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其の國、本亦男子を以て王と爲(な)す!(^_-)-☆

2025-01-04 06:25:09 | 古代史

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【古事記一新】第二十七話・其の國、本亦男子を以て王と爲(な)す。
北行古事記一新ちゃんねる@YouTube

倭国王帥升のことだと思いますが、ご存じのとおり後漢書の原本が散逸していますので、原本を引いた文献から倭面土国王升が正しいようなのです。(2025.1.4 赤字訂正)

しかし、魏志倭人伝の記事から、倭国の中で王が居たのは伊都国男王だけですので、白鳥庫吉は面は回の俗字の囬の誤写と考えて、倭の囬土(ウィト)国王が正しいとしています。

師姓は「風俗通義」によれば周代以前から宮廷祭祀の楽師に与えた官位だそうですので、50年前に後漢光武帝から金印を賜った奴国の宮廷楽師だったと分かります。つまり、奴国の楽師師升らが反乱を起こして倭国を奪い、王都を伊都国に遷したということが分かります。

その物証は延光四年(125年)と記された黄銅製の室見川銘板です。内容が祭祀にこだわったものですので師升王が作らせた日本最古の金石文だと分かりました(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。

そして、師升らの反乱で殺された奴国王が「古事記」から分かりました。

宋史王年代紀18代王素戔嗚尊が高天原神話の乱暴者の神スサノヲでした。八百万の神々がスサノヲを捕らえて拷問し、財産を奪ったことが書かれていました。師升は奴国王に成りすますために金印を手に入れようとスサノヲを拷問したのですが、いち早くスサノヲの部下のアズミ族が持って逃げ、途中で志賀島に寄って土の中に埋めたのです。それが江戸時代の百姓によってたまたま掘り出されたということです。師升らは代わりに160名もの生口を献上して王に認められたわけです。

この史実は日本書紀の編纂者も分かっていたことが仲哀天皇四年に博多の奴国を儺縣としていることから判明しました(注)

スサノヲの史実は平安時代にも知られており、疫病神の元締めとされ祇園霊会や熊野信仰になっていることから分かります。

記紀が天皇の歴史書だという洗脳から覚めると古代史が分かってきますよ。

詳細は「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?(;^ω^)」をご参照ください。どうもお邪魔しました(#^.^#) 

 

(注)於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)

」という漢字は『おにやらい。鬼(疫病神)を追いはらう儀式。「追儺(ツイナ)」』という意味です(漢字ペディアより)。平安時代には牛頭天王スサノヲは疫病神の元締めと見做されており、祇園御霊会が行われ、熊野信仰が流行しました(詳細は「熊野信仰の秘密?」参照)。

 

ご祭神:蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと) 例祭:一月十九日

素戔嗚尊が南海を旅された際、2人の兄弟の神様に宿を請います。巨旦将来(こたんしょうらい)は裕福でありましたが宿を貸さず、蘇民将来は貧しいながらも粟で手厚くおもてなしされました。感激された素戔嗚尊は、後年疫病が流行しても「茅の輪」をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば災厄から免れると約束されました。疫病退散の御利益のある神様として信仰されております。八坂神社ホームページより)

【関連記事】

倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)

帥升はきっと徐福が連れて来た楽師の子孫でしょう!スサノヲが何故疫病神とされるかは、この記事にありますよ(^_-)-☆(2025.14 赤字追加)

【驚愕!】記紀神話は江戸時代にできたの?(@_@)

古事記は祭祀関係の氏族が細々と伝えていたのです。国学者の本居宣長が発掘して絶賛しなければ、いまでも中世日本紀が語り継がれていたと思いますよ(^_-)-☆

伊都国の意味がヒントだった?(@_@)

魏志倭人伝に囬土(ウィト)国のことを伊都国と書いたので魏の帯方郡太守に教えた人物が判明しました(^_-)-☆

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