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#卑弥呼の日食に関して、4年ほど前のKawakatuさんの記事「アマテラス=卑弥呼、日蝕=天岩屋戸、藤原不比等策謀に見事にはまった空想小説」でコメントのやり取りをしていたのを失念して、以下の記事に次のようなコメントを差し上げたら、その中で紹介した拙ブログ「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」に以下のようなお返事を頂きました。
日牟禮八幡神社について
コメント感謝します。
この神社があるのが日蝕山とうのと不比等が名前を変えさせた記録があるというのが味噌です。
記事にしてくれてありがとうです。
卑弥呼は滋賀にいたか?日蝕山日牟禮(ひむれ)八幡宮(
Re:日牟禮八幡神社について
>Kawakatu さんへ
2020年7月の記事に今頃コメントして申し訳ありません。お返事どうも有難うございます。
そう言えば、当時の記事にコメントのやり取りをさせていただいたのでしたね。失念して申し訳ございません。
卑弥呼が日蝕で亡くなった証拠と言える神社です。日蝕を連想する日触ですから、藤原氏に気を使ったのでしょう。裏山が日触山ですから間違いないです。
卑弥呼の日食がいつのことなのかは議論がありますが、コメント差し上げたように卑弥呼の日食は247年がいいのではないかと思っています。これから、kawakatuさんの記事「卑弥呼は滋賀にいたか?日蝕山日牟禮(ひむれ)八幡宮」(2025年01月13日 12:06)を引用させていただき、新たに記事にしたいと思います。その時にまた議論していただけると幸いです。よろしくお願いいたします。有難うございました。(#^.^#)
いろいろと試行錯誤しながらやってますが、卑弥呼の日食は273年3月24日日没時に起こった日食です。北九州市周辺は皆既日食ですが、卑弥呼の居た安心院町宮ノ原遺跡や本当の倭国王難升米が見たのは深い食で、伊都国では夕日が欠けながら海に沈んで消える珍しい日没帯食だったのです。朝になるまで太陽が再び登ってこないかもしれないと本当の倭国王の難升米は心配したことでしょう!丁度狗奴国の大軍が押し寄せる情報が、瀬戸内海に配置した高地性集落の狼煙で分かっていたので、不吉な前兆と見て、卑弥呼暗殺に踏み切ったのです。
卑弥呼は毎晩、河原の露天風呂に入って、濁り酒を飲む習慣があったので、湯から裸のまま引き出されて剣で刺されたのでしょう。手引きしたのが難升米のスパイ、卑弥呼の傍に仕える唯一の男だと推理しています。もう、ドラマ化できそうですよ。どこかで映画を作って欲しいですよ。監督に知り合いは居ませんか?(^_-)-☆
(詳細は「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)
Kawakatu
知り合いの映画監督は以前いましたが、残念ながら数年前に亡くなりましてね。俳優でもあったのですが。
katumoku10
それは残念です。その監督のパートナーとかで、もしも興味があればご紹介ください。映像にすると説得力が増しますから(;^ω^)てな感じのコメント差し上げました。
それで、卑弥呼の日食の話ですが、Kawakatuさんは以下のように述べられています。
さて卑弥呼には大変アンラッキーなことだが、彼女の晩年に、もう1回皆既日食があり,それは翌248年9月5日の早朝だったという。これだけでも女王殺しの理由になるほど、二度の皆既日蝕は古代において重大すぎる事件である。ただの自然現象=事故なのだが事件になってしまう重大事だったろう。なぜなら卑弥呼は巫女だからだ。日蝕を二度も予言できなかったとしたら、それだけで王殺しの理由になれる。しかもこの時代、大陸は三国志の戦乱時代である。朝鮮半島情勢も大混乱のさなかであり、安定していた地域は中華三国の喧噪や、半島三国の喧噪から離れた「公孫氏燕国」だけである。ゆえに卑弥呼も公孫氏とのつきあいで、魏よりもむしろ孫権の呉と深く関わった。その証拠が神獣鏡などの呉のデザインの鏡であろう。呉は長江河口部にあって黄河河口部の魏よりも、南方系の道教より古い神仙思想のメッカであり、公孫淵の信仰もまた神仙思想に満ちた「鬼道」すなわち五斗米道のようなものだった。
翌年248年9月5日の日食も調べたのですが、「西暦 247 年 3 月 24 日の日食は、午後 5 時 20 分頃に欠け始め、一時間後にほほ完全に欠けたところで日没を迎えた。一方、248 年 9 月 5 日には、午前 5 時 55 分頃に大部分が欠けた状態で陽が昇り、一時間後には日食が終了し円形の郎陽に戻った。」とありました(酒井正士「西暦 247 年および 248 年の日食と天の岩戸伝説」より)。酒井氏は以前拙ブログ「邪馬台国は別府だったのか?!(*^▽^*)」で話題にさせていただいた全国邪馬台国連絡協議会に所属されて別府説を提唱する方で、生命科学・生物化学分野の専門家でした(#^.^#)。
卑弥呼は宗像三女神市杵島姫と推理していますので、おっしゃるような神仙思想の鬼道ではないのです。卑弥呼はまた倭国王ではなく、公孫氏と付き合いがあったのは本当の倭国王だった伊都国男王の難升米だったのです(詳細は「絹織物も馬もすでに倭国に在った!(^_-)-☆」参照)。
卑弥呼の仕事は自然現象の予言もあるかも知れませんが、自発的なものではなく、シャーマン王の要請で太陽神の神託を口寄せする巫女だと推理しています。鏡は道教や神仙思想とは関わりなく、おそらく鏡で太陽の反射光を卑弥呼の顔に当てて、トランス状態になるための道具のひとつに過ぎないのではないかと思います。ただ鏡にはそのような効果があるので、神に近い存在なのでしょう。「かがみ」という言葉は瞬きひとつしない「かが」(ヘビ)の眼から来ているといわれています。ヘビもまた古代人が畏れる神のひとつなのです。佐藤弘夫「日本人と神」(講談社現代新書)の中で、「人類がカミと感じるのは人々に畏怖の念を抱かせる自然現象(イナズマ・台風・太陽・月の天体運行など)や超人的な能力の動物(クマ・鳥・マムシなど)や、巨木・巨石などの奇観のスポットという具体的なモノであり、これらが始原的なカミの姿だった」と説明されています。多くの方が信じている山川草木に霊が宿るとするアニミズムは記紀の創作のようです(;^ω^)
卑弥呼の仕事の様子は、唐古・鍵遺跡から出土した縄文系の巫女と巫(かんなぎ)が描かれた絵画土器の欠片から推理しました。魏志倭人伝に卑弥呼は人前に現れず、卑弥呼の父赤坂比古が生きていた時代には卑弥呼の宮室で太陽神が卑弥呼に憑依して告げる神託を父が解釈して、部下や民の前で太陽神のお告げを伝えて、政治的な決定を行っていたと推理しています。父の死後は、ひとりの男が、倭国王の要請を受けて吉凶を占って王や卑弥呼の弟赤坂比古とその傘下の部族長に告げていたと推理しています(注)。
ですから繰り返しで恐縮ですが、卑弥呼が倭国王難升米に暗殺されたのは二度の日食を予言できなかったことではなく、先述のとおり247年3月24日(;´Д`)日没時の日食が、卑弥呼が不謹慎だったために起こったと倭国王が考えて、不吉な予兆を打ち消すために卑弥呼暗殺に踏み切ったと推理しました。それならなぜ、大きな墓を造ったのかですが、やはり非業の死を遂げた高貴な人物は祟るという信仰があったので、鎮魂のために、それなりの大きさの墓を造って、死後の生活に困らないように奴婢百余名を殉葬して丁重に葬ったのだと考えています(;´Д`)
しかしこれによって、狗奴国軍が到着したときには、卑弥呼の弟赤坂比古は、縄文系の琉球神道に見られる姉が弟を守護する「をなり神」の卑弥呼の死を知って戦意喪失したと推理しました。そのために、倭国王難升米は狗奴国軍に勝ち目がないと見て、再起を図るために「親魏倭王」の金印を持って帯方郡に逃亡したと推理しました(詳細は「【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)」参照)。これによってその後の展開は、魏志倭人伝にあるとおり、無傷で倭国を手に入れた人物が男王に立ち、これに不満な勢力と内戦になり千人が死にます。そして、勝利者が卑弥呼の宗女で13歳の台与を外交上女王に立てて国が収まります。詳しくは「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。
ということで、卑弥呼は247年3月24日の日没帯食を見た伊都国の難升米によって暗殺されたとみていいと思います。弟赤坂比古は卑弥呼の死後の戦いでかつての主筋の狗古智卑狗に加勢し、尾張王を赤坂比古の拠点の鳥栖市まで追い詰めて討ったので、和邇氏の領地の近江八幡市日牟禮八幡神社に卑弥呼と一緒に日食に因む名前で祀られていたのですが、藤原不比等によって「日触使主(ひふれのおみ)」とされ、祭神名まで変えられて、社名も「日群社(ひむれのもり)」とされたのだと推理しています。
【関連記事】
(注)日牟禮八幡神社に卑弥呼と一緒に祀られていたのが、八幡宮の裏山が地元では日触山と呼んでいたことから、日蝕をもじった名前で日本書紀に登場する和邇氏の祖の日触使主(ひふれのおみ)と推理しています。この人物の正体が卑弥呼の弟赤坂比古(魏志倭人伝で正始四年「倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人」の掖邪拘(ややこ)なのです。正使伊聲耆が途中で亡くなって、「掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬」とあるので分かりました。
伊聲耆が卑弥呼の父赤坂比古(和邇氏の祖)です。天理市和邇坐赤阪比古神社の本当の祭神ですが、何と現在は市杵島姫命となっていたので、卑弥呼だということを確信したのです。
魏志倭人伝の行程記事に出てくる人名・職名・地名などは本当の倭国王難升米(107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升で本当は奴国宮廷楽師の子孫の伊都国男王で一大率で卑弥呼の男弟とされた人物、魏から黄憧が直接授けられている倭国の軍権を持つ倭国王)が景初三年(239年)六月に帯方郡に渡り、司馬懿の部下の太守劉夏と談合して書いて、司馬懿の裁可を受けたものなのですよ。詳しい話は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ」・「伊都国の意味がヒントだった?」などをご参照ください(#^.^#)
人名(職名)などの漢字は全て意味があるのです。卑弥呼の父はイセ(伊勢)と呼ばれたムナカタ海人族のシャーマン王なのです。卑弥呼は姫巫女ですよ。道教なんかと無関係でしょう。奈良盆地の唐古・鍵遺跡の絵画土器の破片に局部を露出して鳥の格好をした巫女と巫(かんなぎ)の絵があります。密室で太陽神が憑依して口寄せした内容を巫が解釈して声にだしてみんなに伝えるのがシャーマン王イセの仕事。琉球神道に卑弥呼の鬼道の名残が残っていましたよ(^_-)-☆
最後まで読んでいただき、心より感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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いつもコメント有難うございます。
>古代史において、日蝕は重要な歴史的事実であり、いつ、何処で起こったか?が、埋蔵文化財並みに重要と思っていました。
そうおっしゃるとおりだと思います。特に古代人は、人知の及ばぬ出来事は神の仕業だと思ったようです。日食は太陽が欠ける現象ですから、悲観的に、よくない前兆だと思うと思います。
>アインシュタインが、アインシュタイン方程式の太陽の重力により、時空が変化し、水星の見える位置がずれると言う事実の興奮並みだと思っております。
わお~!アインシュタインの重力場方程式のことでしょうか?
古典文学から理論物理学までテリトリーとは、一人の脳みそで担当できる範囲を超えていませんか?わたしも、十年以上数式から離れているので、テンソル方程式などペトログリフ並みの理解不能者に陥っています。最近、量子のもつれのYouTube動画を見て、例の霊ラインの秘密を解き明かすヒントが隠れているようで、霊魂の挙動と古代人の超能力について、どなたか量子力学から解き明かしてほしいと思っています。
それで、jikan314 さんの天香久山の宿題、忘れていませんよ。結構、複雑ですので、申し訳ないですが、もう少し時間をください。よろしくお願いいたします。
古代史において、日蝕は重要な歴史的事実であり、いつ、何処で起こったか?が、埋蔵文化財並みに重要と思っていました。
昔、関東で金環食が起こるとの事で、一生に一度と思い休暇を取って、東京の自宅へ戻った事を思い出します。
アインシュタインが、アインシュタイン方程式の太陽の重力により、時空が変化し、水星の見える位置がずれると言う事実の興奮並みだと思っております。
又お邪魔します。