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#一応、最も有力な候補地が見つかり、卑弥呼についていろいろと推理してきました。邪馬台国問題はきっと今年も話題になることでしょう。
昨年の暮れには、いつも参考にさせていただいている河村哲夫先生の以下のいい動画を見つけ、例によって不躾な長いコメントをしましたが、広い心でハートマークを付けていただきました。心から御礼申し上げます。
後でコメントを少し修正して掲載しましたが、よろしければ、お付き合いください(#^.^#)
第37回邪馬台国をゆく⑥朝倉・杷木1/2 ~女性千人と共に暮らす卑弥呼の居場所
いい解説を有難うございます。とても勉強になります。
いくつか候補が出てきましたので、ご説明のとおり、どれが最も可能性が高いかは魏志倭人伝にある邪馬台国の条件との一致を見ていけば分かりますね。
ただその条件として挙げた項目で、例えば、金印、鏡や絹織物などは見つけた人が容易に持ち運べるものですから決定的な証拠にはなりにくいので、全て同等にして採点しても正しい答えは得られないかもしれませんね。
つまり、邪馬台国の条件には優先順位があるはずです。
最も優先度が高いのは卑弥呼の墓で「径百余歩の冢」、つまり直径約150mの日本最大規模の円形墳墓です。しかも卑弥呼の死の前後の記事から、急造りのもので(注1)、その横に奴婢百余人が殉葬された場所とその近傍の集落に卑弥呼の宮室があったと考えられますから、墓を中心に、少し離れた場所に比較的大きな集落があったと考えるのは多くの方が納得いただけるかと思います。
当時の最大規模の集落で最大の交易センター比恵・那珂遺跡群や春日市須玖岡本遺跡に王宮や青銅器の官営工場が奴国にありましたので(最盛期で約60haの吉野ヶ里遺跡の4倍)、それを含めて奴国二万余戸とありますので、邪馬台国が七万余戸と記載されたり、侍女千人というのは、倭国を大国に見せかけるための潤色と考えられます。
大体シナ人の千という数字は沢山の数を表現するものですから、そのまま受け取れません。
殉葬したのは奴婢百余人だけですから侍女は奴婢と考えて、その程度の数と見ていいと思います。そして、卑弥呼を警護する兵士も居ましたので、同数かせいぜいその倍とみても卑弥呼の居城はせいぜい百戸でしょう。その近くに吉野ヶ里遺跡程度の大集落があって長官が居たと考えていいと思います。
日本最大規模の纏向遺跡(約300ha)は城柵で囲われた環濠などの防御施設と呼べるものは見つかっていませんので、九州の人々を除く各地の首長層がやってきて祭祀に特化した集落です。周りに水田跡も見つかっていませんからそれ程多くの戸数はなかったようです。
また、箸墓を卑弥呼の墓と見ていますが、立派な段築工法の大規模前方後円墳ですので(墳丘長約280m、鷹さ30m)、完成には多くの労力と時間が必要です(注2)。畿内の古墳はたいてい、郭の中に棺があるので、倭人伝に記述される倭国の人々の墓「棺あって郭なし」ではありませんから、畿内説を主張する方は倭人伝を都合のよいように解釈して、都合の悪い部分は説明抜きで無視するようです(;^ω^)
墓に加えてもう一つ、邪馬台国の決め手となる地理的条件がありますよ。
女王国の東渡海千余里で倭種の国があるという記述です。
方角は戸数や里程などと同様に政治的に書かれた可能性が高いので、北と見ることもできます(詳細は「魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆」参照)。しかし、5世紀に完成された范曄「後漢書」では倭種の国を狗奴国としており、この時代には1里約450mと考えられますから、女王国と狗奴国は東西に約450km離れた位置関係でその間は海だと分かります。
もしも九州説が正しいとすれば、この条件に合う場所は狗奴国が纏向遺跡で、邪馬台国が周防灘に面した宇佐ということを意味しています。日本列島でそのような条件を満たす場所はこれ以外にはないようです。(^_-)-☆
そして卑弥呼の墓ですが、宇佐神宮の本殿下の亀山という伝承があり、三柱の御祭神の中で一番真ん中の二之御殿に比売大神が祀られていますが、記紀神話の宗像三女神とされています。
宇佐市内を流れる駅館川を山間部にさかのぼった宇佐市安心院町下毛の三柱山台地に三女神社があります。日本書紀に三女神の降臨地「葦原の中つ国の宇佐嶋」とあります。
地元では「さんみょうじんじゃ」と呼んでいます。一の鳥居の神額に「二女神社」と書かれていますから「三は妙だ!女は少ない」という意味の謎かけででした。
つまり神社の本殿は卑弥呼が宮室としていたということです。
そして神社の西500mに卑弥呼の墓と思われる「三柱山古墳」を発見しました。その他にも卑弥呼を示唆する伝承や遺物などが周辺に多数見られますので、今のところ最も有力な候補だと思います。
なぜこの地に卑弥呼が居たのかなど、考古学や民俗学などの成果から日本建国の過程を推理していますので詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」・「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」をご参照ください。長々とお邪魔しました(;^ω^)
この他にも宇佐神宮をはじめとして全国で4万社以上ある八幡神社でも祀られていますし、厳島神社や市杵島姫が神仏習合した弁財天としても祀られていますから、至る所で卑弥呼が祀られていたのですよ。アマテラス女神とスサノヲの誓約で生まれたとする記紀神話を信じたら卑弥呼は絶対に見つかりませんよ(;^ω^)
【関連記事】
C.S.パースが人々の信念の固着方法を分析していますが、ほとんど科学的でないのが現状のようです!
一昨日見た以下の動画がとても勉強になりました。
他人の固着した信念を変えるには、反証の事実だけをいくら示しても、反証が間違いだという証拠を懸命に探すようで、見つからなければ反証を無視する脳の働きが人間に自然に起こり、手順を間違えると正しいことも理解され難いということのようです(;^ω^)
一昨日も、Unknown氏からブログ記事「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」を嘲笑する「笑える!」というコメントを頂きましたが、こちらの慌てる反応を期待したのだと思い、つい微笑んでしまいました(^_-)-☆
Unknown氏の信念を変えるには、まず、共通の問題設定が必要で、それに対して共感されたら、反証を受け入れることができるようになるそうです。正しいと思い込んでいる畿内説の方にいきなり反証を示してもダメなのですよね!(^_-)-☆
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
(注1)魏志倭人伝では正始ハ年(247年)に卑弥呼は新任の帯方郡太守に使者を送り、郡使張政が倭国に到着したときには卑弥呼はすでに死んでいて、「径百余歩の冢」が作られていたとありますので、ただ土を積み上げただけの急造りの墓と分かります。
(注2)wiki「箸墓古墳」によれば、箸墓は立派な前方後円墳で、その築造について『日本書紀』には、
「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」
と記されています。
箸墓の後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)が載ったものと指摘する研究者(近藤義郎等)もある。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされる。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。被葬者の格付けを表しているのかも知れない。
とありますから、箸墓が卑弥呼の墓でないことは明らかなのです。
応神天皇が3世紀末に即位して、伊都国で狗奴国勢に討たれて、平原王墓に葬られた母台与(記紀の神功皇后)の鎮魂のために4世紀初頭に完成し、改葬したと推理しています。日本書紀は箸墓の被葬者を三輪山の大物主神の妻倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめ)としています。大物主は大国主(別名トビ=ヘビ)のことです。台与は13歳で外交上女王にされ、大国主の妃とされて、最後は狗奴国ヤマト勢に討たれたので、ヤマトと大国主を恨んで、「ヤマトとトビと、何度も何度も唱える気の毒なお姫様」という意味の、恐らく日本書紀かそれ以前に創作された台与の名前だったのですよ(^_-)-☆
最後まで読んでいただき、心より感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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