Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ベスト10のつづき

2010-11-19 01:28:21 | アニメーション
先日の国内アニメーションベスト10(自己評価)のつづき。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(TV版)、宮崎駿『ハウルの動く城』(どうだ驚いたか!)、新海誠『ほしのこえ』、石原立也『CLANNAD』(どうだ驚いたか!)、川本喜八郎『道成寺』、政岡憲三『くもとちゅうりっぷ』、高畑勲『太陽の王子ホルスの大冒険』、山村浩二『頭山』、沖浦啓之『人狼』、今敏『千年女優』

ということでしたが、前回は、なぜハウルを入れたかという説明で終わってしまったので、今日は残りの作品について、なぜ選んだのかを。

まず、『ほしのこえ』。新海誠の作品、とりわけ『ほしのこえ』は、映画としての完成度はそれほど高いとは思われません。では、なぜこの作品をベスト10に数えるのか。そもそも、もしも完成度を重視するなら『秒速』を選んでますし、完成度という基準をぼくは必ずしも万能だとは思いません。ストーリーに無駄がないとか、うまく伏線が張られているとか、キャラクターの行動に納得のいく理由が用意されているとか、そういうのは確かに映画を判断するうえでの一つの価値基準だとは思いますが、絶対ではありません。新海誠はこういう枠組みから逃れ出る作家です。別の評価があっていい。

一人で制作したものを商業ベースに乗せてしまい、それから少人数で商業作品を作り続けている、というこの出自と経歴がまず新海誠の特異なところです。ふつう、日本では劇場用長編を作るのはTVシリーズで修業を積んだ監督であり(もちろん例外もいるが)、大規模なスタジオで長編を制作し、他方、一人ないし少人数で制作する人たちは商業作品でない短編を主に作っています。素人が一人で作った、ということが画期的だと当時評されたのは、こういう背景があってのことです。もっとも、多くの人は短編アニメーションの制作事情など知らないでしょうから(ぼくも含めて)、一人でアニメーションを作った、ということそのものが驚きの対象であったということもあるでしょう。多少の事実誤認があったにせよ、ともかく新海誠は一人でもアニメーションを作ることができるということを世間に広く知らしめたのであり、そしてその作品が驚異的にクオリティの高いものだった、ということが『ほしのこえ』がアニメーション史において重要な位置を占めている理由の一つです。

予告編はネット配信され、作品はパソコンの画面上で作られ、公開されたのが2002年、まさに新海誠は21世紀の申し子であったと言えます。しかし彼の革新性はそのような歴史性を帯びたものばかりではなく、作品自体にも表れていました。まず、風景への異常なほどの拘り。アニメーションというものは、大抵の場合は人物やストーリーが主要な要素であり、監督を務めるのも元アニメーターだったり専門の演出家だったりします。ところが新海誠は風景を描くことに執念を燃やし、風景を映画の主要な要素にまで高めてしまった。その一度見たら忘れられないほど美麗で透明感のある風景は、新海作品と言えばまず浮かんでくるイメージであって、とくに『ほしのこえ』は人物描写の弱さも相俟って、風景美が突出しています。かつて、ジブリの描く緻密で美しい風景はよく話題になりましたが(今ではそれほど珍しくなくなっているが)、新海誠は一人でかつてのジブリ的風景を乗り越えてしまっている。これはとてつもないことだと思います。
それからテーマ性。思春期の少年少女の想いをストレートにぬけぬけと描き切った『ほしのこえ』は、恐らくはパーソナルな作品だからこそ許された自由さで伸び伸びしており、世界観が社会性を欠いていることを逆に武器にしています。余計なものをそぎ落とした、まるで詩のようなこの作品は、その意味でも画期的でした。

また、メカに乗る戦闘美少女という設定はいかにも日本的であり、エヴァやマクロスを参照しながらもそれでいて独自色の濃いものに仕上がっており、やはり21世紀の「日本のアニメ」を語る上で『ほしのこえ』は外せないと思うのです。

・・・あれ、ベスト10について語るつもりが、新海誠オンリーになってしまった。次回はCLANNADから始める予定ですが、注意して短めにしよう。