テレビのスイッチを入れれば、世界中のニュースが目の前にある。
最近は、たいていちょっと悲しいにユースが多い。地震や洪水、土砂崩れ、テロ、戦争、貧困、飢餓・・・
日本はというと、汚職や使い込み、天下り、ニート、なんか違うな・・・
自分の周りにあふれるものの中で迷っている私たちと、何もない荒れた大地で途方にくれている人たちという違いかな。
私たちの暮らしは、なにもかも、世界に支えられている。
野菜も果物も、魚もお肉など、命をつなぐためのものもね。
私の暮らす高知は、農業従事者も多く、有名な日曜市などの街路市が身近にあって、近郊の農家の採れたての野菜が安く手に入るのだけど、それでもスーパーマーケットには、アメリカやニュージーランド、中国、韓国、ベトナムといった産地の名前が並んでいる。
例えば、今日のメニューでいうと、メインのアジは地元産。
付け合せのズッキーニは韓国産、それに乗っかっているチーズは千葉の工場製だけど販売主は東京、でも肝心のチーズは外国製?
ベビーリーフはお隣りの愛媛県のもの。
マイタケは国産だけど新潟県からきている。
トマトは高知県産。
スープにした豆乳は紀文、でその中に浮かんでいるオクラはタイ産。
チャーハンに使っているニンニクは国産だけど、実はいつもやたらに安い中国産のものに迷いながら買わないでいる。
醤油風味にしたんだけど、日本の伝統調味料のはずの醤油だって、今や材料は海外調達というものがほとんどだ。
そしてワイン、今日のワインはイタリア産。
むかし、よく「食べるために働いた・・・」なんていう言葉をきいたけど・・・。
私たちは、確かに生きるために食べなくてはならないんだけど、現代は生きるためという言葉のなかに、肉体的なエネルギー補給だけではなくて、気持ちや心を平穏に保つために「食べる」という行為を組み込んでいるようにも思える。
私は、仕事を持っていて、食事も不規則だったりするし、一人暮らしだけど、食べることや、そのための時間を大切にしたいと思っている。
食いしん坊だということもあるけど、それだけではないと思う。
最近は、鰹節や昆布で出汁をとったり、ドレッシングやタレなども手作りにするように努めている。
古いものがすべていいとは思っていないけど、古くから伝わっていることの中に、心や体にとって、とても大切なことがたくさんあると思うから。
部屋に花を飾ったり、食卓のテーブルクロスやランチョンマットを、料理に合わせて取り替えたりするのも、その一環。
だから、ただ食い物があればいいというのではなくて、お皿やグラスを選んで、調理の仕方や盛り付け、彩り具合い、それからそれらの味のハーモニー・・・
それからそのテーブルがある部屋のコーナーや、その空間を取り巻いている部屋全体のバランス・・・そんなものが、宇宙の法則のように、私という一人の存在を示している。そんなふうに思えるのです。
ただ、飽食や美食を堪能するためではなく、「食」に向う姿勢は、自分という命、「生」を考えること、人の生き方につながっているんじゃないかと、そんなふうに思えるのです。
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最近は、たいていちょっと悲しいにユースが多い。地震や洪水、土砂崩れ、テロ、戦争、貧困、飢餓・・・
日本はというと、汚職や使い込み、天下り、ニート、なんか違うな・・・
自分の周りにあふれるものの中で迷っている私たちと、何もない荒れた大地で途方にくれている人たちという違いかな。
私たちの暮らしは、なにもかも、世界に支えられている。
野菜も果物も、魚もお肉など、命をつなぐためのものもね。
私の暮らす高知は、農業従事者も多く、有名な日曜市などの街路市が身近にあって、近郊の農家の採れたての野菜が安く手に入るのだけど、それでもスーパーマーケットには、アメリカやニュージーランド、中国、韓国、ベトナムといった産地の名前が並んでいる。
例えば、今日のメニューでいうと、メインのアジは地元産。
付け合せのズッキーニは韓国産、それに乗っかっているチーズは千葉の工場製だけど販売主は東京、でも肝心のチーズは外国製?
ベビーリーフはお隣りの愛媛県のもの。
マイタケは国産だけど新潟県からきている。
トマトは高知県産。
スープにした豆乳は紀文、でその中に浮かんでいるオクラはタイ産。
チャーハンに使っているニンニクは国産だけど、実はいつもやたらに安い中国産のものに迷いながら買わないでいる。
醤油風味にしたんだけど、日本の伝統調味料のはずの醤油だって、今や材料は海外調達というものがほとんどだ。
そしてワイン、今日のワインはイタリア産。
むかし、よく「食べるために働いた・・・」なんていう言葉をきいたけど・・・。
私たちは、確かに生きるために食べなくてはならないんだけど、現代は生きるためという言葉のなかに、肉体的なエネルギー補給だけではなくて、気持ちや心を平穏に保つために「食べる」という行為を組み込んでいるようにも思える。
私は、仕事を持っていて、食事も不規則だったりするし、一人暮らしだけど、食べることや、そのための時間を大切にしたいと思っている。
食いしん坊だということもあるけど、それだけではないと思う。
最近は、鰹節や昆布で出汁をとったり、ドレッシングやタレなども手作りにするように努めている。
古いものがすべていいとは思っていないけど、古くから伝わっていることの中に、心や体にとって、とても大切なことがたくさんあると思うから。
部屋に花を飾ったり、食卓のテーブルクロスやランチョンマットを、料理に合わせて取り替えたりするのも、その一環。
だから、ただ食い物があればいいというのではなくて、お皿やグラスを選んで、調理の仕方や盛り付け、彩り具合い、それからそれらの味のハーモニー・・・
それからそのテーブルがある部屋のコーナーや、その空間を取り巻いている部屋全体のバランス・・・そんなものが、宇宙の法則のように、私という一人の存在を示している。そんなふうに思えるのです。
ただ、飽食や美食を堪能するためではなく、「食」に向う姿勢は、自分という命、「生」を考えること、人の生き方につながっているんじゃないかと、そんなふうに思えるのです。
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