Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

いわゆる字幕テロについて

2010-11-29 17:40:26 | テレビ
龍馬伝の最終回、しかも龍馬暗殺シーンにおいて、まさかのテロップ。愛媛県知事選の当確のニュースでした。これに対してNHKには批判が殺到、らしい。

ぼくもこれにはさすがに憤った。暗闇の中での緊迫の攻防が、でかでかと出たまっ白いテロップ(いわゆる字幕テロ)で台無し。NHKは○○で××じゃないのかと、ドラマが終わった後一人で毒づいておきました。

龍馬と中岡が和解し、打ち解けた瞬間、突如として押し入った幕府派による惨殺劇。まるでソローキンばりの急転直下!一瞬にして暗闇になり、無言の惨劇はやけにリアルで、ただ切りつける音と物が倒れる音だけが聞こえる。それまで元気だった主人公が突然襲われ、絶命する。この理不尽さがちょっと恐ろしかった。あ。テロップだけは皓皓と輝いていました・・・

龍馬伝は、全体を通しての視聴率はいまいちだったみたいですが、けっこうおもしろかったです。役者陣の奮闘が目立ちました。福山サンも思ったよりずっとよかったですが、何より大森南朋と香川照之。特に後者のいわば「怪演」。すごかったです。竹中直人に匹敵するんじゃないかと個人的には思っておりますが、とにかくものすごい役者だ。上川隆也はあまり出番はなかったけれども、最後の最後の「龍馬ーーーー!!!」という咆哮で魅せてくれました。さすが。いい役者がいい演技をすると、それだけでドラマはおもしろくなります。『龍馬伝』は色々なところでリアルな描写にこだわったみたいで、その関係かどうか知りませんが長回しを多用してカット数を大幅減、それが役者の自然な演技、というか、演技力を引き出していたように思います。

それにしてもあの惨殺シーンは迫力がありました。リアルな描写の集大成ではないかと。暗殺の理不尽さ、死への恐れ、希望が消尽することの無念、生の儚さ、そういったことが殺しの恐怖にくるまれて無言の映像からひしひしと伝わってきて、『龍馬伝』の中でも屈指の名シーンだったと思います。それだけに、制作陣はあのテロップに怒髪天を衝く思いでは・・・。何より視聴者の気が殺がれてしまった事態を無念に思っていることでしょう。NHKの罪は重いぜよ。

嫌気がさす日のこと

2010-11-29 00:00:00 | Weblog
結局のところ、諸悪の根源は「研究」にあるのではないか、という思いが頭にこびりついて離れません。何らかの形で本に関わりたい、読書を続けていきたいという思いもあって今のような生活を続けていますが、でもこの生活様態がかえって読書からぼくを遠ざけているのではないか、と感じるのです。

単純なことです。研究するには専門分野に詳しくなければいけませんから、当然の如く専門書を読みます。すると、それ以外の本を読む暇はなくなってしまいます。

専門書がぼくの興味を惹く、魅力的なものであったら、まだ我慢もするかもしれません。でも、これがくそおもしろくもない。そもそも研究対象に関心がいまいち湧いてこない。ぼくの読みたいと思う本は専門書からは遠く隔たった、専門とは一見何の結びつきもなさそうな本なのです。でも、そういう本を読んでいる時間は今ありません。仮に手に取ったとしても、「こんなものを読んでいる暇はない」と焦って、とてもじゃないですが集中できません。没入することは不可能です。

だから専門書に切り替えるのですが、これがよく分からない。難しい本を読むのがぼくは基本的には嫌いで、もっと楽々と頭に入ってくるような文章の方が好きなのですが、読まなければならない本の大抵は難解な本です。何度も何度も読んでいれば分かるようになる、と人は言いますが、その「何度も何度も」がぼくには耐えられない。「そんなことをしている暇はない」と焦るばかりなのです。

したがって、今ぼくは好きな本も、専門書も、どちらも読むことができません。ただ機械的に辞書を引き引き英語やロシア語を訳し、重要だと思う箇所をメモする作業をしています。でも、それにももう飽きた。ぼくは倦んでいる。何もしなくなって今日で3日目。明日からは論文を書かなくてはいけないので、今度はそちらの作業に移ります。

このような生活は、自分の望んでいた生活なんだろうか。読書ができないのが辛い。映画も、ドラマも、アニメも、今は見る気持ちがどうしても起きません。めんどくさいから。そんなことをしている暇はないから。やる気が一切起きない。好奇心から何かを為そうとする気概はとうに失せました。こんなことになった原因、その元凶は研究を第一義に置く今の生活なのではないだろうか。

この生活から抜け出すことができれば、もっと心に余裕を持ち、読書もはかどり、色々なことが好転するのではないか、と感じられるような、そういう切羽詰まった気持ちになっています。

文学への興味は薄れた。研究とは何か。何であるべきか。読みたい小説はある。今の自分には読めないのではないか、という恐れ。好奇心や関心の減退。疲れ。・・・思いつくフレーズを重ねてみると、ネガティブな言葉が並びます。その中に混じる、研究とは何であるべきか、という問い。この問いに真剣に向き合う時間もない。

唐突に、新海誠のことが頭に浮かぶ。実を言うとぼくは『ほしのこえ』を作りたかった。でも、今の生活を続けていたら、ぼくにはそれを作ることは一生できない。作ろうと試みることさえできない。ぼくは小学生の頃から大学では文学をやると決め、作家になることをぼんやりと夢見ていた。それに近い道を選んだつもりでいた。でも、本当はその道からは無限に遠ざかっていたのかもしれない。どうして文学を、読書を、愛せなくなってしまったのだろう。ぼくはどうしてしまったのだろう。