三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【「仏壇」ミッシングリンク論〜日本人のいい家②】

2020-10-09 05:39:07 | 日記

写真は北海道開拓期の「森林伐採」風景。
とにかく鬱蒼たる森林を伐採して農地を開いて行くことが開拓の実質。
森林から変貌の農地は、自然落葉で天然施肥が永年なされていたので、
驚くほどに地味が豊かでもあったという伝聞を聞く。
しかし森林伐採は気の遠くなるような作業であり、
空知地方のように、囚人労働の集中投下で筋道がつけられ
本州で農家技術蓄積のある美濃などの先進農業地域出身者に
優先的に農地が割り当てられた、というような情報もある。
北海道が食糧基地として日本をリードしていることの根源と言われる。
で、北海道に入植応募した人々は故郷では農地を獲得できない
農家の次男三男層が中心だったとされる。
「北海道には仏壇背負って来た人は少ない」という何気ないひと言を
ある住宅研究者から聞いたとき、大きな気付きがありました。
血統的「家意識」からは「仏壇を背負っていない」人々が北海道の多数派。
北海道に移民として応募する最大の目的は、自作農になれる、
自分が土地所有者になれる、というそれまでの日本社会が提供できなかった、
大きな人生飛躍の可能性への希求があったのだといわれている。

わたしの家系は明治末、大正初年に北海道に移民したけれど、
実は広島県から「仏壇背負って」来た一家です。
小樽の港に着岸上陸し空知地方に入植していた地縁者を頼って来た。
ただ北海道で生計が立つかどうか見極めてからということで
「本家」としての伝承の品々は広島県地方の縁戚に「預けて」いたという。
明治期までの日本社会では、家意識、本家意識は強烈な倫理規範であり
メドが立つまで「本家」としての伝来のものは遺しておいたのだと。
(このときの混乱で、いくつもの品々が散逸してしまったとも聞く。)
この「本家意識」というものは、日本人の「いい家意識」に深く関係している。
極言すればそれまでの社会では「家」はハコではなく血統だった・・・。
先祖代々の連綿とした「継続性」が、家の「格式」を表現するという価値感。
わたしはそのような家系の伝承を聞いていたので、ほかの北海道移民も
同様なのではないかという無意識の認識を持っていた。
で、北海道でたくさんの友人・知人たちとの間でこういう話題は
ほとんどしたことがないことに、改めて気付かされる。
「あなたの家はどこから?」という問いに答が返ってこないことが多い。
言いたくない、関心がないを含め、いわゆる伝統的「家意識」の喪失。
それは、北海道移民がほとんど「仏壇背負って来ていない」ことに由来するのだ。

このことが、北海道の住宅の進化にとってかなり大きなファクターだった可能性。
本州出身地の「本家」とははるかに離れて
この地で「フロンティア」として初代を始め(ざるをえなかっ)た意識が濃厚。
たしかに北海道には「代々この地に暮らしている」人間はごく少数。
「代々続く」家のありようから自由であり、多くが新規スタートだった。
日常生活に於いても伝統的ライフスタイルへの執着があまり存在せず、
地域の気候に対しての「環境適合」ファクター価値感がはるかに優先した。
寒いんだからとにかくあたたかい家を、という希求が最優先。
様式的・格式的価値感よりも、生活リアリズム・合理主義がはるかに優先した。
高断熱高気密という日本住宅の「革命」も渇望的に求められた由縁。
この日本伝統住宅と北海道住宅の進化の間の「ミッシングリンク」が、実は
「仏壇背負ってこなかった」ことに大いに関係があるのではないかと思われる。
北海道の住文化解析としては仮説的ですが、
深く納得できる部分があるのではないかと思い続けています。