眠い・・・何もする気が湧かない・・・けいおんまでまだ間がある・・・ということで、パソコンの電源を入れました。やらないといけないことは山積しているのですが・・・
さて、「私」の自己同一性とは、過去の「私」と現在の「私」とが同一であるとみなされるとき、確立していると言われますが、過去における「私」って何だろう・・・と思いを巡らしてみる。
そもそも、過去における「私」が現在における「私」と同じかどうか、ということはどのようにして確かめられうるのか。それはもちろん想起することによって、ということになります。現在の「私」が過去を想起したとき、その際の「私」が現在と同一であるならば、私は自己同一的であると言えます。「私」の一貫性が重要なわけです。ただし、そこには現在の「私」が正しい想起をしているという前提が必要であって、もしも「私」が譫妄状態にあったり、また無意識に過去を捏造してしまっているような場合、この一貫性は疑わしいものになります。したがって、現在の「私」が正しい知覚で想起をしたときに、過去の「私」と現在の「私」が同一であるとみなされる場合、自己同一的であると言えるでしょう。
また、他者の視点からはどのようになるでしょうか。過去の「私」と現在の「私」とを一貫して知っている人がいると仮定します。両親などがよい例でしょう。彼/彼女らが、当該の「私」の一貫性を認めたとしたら、「私」は自己同一的であると言えるのでしょうか。難しい問題ですが、たぶん違う。というのも、内面というものはえてして外化しないことが多く、外からの判断だけでは「私」のありようを知ることは至難だからです。
しかしそうすると、自己同一性とは、「私」の実感からのみ構成される、非常に脆弱な概念ということになりはしないでしょうか。他者の意見は一つの保証としては有効かもしれませんが、それが十分条件ではありません。
過去を正しく想起することができない記憶喪失の人間を想定します。ただし、彼は記憶を失っているだけで、性格そのものは変化していないとします。そういうことがありえるかどうかはひとまず措き、とりあえずそう仮定します。このような人間は、自己同一的ではないと断言できるでしょうか。確かに、彼は正しく過去を想起できません。しかし、いわば神の視点から眺めた場合、彼の内面には変化は見られないのです。これは、輪廻転生における自己同一性は可能か、という問いでもあります。
果たして自己同一性という概念は、重要なものなのでしょうか。一貫した自己を有することは社会生活を営むに当たっては大切なことですが、しかしそれが自分の実感にしか基づいていないのだとしたら、欠陥のある概念であるように思われます。さりとて、他者の視点からは、内面をうかがい知ることはおよそ不可能であり、他者の協力はあまり期待できません。真の意味で客観的な視点こそが求められています。でも、それを知るのは誰なのか。「私」の全てを客観視することができるのは誰なのか。恐らくそんな人間はいません。そうだとすれば、実は自己同一性という概念は、神という存在を人間の外部に仮構した概念であるのかもしれません。神の存在を仮定すれば、この概念は完璧になり、その存在を抜き取ってしまうと、つまり「私」の実感からのみそれを捉えようとすると、不十分な概念になります。神。どんなときも「私」が「私」であることを知るのは、まさしく神しかありえず、「私」一人の判断では、記憶が異常をきたしている場合はそれを知ることができません。
ところで、こんなことを書いている間に『けいおん!!』の時間が近づいてきました。いい暇つぶしになったな。最近ウィトゲンシュタインを読んでいるので、ちょっと哲学っぽいことをしてみたくなったのでした。
さて、「私」の自己同一性とは、過去の「私」と現在の「私」とが同一であるとみなされるとき、確立していると言われますが、過去における「私」って何だろう・・・と思いを巡らしてみる。
そもそも、過去における「私」が現在における「私」と同じかどうか、ということはどのようにして確かめられうるのか。それはもちろん想起することによって、ということになります。現在の「私」が過去を想起したとき、その際の「私」が現在と同一であるならば、私は自己同一的であると言えます。「私」の一貫性が重要なわけです。ただし、そこには現在の「私」が正しい想起をしているという前提が必要であって、もしも「私」が譫妄状態にあったり、また無意識に過去を捏造してしまっているような場合、この一貫性は疑わしいものになります。したがって、現在の「私」が正しい知覚で想起をしたときに、過去の「私」と現在の「私」が同一であるとみなされる場合、自己同一的であると言えるでしょう。
また、他者の視点からはどのようになるでしょうか。過去の「私」と現在の「私」とを一貫して知っている人がいると仮定します。両親などがよい例でしょう。彼/彼女らが、当該の「私」の一貫性を認めたとしたら、「私」は自己同一的であると言えるのでしょうか。難しい問題ですが、たぶん違う。というのも、内面というものはえてして外化しないことが多く、外からの判断だけでは「私」のありようを知ることは至難だからです。
しかしそうすると、自己同一性とは、「私」の実感からのみ構成される、非常に脆弱な概念ということになりはしないでしょうか。他者の意見は一つの保証としては有効かもしれませんが、それが十分条件ではありません。
過去を正しく想起することができない記憶喪失の人間を想定します。ただし、彼は記憶を失っているだけで、性格そのものは変化していないとします。そういうことがありえるかどうかはひとまず措き、とりあえずそう仮定します。このような人間は、自己同一的ではないと断言できるでしょうか。確かに、彼は正しく過去を想起できません。しかし、いわば神の視点から眺めた場合、彼の内面には変化は見られないのです。これは、輪廻転生における自己同一性は可能か、という問いでもあります。
果たして自己同一性という概念は、重要なものなのでしょうか。一貫した自己を有することは社会生活を営むに当たっては大切なことですが、しかしそれが自分の実感にしか基づいていないのだとしたら、欠陥のある概念であるように思われます。さりとて、他者の視点からは、内面をうかがい知ることはおよそ不可能であり、他者の協力はあまり期待できません。真の意味で客観的な視点こそが求められています。でも、それを知るのは誰なのか。「私」の全てを客観視することができるのは誰なのか。恐らくそんな人間はいません。そうだとすれば、実は自己同一性という概念は、神という存在を人間の外部に仮構した概念であるのかもしれません。神の存在を仮定すれば、この概念は完璧になり、その存在を抜き取ってしまうと、つまり「私」の実感からのみそれを捉えようとすると、不十分な概念になります。神。どんなときも「私」が「私」であることを知るのは、まさしく神しかありえず、「私」一人の判断では、記憶が異常をきたしている場合はそれを知ることができません。
ところで、こんなことを書いている間に『けいおん!!』の時間が近づいてきました。いい暇つぶしになったな。最近ウィトゲンシュタインを読んでいるので、ちょっと哲学っぽいことをしてみたくなったのでした。