いつも、ありがとうございます。
よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
(帯方郡に使者を派遣した卑弥呼の死から帯方郡が滅亡するまでの約70年間の物語)
古代史ハルキー@YouTube
卑弥呼の死から帯方郡滅亡まで一気に解説されたので目が回ってしまいました(;^ω^)
ハルキー様に追いつくためにゆっくりと勉強させていただきます(#^.^#)
それで、陳寿は魏志倭人伝で卑弥呼の死後の話をかなり誤魔化しています。台与が朝貢した年は、どう考えても卑弥呼が死んだ年ではなくもっと後になると推理しています。ちょっと長くなったので、よろしければ拙ブログ「魏志倭人伝を推理する(その2)」にお付き合いください( ^)o(^ )
卑弥呼の死の直前、正始八年(247年)に帯方郡太守王頎(おうき)が着任し、卑弥呼が送ったとする使者たちが狗奴国との紛争を報告したので、王頎が郡使張政を倭国に派遣しました。すでに正始六年(245年)に難升米に渡すために郡に留め置かれた詔勅と魏の正規軍旗「黄憧」を持って、その年に倭国に到着したときには、すでに卑弥呼が亡くなっていたとあります。径百余歩の冢がすでに作られていたとありますから、土を盛っただけの直径約150mの円形墳墓です。
難升米は景初三年(239年)六月に帯方郡に魏への朝貢のために訪れ、そこで約半年間も滞在し、十二月に詔勅が出て太守劉夏の部下に護衛されて洛陽入りしました。皇帝に謁見すると、卑弥呼を絶賛する詔勅を賜ります。親魏倭王の金印紫綬と豪華な贈り物、そして使者の難升米や部下まで官位を賜ります。その詔勅の内容がほぼ全文魏志倭人伝に記載されているのですから、倭国を朝貢させた司馬懿を称揚するために陳寿が魏志倭人伝を残したと分かります。司馬懿はこの半年間で正式に少帝曹芳の太傅(後見役)となり、さらに人事や詔勅に口出しできる録尚書事に就いています。東夷の朝貢は「晋書」でも西晋宣帝とされた司馬懿の功績だったとしています。
それで話をもとに戻し、魏志倭人伝に、張政が到着して直ぐに、更めて男王が立ったけれども、国中が服せず、約千人が殺される内戦が勃発したとあります。これをどう推理するかです(#^.^#)
「黄憧」を賜っていた難升米は、すでに倭国の軍権を掌握していた実際上の倭国王だったと考えられます。つまり、卑弥呼の政治を補佐する男弟とされた人物であり、女王国(つまり邪馬台国)より北の国々を検察する刺史のような地位の一大率(だいそつ)です。伊都国に駐在し、洛陽や帯方郡の使者が来た時には女王への文書や贈り物を確認して間違いなく女王に届けるとありますから、伊都国に居たとされる男王のことだと分かります。
そして、倭国が乱れる前の七・八十年間は男王がいたとあるので、107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくは第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った奴国宮廷楽師の師升、詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」参照)の子孫だと分かります。難升米は師升の子孫で米は「頭目(かしら)」の意味があるので、師升の子孫の倭国王ですが、師升はスサノヲを追放したので、儺(「鬼やらい」の意味)に改姓され、儺升(師升)の後継者の倭国王という名前だったのです(当時、倭を委と書くなど、ニンベンを省略するのが流行だったようです。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。
ですから、魏志倭人伝に記載された邪馬台国への行程記事などは難升米が司馬懿の部下の劉夏と談合し、司馬懿の功績を実際よりも大きなものに粉飾したと分かります。つまり、卑弥呼を郡から東南方向に万二千余里も離れた居城に千人の侍女とともに居たことにして、倭国を投馬国五万戸・邪馬台国七万戸などを合わせると約十五万戸もの東夷の大国に見せかけたのです(注1)。
つまり、卑弥呼は本当は倭国を統治する女王ではなく、太陽神の神託を告げる姫巫女だったのです。卑弥呼の居城を女王の都「邪馬台国(ヤマコクに住む女王の国の意味)」として誤魔化して、実際の卑弥呼の居城に基づいて難升米が行程記事の内容を漢字で書いて劉夏に教えたもので、司馬懿の裁可を得たものだと分かります。だから、どのようにでも解釈できる行程記事となっており、これをいくら正しく解釈しても、万人が納得できる邪馬台国の場所にはたどり着けないのです。それ故、邪馬台国の位置論争が江戸時代の新井白石から現代まで三百年間も続いたのです(詳細は「魏志倭人伝の真相「空白の150年」に何があったのか?(その2)」参照)。
このことを理解すれば、邪馬台国とした卑弥呼の居城は倭人伝のその他の記述から探す必要があるのです。そして卑弥呼の巨大円形墳墓の候補「三柱山古墳」を発見しましたが、詳細は「【謹賀新年】今年の始まりも邪馬台国!( ^)o(^ )」をご参照ください。
卑弥呼の死後の話に戻して推理を続けます。
倭国王難升米が改めて王に立っても国中が服さないなどということは考えられませんので、難升米はどこかに隠れ、倭国は王不在の状態だったので、誰か別の人間が王に立ったと見るのが妥当です。
丁度、狗奴国との紛争が激化したと考えられる時期ですので、狗奴国軍が倭国に到着したために、難升米が倭国を逃亡したのだと考えられます。従って、千人が殺される大規模な戦闘は狗奴国軍内部の紛争だったと考えられます。
もしも倭国遠征軍の大将が狗奴国王卑弥弓呼だったならば、直接軍を率いて倭国に到着した狗奴国王に不服な狗奴国側の人間が居るとは思えませんので、これも内戦になるはずはありません。ですから、遠征軍は狗奴国の有力者が大将として軍を率いてきたと推理できます。遠征軍が到着するという情報を得た倭国王難升米は恐れをなしたのか、遠征軍に対抗できないと判断して逃亡したということだと思います。従って遠征軍の大将は無傷で倭国を手に入れたので、狗奴国王を裏切って倭国王に立ったとすれば、遠征軍内部の不満な勢力との間に内戦が発生し、多数の死者が出たということです。
結局、この内戦の勝利者が13歳の台与を卑弥呼の宗女として女王に立てたと分かります。
そこで張政が再び登場し、檄文を以って台与に告喩します。つまり、この勝利者が実際上の倭国王になったので、「魏が後ろ盾になるから狗奴国と対峙せよ。そして狗奴国を滅ぼせ」という内容の檄文だと分かります。
張政は、狗奴国軍が到着したときにも、捕らえられたのですが、遠征軍の大将に狗奴国を裏切って魏を後ろ盾にするよう必死に説得したので、それに従った大将が倭国王に立ったのだと推理できます。そして内戦が終わるとまた勝者に捕らえられたので、勝者を説得したのです。二度も危うく殺される状況をうまく切り抜けた、とても有能な人物だったようです。狗奴国を裏切って倭国王に立った人物を説得して魏の同盟国にした功績が後に評価されて下級役人から帯方郡太守にまで出世できたと考えられます(注2)。
さて、内戦が収まって、掖邪狗ら二十人が、男女の生口(奴隷)三十人と白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を献上するために再び朝貢したと読めます。青大句珠は大きな青色の勾玉のことです。倭人伝には年号が記されていないので、その年(247年)に朝貢したということですが、大きな戦乱があった直後ですからとても信じられません。
そして、掖邪狗(ややく)という人物は、すでに卑弥呼の死の四年前の正始四年(243年)に倭大夫伊聲耆(いせぎ)とその他八人の使者と共に魏に朝貢しています。正使伊聲耆は何らかの理由で皇帝に拝謁できず、正使に替わって掖邪狗ら八人全員に率善中郎将の官位と印綬が授けられています。この官位は倭国王難升米と同じものですから、魏から見ると同格だったようです。
先述のとおり倭国王難升米が正使を伊聲耆と書いたのですが、意味のある漢字をあてています。「伊」は聖職者を意味し、「聲」は声ですから、密室でトランス状態の巫女に憑依した太陽神の神託を聞いて、その内容を解釈して部下や民衆に伝える縄文系のムナカタ海人族のシャーマン王(族長)だと分かります。倭人語で「イセ」と呼んでいたと考えられます。「耆(ぎ)」は老人の意味ですので、体力が持たず、正使の役目を果たせずに途中で亡くなったのでしょう。伊聲耆は天理市和邇坐赤阪比古神社で祀られた人物と推理しました。現在の祭神は宗像三女神の市杵嶋姫命となっています。卑弥呼の正体は宇佐神宮の祭神比売大神とされた市杵嶋姫命です。伊聲耆は卑弥呼の父赤坂比古で、和邇氏の祖だと推理しています(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」参照)。
また、掖邪狗は副使を表す「脇役(わきやく)」と同時に「稚児(ややこ)」いう意味にも取れますので、父の伊聲耆が亡くなって跡を継いで部族長となった卑弥呼の弟赤坂比古のことだと推理しています(当時の王名は、首長霊信仰から普通、襲名となっています)。頼りない若造だったので難升米がバカにして付けた名前でしょう。難升米は、おおむね漢字を読み書きできない縄文系の人間などには卑字をあてているようです(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」「倭人語解明のヒントだ!(^_-)-☆」参照)。
そして台与のこれらの献上品によって倭国は珍しい宝石の島という評判が立ったと王勇「中国史のなかの日本像 」(農山漁村文化協会2000)にありますので、青の大きな勾玉はガラス製ではなく、珍しい糸魚川産の青ヒスイだったと考えられます。つまり、台与も近江・北陸・越を支配するムナカタ族の姫巫女だったので卑弥呼の宗女とされたと推理できます。
ですから、先ほどの内戦の勝利者は、遠征軍の大将ではなく、山陰から近江・北陸・越のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗だったのです。豊岡市久久比神社の祭神久久能智神(くくのちのかみ、久々遅彦)で、上棟式祭神とされる木の神です。スサノヲの王子で木霊イタケルの子孫で、出雲・丹波王の襲名でした(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)」参照)。そうすると、久々遅彦に殺された狗奴国軍の大将は狗奴国の有力者だったと分かりますね(^_-)-☆。
この史実は日本書紀の中で仲哀天皇の熊襲征伐の話とされています。
ヤマト(纏向遺跡)から遠征した仲哀天皇は下関市豊浦宮で、敦賀から出発した神功皇后と落ち合い、福岡市香椎宮で武内宿禰が奏でる琴によって皇后に憑依した住吉大神(スサノヲ)の神託を疑ったために、突然崩御したとあります。史実はスサノヲの子孫久々遅彦(五代の天皇に仕えた三百歳の武内宿禰、記紀神話の大国主)に討たれた尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の子孫ですので卑弥弓呼大王崇神天皇と同族の有力者)を仲哀天皇としたのです。ニギハヤヒ大王の都の倉敷市上東遺跡から、その子孫が纏向遺跡に遷都し、列島各地に散っていた狗奴国(旧奴国)の勢力を呼び集めました。纏向遺跡の外来土器の約半数が東海の土器ですから、狗奴国軍の大将が尾張王だと推理しました。神功皇后は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)ですので、そのモデルである台与は近江を根拠地とする息長氏の祖と分かります。卑弥呼の死の直前の状況は下図のとおりです。
卑弥呼の弟赤坂比古が、卑弥呼の死を知って、向かってくる狗奴国軍に対して戦意喪失したので、倭国王難升米は再起を図るために親魏倭王の金印を持って帯方郡に逃亡したと見られます。しかし、帯方郡に苦労してたどり着いても、すでに張政が台与を卑弥呼の後継者にしたことを帯方郡太守に届けた時点で、難升米は魏にとって最早用済みとなって暗殺されたはずです。
弟赤坂比古はかつての主筋の久々遅彦に味方して、乎止与命を鳥栖市まで追いかけて直接討ったと推理しています。九州最古級の前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳に乎止与命を葬ったと推理しています。
ですから、久々遅彦の配下になった掖邪狗(弟赤坂比古)が朝貢したと分かりますが、これだけの大混乱があった正始八年であると考えるのは無理があります。しかも、途中で張政を帯方郡に送り届けたとあります。しかし、大混乱の後に新政権が生まれたばかりで、まだ落ち着かない時期ですから、有能な張政を外交顧問として倭国に滞在させたはずですので、即帰還させるはずありません。先述のとおり、下級役人の張政が後に帯方郡太守にまで出世していると考えていますので、張政が帰還する時期はもっと後の倭国の情勢が沈静化した時期になるはずです。魏から西晋に帝位が禅譲された翌年の泰始二年(266年)であるとすれば、台与が一世一代の献上品を贈ったことともつじつまが合います(詳細は「 【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)」参照)。
ということは、魏志倭人伝には実は、泰始二年(266年)の西晋の起居注にある倭女王の朝貢のことまで書かれていたのです(注3)。陳寿は司馬懿の功績を称揚するために、台与のこの朝貢を載せる必要があったから年号を隠したと推理できます。
この後の話は、要点だけ述べると、尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル)による仇討ち(記紀の景行天皇の九州遠征、詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)とその後の日本建国の戦い(記紀の崇神天皇の四道将軍の遠征・ヤマトタケルの東国遠征、詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)の結果、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)が倭国を滅ぼして日本を統一しました。しかし、狗奴国の後ろ盾にしていた呉が280年に西晋に滅ぼされて、久々遅彦(記紀神話の大国主)と台与の子(応神天皇)を纏向遺跡に呼び寄せて、両親の祭祀王とすることにより、狗奴国を邪馬台国の後継国にしたので纏向遺跡をヤマト(邪馬台)と呼ぶことにしたと推理しました(詳細は「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」参照)。これがヤマト王権の成立になります。詳細は、「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。
(注1)当時、戦乱で人口が十分の一まで減って十万戸の洛陽から遠く離れた大国が魏の皇帝を慕って朝貢するのは皇帝の徳の大きさを表すものなのです。
それまでの魏では、蜀を挟み撃ちにする十万余戸の西域の大国、大月氏国(クシャン朝)の波調王(バースデーバ)を朝貢させた曹操の甥の曹真が一番の功労者でした。洛陽から首都カーピシ(現在のアフガニスタンのバグラーム)まで万六千三百七十余里と知られていました。曹真は直ぐに病死したので、長男の曹爽(そうそう)が親の功績で大将軍の地位にあり、少帝を支える司馬懿の最大のライバルだったのです。公孫氏を滅ぼした司馬懿は、倭国を朝貢させて、曹真を上回る功績にしたいので、洛陽から帯方郡まで五千余里ですから、洛陽から万七千余里に倭国王の居城の邪馬台国を置く必要があったのです。本当の倭国王の都伊都国では近すぎるので邪馬台国は帯方郡から東南万二千余里の位置にある戦略上最も重要な同盟国としたかったのです。
(注2)しかし、もしも難升米が張政を伴って帯方郡に逃亡していたらその後の状況は随分と違ったはずです。しかし有能な難升米は張政を連れて行こうと考えたはずですが、張政が狗奴国軍から隠れたのでしょう。したがって難升米がたとえ帯方郡にたどり着けたとしても、魏にとってはすでに用済みなので、抹殺されたと考えられます。そして、その後の日本の古代史が悲劇となったのも、この人物には責任はないのですが、張政が居なければ恐らく内戦にはならなかったと考えられますので、日本にとってもとても残念な出来事でした(張政の詳細については「【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)」参照)。
(注3)■わが国出土の「位至三公鏡」(第412回 邪馬台国の会 活動記録より)
わが国から出土した「位至三公鏡」(「双頭竜鳳文鏡」をふくむ)35面の出土地などの一覧表は、先出の拙著『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』(勉誠出版)に示した。
わが国から出土した「位至三公鏡」については、次のようなことがいえる。
<中略>
(7)倭国は、西晋王朝と、外交関係があった。『日本書紀』の「神功皇后紀」に引用されているところによれば、西晋の『起居注』(西晋の皇帝の言行などの記録)に、西暦266年に倭の女王が晋に使いをだしたことが記されている(この倭の女王は、卑弥呼のあとをついだ台与であろうといわれている)。『晋書』にも、この年、倭人が来て入貢したことが記されている。[『日本書紀』は、卑弥呼と台与の2人に、神功皇后1人をあてている。これは、比定(ひてい)の誤りとみられている]
倭の使いが、外交関係にあった西晋の国から鏡をもたらしたとすれば、その鏡の中には、「位至三公鏡」がふくまれていた可能性が大きい。
「位至三公鏡」などのこのような傾向からみれば、西暦300年近くまで、中国と外交関係をもった倭は、北部九州に存在していたようにみえる。
最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )