Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

井上ひさしとスタジオジブリ

2010-04-24 00:47:11 | アニメーション
予告通り、書きます。

「井上ひさしとスタジオジブリ」と聞いて、人は何を思い浮かべるでしょうか。たぶん、多くの人は何も思いつかないのではないでしょうか。最近亡くなった、日本を代表する文豪と、日本を代表するアニメーションスタジオとの接点とは何か?ズバリ、狸です。

高畑勲は、狸をモチーフにした映画の構想を練っていました。1992年のことです。その5月に、彼は井上ひさしの小説『腹鼓記』に着目します。狸について、井上ひさしなら何か教えてくれるのでないか、そう考えた高畑勲は、井上ひさしに連絡を取り、会いにゆきます。快く協力を申し出てくれた井上ひさしは、狸に関する自分の資料を惜しげもなく開示したのでした。

完成した作品が、『平成狸合戦ぽんぽこ』です。この映画が公開された翌年、ジブリは監督に近藤喜文を立て、『耳をすませば』を公開します。舞台は、同じ多摩地域。ぽんぽこのラストシーンとなった背景が、耳すまではオープニングの背景として登場します。つまり、連続性のある物語として、この二作は存在しているのです。それは恐らくテーマにおいてもそうなのですが、それはひとまず措き、井上ひさしの話に戻りましょう。

『COMICBOX』という雑誌は、『耳をすませば』の特集号を組んだとき、映画鑑賞のコメントを井上ひさしに頼んでいます。「ぽんぽこ」での井上ひさしとジブリとの縁を知っていた編集部による機転だったのか、それとも偶然か、ぼくには想像することしかできませんが、いずれにしろ、井上ひさしが「ぽんぽこ」と「耳すま」とを結ぶもう一つの「かすがい」になった瞬間でした。それは、両方の作品に間接的に関わったから、という意味でもそうですが、それよりも、彼の耳すまへのコメント内容がそうさせた、という意味の方が強かったのです。

井上ひさしは、『耳をすませば』に対し、どのような感想をもったのか?彼のコメントを要約しましょう。

ヒロインの月島雫がテストで「開発」という文字を書く「瞬間的なカット」があるが、なぜ宮崎駿や近藤喜文は彼女によりにもよって「開発」と書かせたのだろうか。そう思いながら観ているうち、わたしたちの「既成の物差し」が覆されていった。例えば、「仮の宿」としての団地が、「なにか宝石で出来ているようなものとして」描かれているのだった。「畑や原っぱや文部省仕様のコンクリ校舎と団地とが、(・・・)みごとに共生していた。それもじつに美しく」。これまで醜い光景として描かれていたものが、美しい景色として描かれているのだ。「開発だの、団地だの、虫食いの景色だのを二人は正から負へとひっくり返している」。それは、雫にとってはそこが「かけがえのない、ただ一つのふるさと」だからだ。開発を現実として受け止め、そこから未来へと歩みだす。「これはおそらく今までになかった力強い思想だ。月島雫たちに導かれて、わたしは生まれて初めて、虫食い状に開発された東京郊外の、林立する団地の夕景を眩しく見た」。

「ぽんぽこ」と「耳すま」との続きものとしての物語については先述しましたが、ここには、それに直接絡んでくる思想が見事に述べられています。「ぽんぽこ」という作品は、人間による自然の開発を狸の姿を通して告発するものでした(もちろん狸らしく滑稽に)。「耳すま」はそのラストを受けて、まさにそのラストシーンから、物語が始まります。人間は自然を開発し、いやありていに言えば破壊し、動物の棲家を奪った。しかし、そこに住む人間は、いかにして生きてゆくべきなのでしょう。人間は自然環境を作り変えてしまった。動物を殺した。でも、だからといって、人間がその「罪」ゆえに、裁かれるのを待つしかないとしたら、それはあまりにも悲惨な思想でしょう。たぶん、『耳をすませば』という物語は、それでも人間の幸福はありうるのだ、ということを直球で伝えた作品なのです。人間に虐待される側を描いたとき、もうどうしようもないくらい罪深い人間の業に絶望し、全てを投げ出したくなってしまう。でも、そのような人間にさえ、幸福というものは起こりうるし、そして雫たちのような人間がいる限り、絶望してはならないのだ、という力強い思想をぼくたちは受け取ることができるのです。

井上ひさしが団地の美を指摘するとき、ぼくらはこのような「ぽんぽこ」と「耳すま」との思想的な連続性をも視野に入れる必要があります。人間の為してきたことを丸ごと受け止め、そこから歩み出す。「耳すま」が「ぽんぽこ」のラストシーンから始まったように、歩み出す。そうしようではないか。

ぼくがこの井上ひさしの文章に出会ったのは、もう何年も前になりますが、彼のこの短文から、ものすごい影響力を受けました。これを収録している雑誌の表紙には、「この街が/わたしの/ふるさとです」という文が記されていますが、「開発」と「ふるさと」というキーワードを基に、ぼくは色々なことを考えました。そして、以上のような結論に至ったのです。そしてそれは、結局のところ、「人間を肯定しよう」という最も力強い思想だったのかもしれません。

なお、井上ひさしによる団地の美の認識は、『耳をすませば』のテーマそのものでありますが、一部背景を描いた井上直久(同じ井上姓なのはおもしろい偶然ですね)のイバラードという世界観もまた、見慣れた景色を美しくする、という「美化」の観察眼に基づいています。その観察眼は、宮崎駿によって「イバラード目」名づけられ、そしてぼくの考えでは新海誠にも受け継がれてゆくのですが、それはまた、別の物語です。今日は、井上ひさしとスタジオジブリのお話でした。