Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

国内アニメーション・ベスト10を考えてみる

2010-11-17 00:54:44 | アニメーション
このあいだのつづき。
これまた自分なりに考えてみます。もちろん暫定的なものということで。順位はなし。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(TV版)、宮崎駿『ハウルの動く城』(どうだ驚いたか!)、新海誠『ほしのこえ』、石原立也『CLANNAD』(どうだ驚いたか!)、川本喜八郎『道成寺』、政岡憲三『くもとちゅうりっぷ』、高畑勲『太陽の王子ホルスの大冒険』、山村浩二『頭山』、沖浦啓之『人狼』、今敏『千年女優』

どこかに久里洋二をぶっこみたかったのだけれど、難しいな、やはり10個はきついです・・・

それにしても、有名な監督と作品だらけになってしまいました。そのことに関して、あるいは関せず、色々と言い分はあります。まず、耳をすませばがないということ。今回は、個人的な嗜好を前面に押し出すことはやめたので、こういうことになりました。また、一作家一作品にしました。原則的に同じスタジオから複数の作品を選ぶのもやめました。ではガンダムがないのはなぜ?押井守がないのは?・・・悩みましたが、「ロボットもの」の括りでその代表はエヴァに、I.G.は人狼を代表にしました。って、もろに個人的嗜好ですが、二者択一のときは自分の好みで選びました。

今敏は哀悼の意も込めて。やはり完成度の高い『千年女優』がいい。それぞれには選んだ理由があります。エヴァはやはり革命的作品であるということ。テーマ、社会への影響、技術などなど、後の映画版もひっくるめて革新的な作品でした。

宮崎駿からはどうしてハウルが?アニメーション史的意味を考えるなら、やはりナウシカ、宮崎アニメの集大成と言うならばカリオストロかラピュタ、皆が大好きなのはトトロ、社会現象となったのはもののけ、国際的に評価されたのは千と千尋、後期の特徴を非常によく表しているのはポニョ、などなどなどなど、宮崎駿の代表作はたくさんあります。ではどうしてハウルを選んだのか?まず、前期と後期に宮崎駿の監督作をぼくは分けました。だいたいもののけが分岐点と考えていいでしょう(移行期間もあり)。そして、前期と後期とどちらから選ぶのかを考えました。前期には多くのファンがいて、後期には以前からのファンは戸惑ったりしており、昔ながらの漫画映画的な面白みは薄れているように感じられます。前期は映画的な結構が比較的しっかりしており、後期はそれを崩す方向に向かっている。ぼくは、現在進行形の宮崎駿を支持したいと思った。過去のいわゆる「宮崎アニメ」を持ち上げることは余りに容易い。けれども、方々で非難を浴びることがある後期の作品にこそ、ぼくは宮崎駿の天才を見ます。ハウルという作品は、その「後期性」が初めて非常にあからさまな形で露出した作品だと思うのです。もののけや千と千尋には既に物語上の不審点が存在し、あるいは必ずしも昔のような分かりやすいハッピーエンドが用意されているわけではありませんが、より多くの観客にとって物語の崩壊が明らかになったのは、やはりハウルからだと思うのです。また、この作品で宮崎駿は自作を語ることを封印しています。宣伝戦略もあったでしょうが、結果的にこのことは、ナウシカ以来作家性が問われてきた「宮崎アニメ」を、再び観客の側に返す契機になりました。作者から観客へ、というパラダイムシフトが行われたと見るべきです。時期はちょうどネットの隆盛と重なりあい、観客が宮崎駿の「意図」を無視して(と言うよりは意図を知る手立てがなかった)自由に作品について語り合うことが可能になりました。これは、「宮崎アニメ」の歴史にあっては画期的なことだったと考えます。もちろん、制作者への取材こそが作品理解に資するものだ、という考え方は根強くあるでしょうが、作者から観客へ、というシフトを重く見たいとぼくは思うのです。そういう意味では、専門外の人が我も我もと自論を展開したもののけも大きな意義を持っていますが、宮崎駿の態度や謎を孕んだ作品構造そのものが観客の多様な解釈を許容するハウルの方が、よりこのシフトを決定的にしています。他にも様々な要因がありますが、ぼくはハウルを宮崎駿の代表作とみなします。

それにしても、異様に長くなりました。残りの作品についてはまた後日ということで。