刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古代史ってホントに楽しいですね!(^_-)-☆

2025-01-14 16:53:51 | 古代史

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#拙ブログやYouTubeでいつもいいご意見をされている博識のYOさんから、前回の記事「亶州(たんしゅう)は日本の古名?!」に、またまたいいコメントを頂きましたので以下に記事にしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

タイトル:魏志だけだと辿り着かないんですよねぇ (YO)2025-01-13 23:08:54

夷州亶州は、台湾と九州かなぁというのが率直な感想です。
構成も「倭人」だとわかってたんじゃないかなぁ。

おっしゃるとおりですよね(^_-)-☆

夷州(いしゅう)は陳寿「三国志 呉志 呉主伝」と范曄「後漢書 東夷伝」などに登場し、三国志の時代には台湾というのが定説ですね。呉の武将で丹陽太守の「沈瑩(しんえい、? - 280年)」の著書『臨海水土異物志』に書かれていたとあります(wiki「沈瑩」)。

亶州も、夷州と共に「三国志」にありますが、それ以前の前漢時代の司馬遷「史記 秦始皇本紀」などの徐福関連の記事に登場します。始皇帝二十八年(BC.219年)に徐福は始皇帝に「海中有三神山 名曰 蓬莱 方丈 瀛洲 僊(仙)人居之」つまり、海の中に仙人が居る三つの神山「 蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)」があると説明しました。「瀛」は「海(うみ)」を意味する漢語ですから瀛洲は日本を指すと言われています。そして、「童男女数千人」を得て海に入り仙人を求めたとあります。三十七年(BC.210年)に、徐福は海に入って神薬を求めたが数年たっても得られなかったので、始皇帝の咎めを恐れ水神が放った巨大な魚が邪魔しているので退治して欲しいとウソをついたとあります。徐福が直接、始皇帝に言った話ではないはずです。

史記 淮南衡山列伝」の中で、「遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行(童男女三千人と五穀の種と多くの技術者)」を海神が要求したので始皇帝が徐福にこれらを持たせると、徐福は平原・広沢の王となって戻ってこなかったとあります。海神は水神とも呼ばれているので当時の倭国(北部九州)を支配していた初代奴国王(ナーガ=龍蛇神国王)天御中主の子孫の奴国王のことです。春日市須玖岡本遺跡を王都とし、その横に青銅祭器の官営工場須玖タカウタ遺跡があります。徐福が連れて来た冶金技術者を使って、列島最大の奴国の交易センター比恵・那珂遺跡にやって来る列島各地の縄文系倭人及び江南系倭人(アズミ族)らに奴国王への臣従の印として青銅祭器を与えたと考えています。つまり、奴国王が倭人の交易を管理して、対外交易を独占し繁栄したので、西暦57年には後漢光武帝から金印を賜るようになったのです。平原・広沢は恐らく徐福に関する数多くの伝承がある佐賀平野だと考えています。吉野ケ里遺跡の北内郭は古代シナの城郭の影響を受けていると言われますので、徐福が連れて来た土木技術者やその子孫がかかわったと推理できます。機織り技術者も徐福が連れて来たたようです。亀山勝氏は著書「安曇族と徐福」の中で、徐福が弥生の産業革命を興したとしています(詳細は「【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)」参照)。


だが、倭は燕地の所属だし、呉地越地にいるとは書けなかったのかもしれませんね。先人の書いたことを曲げるのはなかなか難しいようです。

なるほど、そうですね。

戦国時代から秦・漢代にかけて成立した最古の地理誌「山海経」に「蓋國在鉅南 倭北 倭屬蓋国は鉅(大国の)の南、倭の北に在り、 倭はに属す。)」とあります。蓋国は今の平壌あたりの箕子朝鮮(殷(商)人Y-DNA O1b2*)のことでしょうか(詳細は「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)

上述のとおり紀元前三世紀末に奴国王が対外交易を支配する前は、倭人が燕王に許されて、個々に遼東半島まで行って交易していたということだと思います。

朝鮮半島には七千年前の鬼界カルデラ噴火のために九州の縄文人(Y-DNA D-M55)が半島に逃げて、生活していました。殷(商)王朝末期(紀元前十一世紀)に朝鮮半島の北部に箕子朝鮮(蓋国)が成立し、その南、つまり朝鮮半島の南部は箕子朝鮮以前からかは不明ですが、江南の倭人(呉人、アズミ族、Y-DNA O-47z)と縄文人が居たと考えています。

西遼河人(Y-DNA N1)や江南の呉人と混血した半島の縄文人が縄文時代晩期(紀元前九世紀)に唐津市菜畑遺跡や福岡市板付遺跡などで水田稲作を始めたようです(通説では混血は列島内で行われたとしています)。弥生時代前期になって本格的な灌漑技術を持った江南系倭人が北部九州にやって来て、遠賀川式土器を持って列島各地に灌漑水田耕作を展開していったと考えています。東海・北陸・関東・東北地方などでは在地の縄文系の人々が遠賀川式土器を真似た遠賀川系土器がでています。下の図はアズミ族が住んだ場所を示したものですが、時代は必ずしも弥生前期とは限らず、中期の場所も混在しているようです。

 


東鯷人もそうでしょう。ワイ的にはこれも「九州」かと思ってるんですが、人によっては「関東」とか「吉備」だとかおっしゃられてます。東鯷人が会稽に属してるんだからそんなに遠くではないと思うんだがなぁ。。

全く同感です。

東鯷人の「鯷」については、異文体の「鮷」「鮧」「䱱」がほぼ「なまず」なのでナマズで良いかなとは思っております。呉人の「提冠提縫」の「提」の字は「鯷」の意味で「なまずの冠」を被る人という話もあります。
その「呉」の東なので「東鯷人」「東夷人」「東鮧人」なのかなぁと。

ええ、調べたら古い文献にありますね。阿蘇にナマズを祀る鯰神社というのがあるので、地名にお詳しい谷川健一先生の一押しのようです(#^.^#)

刮目天さまが「カタクチイワシ」説なのは知っております。が否定してるのではなく、何事も確定だとは考えずにいろいろ「思考実験」するのが楽しいかなぁと思っております。

どうも有難うございます。分かっていないことを、いろいろと考えるのはとても楽しいものですネ(#^.^#)。

後漢の班固・班昭らによって編纂された漢書』には、地理志呉地条に「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歲時來獻見云。」とあり、ほとんどの方はを「ナマズ」としてますが、東鯷人について記された現存する最古の資料は楊雄「法言」(西暦14~18年完成)とあります。そこには「黃支之南、大夏之西、東鞮、北女、來貢其珍(南に在る黃支。西に在る大夏。東の鞮、北の女(女真?)がそれぞれ珍しいものを持ってくる。)」とありますので、東鯷人は東夷の国の倭人だと判断しました。

会稽の先の東に分かれて二十余国の倭人が時折、魚を持ってくるわけです。倭国なら百余国ですからその一部に固まった地域ということになります。

日本列島の中でナマズが特産品というのは、ネットで調べると埼玉県吉川産が代表的なようです。中華料理の食材として使われるそうです。食べたらうまいのでしょう。

ですが、ナマズは河川や湖沼に生息する淡水魚ですから日本列島内の一か所に集まって二十余国の人たちが取るような感じでもなさそうです。シナでは広東省・江蘇省などでも取れるのですから特別珍しいものではないようなので、ナマズではないな!と直感です。

」をネット辞書で調べると「ヒシコカタクチイワシ」とあったので、産地を調べると済州島と半島西南部との間に楸子(チュジャ)群島というのがあって、暖流と寒流がぶつかり合う最良の漁場のようです!塩辛が特産品とwikiにあります。卑弥呼よりも前の時代から多分、周辺二十余国の倭人が古くから漁をしていたんだと思いますよ(^_-)-☆

 


 


YOさんにはいつもながら感謝・感謝です。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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