Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

清太よ・・・

2009-08-15 00:45:34 | アニメーション
実を言えば、今日は『火垂るの墓』(以下「墓」)を観る気分ではありませんでした。別に溌剌として気分ルンルンだから、というわけではなく、ただなんとなく、重苦しい映画を観る気持ちにはなれないのでした。ですけれども、9時になるとチャンネルは4に。

「墓」は非常に悲しい映画だから、もう二度と観たくない、という人がいます。ぼくはそういう人の気持ちは昔全く分からなくて、観りゃいいじゃん、おもしろいんだからさ、などと感じていたものですが、なんというかどんよりとした重苦しさに耐え切れない気分だったのですよ、今日は。ここ何年かは軽い感じのアニメーションを鑑賞する機会が多くて(らきすたとかひだまりとか)、耐性が弱くなっていたのかもしれません。

ですが、観てしまいました。観始めるとぐいぐい惹き付けられました。さすが。ということで、感想ですが、全体的なことを言ってもしょうがないので、14歳の主人公・清太のことについて。中学生のときとかに観た頃はそんなことは感じなかったのですが、彼は実に意地っ張りな少年です。父親が海軍のどうやら相当の階級の人間らしく、家庭も裕福。だからたぶん彼はプライドが高く、人に頭を下げることを知らない。そして年頃の少年らしく、他人に対しては口下手で、むっつりしている。こういうことは映画の中でかなり明確に描写されているのですが、中学生のぼくは気が付きませんでした。清太があれほど強情でなければ、恐らく節子ともども命だけは長らえたでしょう。

でもぼくは彼を非難しようとは思いません。絶対に、そんなことはできません。やはり他人と関わるのが苦手で、愛想を振りまけない「可愛くない」ぼくには、彼の気持ちがよく分かる。やり場のない怒りや悲しみ、プライド、それが彼を苦しめました。その上彼は大変な妹思いで、非常に優しい。その優しさがかえって彼の胸を引き裂いたであろうことは想像に難くありません。あの家で虐げられ皮肉を言われながら生活することは彼にはできなかったし、節子にとってもそれはつらいことだったでしょう。清太があれほど拒否していた、「母の死を節子に話す」という行為を彼に何の相談もなく行ってしまったあの叔母のもとで暮らすことは、できない相談でした。

もちろん、難しい問題です。蛍のように一瞬の輝きの後にはかなく死ぬか、それとも苦しみながらも生き続けるか(たとえ戦争を生き延びたとしても両親亡き彼らの今後は苦しかったことでしょう)。どちらがよいとは簡単に答えられません。しかし清太は前者の道を選んだのであり、そして間違いなく蛍として死んでいった。何が何でも生きるべきだと諭し、命の重要さを説くことはあまりに容易いですが、しかしそれは現代人の傲慢のように思えます。傲慢?豊かな暮らしにあぐらをかき、生死の境を知らないぼくなどに、どうして清太の決断を批判する権利があるでしょうか。彼は確かに現代人の目、とりわけ大人の目から見れば誤った選択をしたかもしれません。ですが、そうせざるを得なかった彼の心情を慮ると、何とも言えないほどいじらしく(節子以上に!)、彼を許してやりたくなります。いや、許すという考え方が既に傲慢で、そうなるべくしてなった彼らの運命にぼくは共苦し、ただ頭を垂れます。

なんとしても生きたいのなら、清太たちはまたあの家に戻ればよかった。そうしなかった、できなかった彼のプライドと節子を思う優しさ。実はその点がこの映画の非凡なところではないかと思います。ただ必死に生きようとして、その願いが叶わなかった、という作品ならざらにあるでしょうが、そこに思春期の少年の感情を忍び込ませて、まさに生きた人間の人生を描いている気がします。戦時中だって、少年には色々な思いがあったはずなのです。その思いが少年を死に追いやったとしても、それは彼が悪いのではなくて、ただ時代の悪さ、運命の悲劇に他なりません。

高潔な少年・清太よ、君の見下ろす都会の夜景は美しいかい?