アントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』所収の同名作品を読みました。
アルトーは有名な役者・演出家・理論家ですが、実はその著作を読むのは初めて。ただし、「神の…」はラジオ・ドラマとして書かれたものだそうです。
率直な感想としては、難解。更に醜悪。
要はキリスト教やアメリカ・ソヴィエトを攻撃する激烈なプロパガンダであり、また新たな身体、「器官なき身体」を称揚し提案する文章ですね。ちなみに言うとこれは通常の意味での「ドラマ」ではなく、本当にプロパガンダ的なメッセージ文です。
神を糞便とか黴菌とかと呼んでこれを非難、また身体性を持たない人間をも否定し、新たな身体の獲得を呼びかけます。それがいわゆる「器官なき身体」でありますが、ぼくにはその内実がよく分かりません。ドゥルーズ、ガタリの著書にはこの概念が検討されているはずですが、ぼくはよく知りません。どうやら性的なもの、生理的なものを排除した身体であるようですが…ぼくの読解なんてそらまあいい加減なものなので、よく分かりません。
解説では触れられていませんでしたが(ぜひ触れるべきだと思いましたが)、この作品はラジオ・ドラマのためのもので、読まれることを前提としていない、あくまで上演されることが望まれています。実際、アルトーは本書に収録されている書簡において、朗読の声やら何やらといった聴覚的要素を最も重視しています。彼は本や雑誌という媒体を嫌悪すらしています。それがこうして文庫に収められるようになったのは、少し皮肉なような気もしますが、しかもそれは紙の本という媒体の危機が叫ばれる時代のことなのですから(2006年初版)、二重の意味で皮肉ですね。
それにしてもアルトーはだいぶ自己主張の激しい人物だったようで…書簡からはそれが如実に伝わってきます…ちょっと付き合いにくい人かも。
そうだ、アルトーは、この作品は野人にも明らかだ、と言っていますが、けっこう難解な気がするのですが。断片的な記述、何語でもないという意味不明の詩など、とまどう読者もいるはず。いやこれは大衆的だ、と反論されそうですが、到底この作品が大衆に容易に受け入れられるようには思えません。ま、だからどうということもないのですけどね。ただ、アルトーには自分の主張が余りにも自明で明白なことのように感じられたのでしょうか。西洋世界にあっては異端の思想であるはずですが。
アルトーは有名な役者・演出家・理論家ですが、実はその著作を読むのは初めて。ただし、「神の…」はラジオ・ドラマとして書かれたものだそうです。
率直な感想としては、難解。更に醜悪。
要はキリスト教やアメリカ・ソヴィエトを攻撃する激烈なプロパガンダであり、また新たな身体、「器官なき身体」を称揚し提案する文章ですね。ちなみに言うとこれは通常の意味での「ドラマ」ではなく、本当にプロパガンダ的なメッセージ文です。
神を糞便とか黴菌とかと呼んでこれを非難、また身体性を持たない人間をも否定し、新たな身体の獲得を呼びかけます。それがいわゆる「器官なき身体」でありますが、ぼくにはその内実がよく分かりません。ドゥルーズ、ガタリの著書にはこの概念が検討されているはずですが、ぼくはよく知りません。どうやら性的なもの、生理的なものを排除した身体であるようですが…ぼくの読解なんてそらまあいい加減なものなので、よく分かりません。
解説では触れられていませんでしたが(ぜひ触れるべきだと思いましたが)、この作品はラジオ・ドラマのためのもので、読まれることを前提としていない、あくまで上演されることが望まれています。実際、アルトーは本書に収録されている書簡において、朗読の声やら何やらといった聴覚的要素を最も重視しています。彼は本や雑誌という媒体を嫌悪すらしています。それがこうして文庫に収められるようになったのは、少し皮肉なような気もしますが、しかもそれは紙の本という媒体の危機が叫ばれる時代のことなのですから(2006年初版)、二重の意味で皮肉ですね。
それにしてもアルトーはだいぶ自己主張の激しい人物だったようで…書簡からはそれが如実に伝わってきます…ちょっと付き合いにくい人かも。
そうだ、アルトーは、この作品は野人にも明らかだ、と言っていますが、けっこう難解な気がするのですが。断片的な記述、何語でもないという意味不明の詩など、とまどう読者もいるはず。いやこれは大衆的だ、と反論されそうですが、到底この作品が大衆に容易に受け入れられるようには思えません。ま、だからどうということもないのですけどね。ただ、アルトーには自分の主張が余りにも自明で明白なことのように感じられたのでしょうか。西洋世界にあっては異端の思想であるはずですが。