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絹織物も馬もすでに倭国に在った!(^_-)-☆

2025-01-15 14:33:05 | 古代史

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魏志倭人伝は異なる時代の資料のパッチワーク。

それを時代毎にブロック毎に分けて解説 古代史ハルキー@YouTube

@MrDeha6450
テーマが三国志巻30ということで、ちくま三国志4巻を参照しながら視聴しました。個人的に気になったのが2点あります。

1つが養蚕に関する記事について。武田さんはこれを前漢時代とみられたとのことですが、そのころすでに秦氏が日本列島入りしていて養蚕を伝えていたとも、あるいは縄文晩期~弥生時代に養蚕の基本的な技術は入っていて、秦氏は新技術で改良して生産性を高めたとも考えられます。

第2の注目点が「馬がいない」もまた前漢時代の資料に基づくとされたこと。ひょっとすると、曹丕・曹叡の頃には邪馬台国の卑弥呼本拠地周辺ではひそかに少数の馬が飼育されており(馬飼部的なひともいたことに!)、卑弥呼の弟クラスの高官は騎乗スキルを持っていた可能性も否定できなくなりました。もっとも、伊都国の一大率あたりまで回せるほどの数はなかったので曹魏の武将の目に止まることはなかったということかもしれません。以上2点は、私の中での卑弥呼時代の倭のイメージを大きく書き替えることになりました。

@takedaharuki
ありがとうございます。動画を作った後も考え続け、漢書地理誌をベースにした部分も、ベースが漢書地理誌なだけで、そこまでは古くないのかなとも予想するようになりました。ただ、日本の養蚕が紀元前にあっても不思議ではないと考えています。なお、魏志倭人伝の物品のあるなし情報は、過去の情報という可能性もあるため、環濠集落にしても馬にしても鵜呑みにしてはいけないのかもしれません。

@katumoku10
馬に関しておっしゃるとおりと考えています。

倭国王帥升(奴国宮廷楽師師升)が反乱を起こし18代王スサノヲを拷問したことが古事記の記述からはっきりしました。その子孫難升米が中平年間に公孫氏に朝貢して中平銘大刀を賜っています。その時に馬ももらったはずです(注1)。

天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神赤坂比古が玄界灘を支配するムナカタ海人族のシャーマン王で、現在の祭神とされる市杵島姫命卑弥呼の父です。倭国王難升米に下賜された和邇氏の祖です(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」参照)。

養蚕技術は弥生前期に列島に灌漑式水田稲作技術を以ってやって来た江南の倭人アズミ族が持ってきたもので、弥生の産業革命の担い手です。弥生中・後期には倭錦と呼ばれる倭国の大事な交易品になっています(亀山勝「安曇族と徐福」龍鳳書房 · 2009)。

繊維のダイヤモンドと言われる天蚕(てぐす)の原産地は長野県安曇野市です。あとマダガスカル島の特産品が「ランティベ」という天蚕絹ですから、アズミ族が運んだ可能性があると見ています。

天蚕(てんさん)は、日本固有の野生の蚕(カイコ)から採れるワイルドシルク。
絹糸よりさらに軽く、柔らかい最高級の天然素材です。安曇野は江戸時代に人工飼育に成功して以来、天蚕糸の生産と織物作りの中心地として発展してきました。(あづみの織工房MAKI より)

秦氏は日本書紀の創作で、スサノヲ系の出雲・丹後王の王族波多氏の子孫秦河勝が率いた技術者集団だと見ています。日本書紀では都合の悪い氏族に勝手に名前を付けて誤魔化していることが分かってきました(注2)。詳しくは「渡来人秦氏はどこからきた?」「秦氏と古事記の関係?」などをご参照ください( ^)o(^ )

【関連記事】

能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆

江戸時代まで猿楽と呼ばれた能楽を大成した観阿弥・世阿弥は秦河勝を祖としています。そう言えば、入宋して王年代紀を献上した奝然上人も俗姓は秦氏でした。秦氏は歴史の真相を暴露したくて仕方がない氏族だったのです(^_-)-☆

(注1)東大寺山古墳の中平銘鉄刀は難升米(師升の子孫)が公孫氏から拝領したものですが、魏によって公孫氏が滅亡したので、先代赤坂比古(東大寺山古墳の被葬者)に下げ渡したと推理しています。馬も拝領したようですが、投馬国長官弥弥に下げ渡され、倭国には馬がいないとした模様です。

魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事は、難升米が難升米が書いて教えたものだと推理しています。公孫氏との深いつながりを魏に伝えるのは得策ではないと難升米は考えたのでしょう。国の名前は難升米が意味を考えて漢字で書いたものだと分かっています。投馬国の「」は「投与する・与える」という意味があるので、馬を与えた国と考えられますよ(#^.^#)

(注2)秦氏はもともと半島南部に居た縄文系海人ムナカタ族で、大国主久々遅彦である武内宿禰の長男である波多八代宿禰[5](はたのやしろのすくね)を祖とする波多氏だったと推理しています(wiki「波多氏(古代)」[5] 『古事記』では波多八代宿禰とするが『日本書紀』では羽田が編者の一人となったため波多を羽田に変更し羽田矢代宿禰と書く)。

また、蘇我氏も和爾氏も、藤原不比等にとって不都合な人々なので、それを隠すために日本書紀で創作された氏族名だと推理しています。

 

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