三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【日本人の「いい家」意識①/血統拝跪と環境調和】

2020-10-07 05:26:27 | 日記

昨日、ある住宅研究者からヒアリングを受けました。
わたしどもは住宅雑誌を32年以上発行しているのでその経験からお答え。
で、いくつかのポイントが浮かんできましたが、
追ってその研究の進展で当社の誌面にも反映されることが考えられます。
そのヒアリングを受けて逆にいろいろと再発見的な気付きもあった。
そのなかで大きかったのが、日本人にとっての「いい家」規範の変化ぶり。
このテーマでちょっと考えをまとめておきたい、その第1回。

考えてみれば日本人が「注文住宅」ということを経験し始めたのは、
たぶん、戦後の「住宅金融公庫」システム成立以降のように思う。
それ以前の住宅、古民家・歴史的建築物を見学取材する機会が多いけれど、
おしなべて「格式的・様式的」であって、人間表現個性表現的な部分は
その様式の「扱い方・利用の仕方」の範囲ではないかと思う。
このことがよくわかるのが、沖縄の中城に残る「中村家住宅」。
この家は沖縄での戦国武将・護佐丸配下の建築・築城家である中村氏が
中城城を築いた当時、その邸宅として建築されたものと伝承されている。
わたしの大好きな500年近い由緒のある古建築住宅。以下中村家住宅HPより。

〜今から約500年前中村家の先祖賀氏(がうじ)は、琉球きっての築城家として
名を成した護佐丸(中城城主)が読谷から居城を中城に移した時、
共にこの地にその「師匠」として移ってきたと伝えられています。
現存建物は18世紀中頃に建築という伝承。
建築構造は、鎌倉・室町時代の日本建築の流れを伝えていますが、
各部に特殊な手法が加えられて独特な住居建築。この遺構は、
士族屋敷の形式に農民の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随して
沖縄の住居建築の特色をすべて備える。屋敷は、南向きの緩い傾斜地を
切りひらいて建てられて、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、
その内側に防風の役目を果たす福木を植え台風に備えています。〜
という建物。その主たる建築計画の骨格は中村賀氏の設計と思われる。
沖縄での「愛着ぶり」を見ると住空間の一種の規範だったように思うが、
建築家としての「個性表現」の部分は少なく、環境調和性が際だつ。
環境調和で合理的な建築を作るのがホンモノの専門者という先人の教えかと。

で、戦前までの日本人の住意識では様式・格式へのリスペクトの方が強い。
明治期以降の高級住宅でも、和と洋の違いこそあれ、
どちらも様式への自然な帰依が根強く感じられる。
「いい家」とは、「格式の高い家」「立派な門構え、床の間、庭」という価値感。
たしかに縁側から流れてくる薫風を愛でるとか、
囲炉裏での団欒や、そのぬくもりなどの「居住性」も当然重視されたけれど、
それもまた伝統的スタイルへの無条件の拝跪の念があったと思う。
ただ、茶室という空間には茶人たちの芸術的嗜好性表現はあった。
しかしそれはあくまでも「あそび」の空間であり、
生活空間としては、やはり伝統的規範こそがデザインコードだった。
それは長い日本人の生活史を背景とした「一所懸命」としての「家」意識。
私有的な土地に執着し、家意識のマユに個人が包摂されていた。
タテの血脈伝承装置・血統証明的な「家」意識が最優先されていたのだ。
そういう「マユ」に包まれて生きる価値感が日本人には優勢だった。
しかし、先述のように囲炉裏の切り方・配置の仕方などで、
独特の「感受性表現」はあったし、ハレの間である
床の間付きの和室でもいろいろなその家らしさ表現はあった。
デザインコードに従いながらバリエーションを愉しんでいたのだと思う。
(明日以降も、このテーマ続けます。)