隠してしまおうか」とちょっと怒ったような声で言うのを後ろからついていきながら聞いたことがある。そのように恥ずかしかったら隠さなければならないという体面主義の考えは個人とか家系とか「私」の歴史であるのならいざ知らず国家の興亡盛衰という天下の「公」の歴史においては、決して許されることではない。

大韓帝国、すなはち朝鮮王朝が滅んだ話を聞くと気分がよくなる韓国人はいない。当時私の曽祖父は40代の壮年だった。その顔が今やあいまいな私のおじいさんは1885年生なのでちょうど20歳の青年だった。この人たちは朝鮮王朝の忠実な百姓だった。時期に会わせこの方たちのお墓にお参りもし儀式も行うのだが、私もいまだ朝鮮王朝の百姓なのかもしれない。ときにはそんな百姓認識の発露なのか。私は私たちにも王がいたらと思ってしまう。

 

次回用メモ   22-1-6段から

 


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