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【刮目天の古代史】倭国王帥升のなぞ( ^)o(^ )

2025-01-19 16:54:28 | 古代史

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日本の歴史上の最初の人物としてシナの文献(范曄「後漢書 東夷列伝倭条」)に登場するのはこの人物です。ほとんどこの人物については知られていませんが、正しくは師升ですので、奴国の宮廷祭祀を担当していた人物です。紀元前219年に奴国王(海神・水神)の要請で来日した方士徐福の一行のシナ人の楽師の子孫だったと推理できます。北部九州などで出土した小銅鐸は奴国宮廷祭祀で使われたものでしょう(詳細は「小銅鐸は奴国の宮廷祭祀用か?!(^_-)-☆」参照)。

 

この時の奴国王は宋史 王年代紀十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)です。記紀神話では高天原から追放されたと暴れん坊の神とされています。十六代王伊弉諾尊(イザナギ)と縄文系ムナカタ海人族の姫伊弉冉尊(イザナミ)との間に生まれた人物です。スサノヲ大王は半島南部の鉄素材を入手するために、丹後半島の玉造工房を整備し、ムナカタ海人族と生活を共にして縄文文化に親しみました。そのため、王宮(春日市須玖岡本遺跡)を留守することが多く、宮廷祭祀を師升らに任せっきりでした。たまに王宮に帰還すると縄文式の大きな「見る銅鐸」を祭祀に導入するように命じたのだと推理しています。そのために、師升らは反乱を起こし、スサノヲを捕らえて拷問した様子が古事記に見られます。つまり、後漢光武帝より賜った金印の在りかを白状させ、奴国王に成りすますためだと考えられます。しかし、いち早くスサノヲの部下が持ち出し、逃亡する途中で志賀島に立ち寄り、土の中に隠したことが江戸時代になって百姓によって発見されたのです。師升王は金印が手に入らなかったので160人ものスサノヲの家臣らを後漢に奴隷として献上して倭国王に認められたということでしょう。

 

倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)

 

奴国宮廷楽師らが反乱を起こし、王に立った師升が伊都国に王都を遷し、新しい王宮(糸島市三雲遺跡、井原鑓溝遺跡は師升王の墓と推定)で祭祀を整えたと分かる証拠が、糸島市の東隣りの福岡市西区を流れる室見川の河口で1948年に発見されています。後漢安帝の延光四年(西暦125年)と彫られた黄銅製の文鎮状の金属片「室見川銘板」です。現存する日本最古の金文です。祭祀にこだわる内容の文字が彫られているので、師升王は奴国の司祭だったと分かりました。


【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆

魏志倭人伝に現れる伊都国というのはとても深い意味のある国名で、魏の役人が書いたものではないことは明らかなのです。

Wiktionary「伊」にその語源が以下のとおり説明されています。

「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。

倭国王となった師升は、楽師の姓である「師」を「儺」に変更して儺升としています。「儺」の文字は「追儺(ついな)」、つまり「鬼やらい」を意味します。当時はニンベンを省略する減筆が流行していたようですので難升と書かれます。魏志倭人伝に景初三年(239年)六月に帯方郡に訪れた倭大夫難升米は師升王の一族の人物だったと分かります。記紀で「米」は「頭目(かしら)」を意味する文字でもあるので、難升米は師升王の子孫の倭国王という意味だったのです(「儺升」も難升米が作ったのかも知れません)。

難升米は、放蕩者の王を追放した伊尹の事績を司馬遷「史記 殷本紀」や「孟子・尽心上篇」から知っていたので、楽師師升の事績と重なるとして「伊都国」という国名を漢字で書いて帯方郡太守に教えたのです。難升米以外に伊都国と漢字で書ける人物は居ません。つまり、魏志倭人伝に記載された倭国の人名(役職名)や国名は難升米が書いたものだと判明しました。

伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆


伊都国の意味がヒントだった?(@_@)

したがって、邪馬台国への行程記事はある政治目的で難升米と帯方郡太守の談合で作られたものであると推理できるのです(詳細は「【邪馬台国問題】陰謀論と陰謀説を区別しましょう(^_-)-☆」参照)。ですから、行程記事をいくら正しく解釈しても、邪馬台国への正しい場所にはたどり着けないのです。だから、江戸時代から三百年かかっても解決できなかったのです。

このことを認めれば、行程記事は一度横に置いて、邪馬台国に関するその他の記述から候補を探すことで問題を解決できます(^_-)-☆

そして、卑弥呼の墓の有力な候補「三柱山古墳」を発見しました。よろしければ「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(#^.^#)

【関連記事】
【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)
徐福が弥生の産業革命の担い手を連れて来たので、良くも悪くも、その後の日本の歴史が大きく変わったのですよ(^_-)-☆

 

(注1)「倭人(Y-DNA O-47z)」というのは、日本人の古い呼び名です。様々な意味があるように言われていますが、後漢説文解字: 「倭」の項に、<人部> 順皃従人委声「順なる貌(すがた)。人に従い、委(ゆだねる)の声」とあります。つまり、倭人は「支配者に従順な人々」という意味が本当のようです(詳細は、「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。

倭人の発祥の地はシナの新石器時代の長江下流のようです。紀元前五千年頃から世界最古のイネ栽培を行っていたことが浙江省河姆渡遺跡で1973年に発見されています。イネの他に「ヒョウタンヒシナツメハスドングリなどの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジシカトラクマサルなどの野生動物などの水生生物ブタイヌスイギュウなどの家畜も発見された。」とあります(wiki「河姆渡文化(かぼとぶんか)」)

紀元前三千五百年ころから良渚文化の担い手の原始夏人(Y-DNA O1a)が先住民の倭人の居住域に登場しました。彼らは倭人を使役し、宮殿と取り巻く城郭都市墓地工房などの中国最古級の都市遺跡を建設したと推理しています。

この良渚文化は紀元前二千二百年ころ突然消滅し、その遺民が紀元前千九百年ころ黄河中流域で二里頭遺跡を建設したことが古い伝承に見られます。三皇五帝神話では人類の始祖神天皇伏羲と人皇女媧の子孫の禹(う)が夏王朝を興したとなっています。これが呉の太伯の祖先ということで、初代奴国王天御中主の祖先、つまり皇祖神ということになりますよ(^_-)-☆。

詳しくは「中国神話は日本人の神話だった?」をご参照ください(#^.^#)