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記紀神話の大国主とされた久々遅彦高野御子が247年の卑弥呼の死後の内戦に勝利して、安心院町下毛の卑弥呼の径百余歩の冢(直径約150mの円形墳墓)三柱山古墳に、外交上女王に立てた13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)を伴って墓参し、妻垣神社奥宮でも鎮魂祭祀をし、安心院町佐田地区で最初に国造りを行ったと推理しています(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。
米神山の佐田京石は祖霊への感謝と2世紀末から3世紀初頭の倭国大乱で活躍し、菊池川沿岸の集落方保田東原遺跡・うてな遺跡で倭国軍に奇襲されて戦死した父久々遅彦日高彦(豊岡市久久比神社祭神、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、縄文海人ムナカタ族を束ねる王の襲名)への勝利の報告・感謝と祖霊・穀霊への加護を祈る祭祀を行った古墳時代初頭の祭祀場です。
米神山中腹の月之神谷に揃って設置された石棒群は父日高彦の終焉の地の南西方向に全て揃って向けられています。
山鹿市の鹿本平野を一望する高台に一辺25mの方墳「茶臼塚古墳」が作られていますが、墳頂に置かれた大日如来の石祠から大国主の本地仏弥勒菩薩が北東に在ることが分かりました(米神山の大国主に向けられています。米神山月之神谷から茶臼塚古墳の方位がほぼ230度なのです(@_@)。
さらに米神山を通過して400km以上先の兵庫県豊岡市竹野町竹野に日高彦の居城(五社大明神宮)があり、そこに大国主の生誕地と分かる石碑を発見しました。このレイラインを「狗古智卑狗の霊ライン」と呼ぶことにしました。よろしければ詳細は「巳年に因み大国主の住む米神山の話です!」をご参照ください。
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