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#2022-05-20 00:44:11に記事にしましたが、図のリンクが切れていたので修復し、少し見直しました。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)
#仁徳天皇陵に関するいい動画を見つけました。ほとんどの方が記紀が日本の歴史書だと考えているようだとこの動画へのコメントからも分かります。そこで、コメント入れさせてもらいました。お付き合いください(*^▽^*)
本質家
@Blayz Bleay
元から北九州と朝鮮半島南部に日本文明圏があって、そこは新羅と一緒に大陸に朝貢していたが、日向・四国の大和王権はそうではなかったと思います。
鉄は最初北九州と朝鮮半島南部の日本文明圏が大陸から得ていたと思いますが、稲作などは日向・四国が南西諸島方面から伝えられたと思います。
そしてその2代勢力になる前から出雲にも勢力がいたが、これは神武東征で大和王権勢力に帰依して、200年年代半ばの三韓討伐で朝鮮半島南部が大和王権になったのです。
日本人が当時の黄河に行ったかどうかですが、日本自体が豊かで実り多かったので、畑作中心の貧しくて寒い地方に行ったとは思ません。
刮目天
@本質家 さん 日向は宮崎県ですか?ヤマト王権は3世紀末に纏向遺跡で成立していますが、そのシンボルである前方後円墳のルーツは寺沢薫氏の研究ではっきりと分かっています。主に吉備と北部九州と出雲です。
纏向遺跡では九州の土器がほとんど出土していません。あっても1%以下です。四国の讃岐と阿波の土器は三世紀初頭は見られましたが、中頃には消えています。考古学の成果から北部九州にあった倭国と纏向遺跡に居た勢力や集まってきた勢力とは対立する関係だと言えます。四国の勢力は三世紀中頃に倭国に着いたと見られます。
弥生後期後葉(二世紀末から三世紀初頭)の倭国大乱期に大分県大野川から阿蘇山麓にかけて鉄製武器製造の鍛冶集落が数多く作られ、熊本県山鹿市の方保田東原遺跡、菊池市のうてな遺跡に倭国に敵対する勢力が集まり、佐賀平野筑紫平野などを襲撃した倭国大乱の痕跡を発見しました(拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。方保田東原遺跡には山陰や畿内の土器が集まっており、狗奴国の最前線基地です。倭国に対抗する勢力ですから、纏向遺跡が狗奴国の本拠地だと考えられます。
(左クリックで拡大)
そして、古墳時代初頭(三世紀中頃)から東海や畿内の勢力が九州に集まってきます。纏向遺跡の狗奴国勢が倭国に遠征したと推理しました。
卑弥呼の死後に倭国王に立った尾張王ヲトヨノミコト(記紀の仲哀天皇)を倒して、13歳の台与(記紀の神功皇后)を卑弥呼の後の女王に立て、魏を後ろ盾にして倭国王に立ったのが大国主久々遅彦(記紀の武内宿禰)でした。
大国主が半島から入手した高温鍛冶の技術を気前よく傘下に普及させましたので、後世、最も人気のある神様として様々な名前で日本全国で祀られています。
そして、三世紀後半に、記紀の景行天皇の九州遠征のルートに鉄鏃・銅鏃が出土し、環濠や溝で発見されたものは矢戦の痕跡と見られます。また崇神天皇紀の四道将軍のルートやヤマトタケルのルート上にも見られるようになり、日本列島が狗奴国と敵対する倭国の勢力になっていて、それを統一する様子が見られます(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。
つまり、日本書紀の話は日本建国の史実を隠蔽するために史実を改ざんしたものだと分かりました。
日本建国に纏わる大国主の国譲りも神武東征も神功皇后の東征も藤原不比等が創作したもので、建国の真相が考古学の成果から分かりましたよ。
ですから、記紀の話に基づく想像は、事実に基づかない話ですから、それに固執するのは古代妄想なのですよ( ^)o(^ )
詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」にありますので、ご参照されてから疑問点を教えてください。よろしくお願いします(^◇^)
【関連記事】
【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)
大国主に父の尾張王(記紀の仲哀天皇)を討たれた仇討ちで、建稲種命が九州に遠征しますが、苦難の末に成功させました。記紀では景行天皇の九州遠征の話になっていますが、詳細に語られていますので、様子が分かりました。さるカニ合戦はこの時の仇討ち話だったのです。建稲種命は東国遠征の途中で流れ矢に当たって戦死したようですので、建国の主役を隠すために登場させた英雄ヤマトタケルのモデルにされています。熱田神宮に祀られています(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その3)」「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照 )。
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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>今晩は😊今日は韓国からの海路と糸島に辿り着く迄を、お願い致します。福岡の後はこ... への返信
魏志倭人伝の行程記事ですね(#^.^#)
これは、前に述べたかと思いますが、多くの皆さんが考えているようなものではなく、政治的に作ったものなのです。でも全てデタラメではないと思います。帯方郡の西の岬から魏の大型船で半島の西海岸に沿って下り、済州島との間を東に進んで狗邪韓国(今の金海市)に到着したようです。ここはすでに倭の領域だと見ています。つまり倭人が沢山住んでいます。七千里は大袈裟ですが、文献によれば海路の一日を千里としたようです。魏の皇帝の詔勅と大量の贈りものを持っていくのに、威厳を持たせるために丸木舟と言う訳にはいかないので、大型船を想定するのが正しいと思います。
そして対馬・壱岐・末盧国までそれぞれ千里ですから、三日かかっています。末盧国を多くの方は唐津あたりに到着したと見ていますが、東松浦半島の呼子から唐津に行くのでしたら、糸島は見えていますから、間違いだと思います。末盧国は大型船が長期間停泊できる伊万里湾に行ったと推理しています。ですから、そこから草木が茂っている陸路で糸島市伊都国まで陸路で東南五百里として、伊都国から奴国まで東南百里なのです。伊都国から奴国まで20km弱ですから、1里435mですので、50里いかですので、百里は過大な里数です。実際の方角も北東ですから90度くらい誤魔化しています。これは、邪馬台国を南側に持っていくためです。なぜ、そのようなインチキをするのかは前に述べていますが、姫巫女の卑弥呼を倭国の女王ということにして、その居城のある邪馬台国を対呉戦略で会稽郡東冶県の東海上で挟み撃ちする東夷の大国とするためです。ですから、本当の王都は伊都国なのですが、そこにでは都合が悪いので卑弥呼を女王ということにしたのです。これは、伊都国というとても深い意味のある国名となっていることから判明しています。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照してください。
ここから先の魏志倭人伝の記述は、末盧国から邪馬台国までの実際の行程を基にして作ったものだと推理していますので、詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」をご覧ください。このようなことは考古学や民俗学の成果から邪馬台国の場所を推理して分かったのですよ。ですから、行程記事から邪馬台国の位置を決めることは、みんなが納得できないということなのですよ。
あなたがおっしゃるとおり、行程記事が曖昧だから解決しないというのは正しいですが、誤魔化しがあるためなのですよ(^_-)-☆
貴blogに触発され、2~3世紀解説のYouTubeを時々見ます。
今疑問に思っているのは、武蔵国氷川神社です。もちろん出雲国の斐川を神格し、素戔嗚尊を祭神としています。
ここで、出雲の大国主命では無く、その祖先の素戔嗚尊を祭神としています。出雲族が、武蔵に、大国主命の時代より、遥か昔に来たと言う事は、どういう事なのか?と。
八雲立つ武蔵野行けど冬の風
急に寒さが増しました。体調には十分ご注意下さい。
jikan様からのとてもいいコメント,嬉しいです!
お返事が長くなったので記事にしました。よろしければまた、ご覧ください(#^.^#)