Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

風の谷へ

2011-06-15 01:00:31 | Weblog
やる気が出たのが6月6日である。やる気が薄れたのが6月13日である。
今日は何もしていないのにほとほと疲れ果てた。だるい。
でもそれでも、約20ページ読む。途中に長い長い休憩をはさんで、なんとか目標のところまで読み通す。はあ、だるい。

「今日の放射線量」を毎日報道するNHKニュース。まるで「今日は曇りでしたね」というふうに。そんな日常になりました。そんな日常になりました!

池澤夏樹が書いているように、人間にはどこか原理的に制御できないものを使用することはたぶん間違っている。いま宮崎駿の言葉を思い出す。人間が自分の手で再び創り出せないようなもの(つまり自然環境)を破壊するのは、非常に野蛮な行為だと。二人の発想に共通しているように見えるのは、人間は自らの身の丈に合った生き方をしなければいけないんだということ。池澤夏樹の思想についてはぼくはよく知りませんが、宮崎駿はよく人間の傲慢さを非難します。

そういえばこの間の新聞のコラムで池澤夏樹はナウシカを持ち出していました。これは非常に正当な連想であって、いまや『風の谷のナウシカ』は原発の物語として観る/読むことが可能です。ただ、とりわけ漫画版で興味深いのは、『ナウシカ』が文明の利便さを求める人間の業をも許容している点。巨神兵のような怪物はどんな理由があろうとも生み出してはいけないし、使用してもいけない。それは分かっているけれども、それでも、ナウシカは巨神兵を従える。しかしながら、その上で、人間の業の深さを認めた上で、ぼくらは生きねばならない、と漫画は描いていました。もちろんこれは巨神兵を肯定する物語ではありません。そうではなく、巨神兵を生み出した人間をも肯定しなければならない物語です。原発に引き付けて言うならば、当然原発を肯定する物語ではありません。しかし原発を求めてしまう人間の業の深さを許容してしまう物語です。そういう傲慢な心が人間にはある。それは仕方ない。でもそれを切り捨てて生きることはできないから、それをひりひりと感じながら生きていかねばならないんじゃないか。ぼくらは美しい人間ではありえないけれども、汚れたままで生きていくしかないのなら、その生き方を肯定しようじゃないか。でもだからといって、ぼくはトルメキアの道を選ばない。それは修羅の道だ。森の人と共に生きることも恐らくできない。だから、風の谷を選ぶ。これは戦う道だ。しかし殺す戦いではなく、生きる戦い。

原発の問題というのは、たぶん非常に深遠な問題に直結するのだと思う。それは人間の業の深さ、文明のあり方、人類の進歩について熟考させる。それらを描いた漫画版ナウシカから、ぼくらは一歩先に進まないといけない。そういう時代になりました。

よし、業の深さは認めた。ではその次は?やはり、風の谷を選ぶべきだと思う。巨神兵を復活させてはいけない。それは「巨大すぎる火」だから。・・・確かにこれは抽象的な夢想にすぎないかもしれない。でもこれは、これから人類が選択しなければならない思想の一つです。「悪魔の発明」は拒否したい。最初は甘い顔をして、しかしこちらがしくじると態度を豹変させる悪魔。