Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

本をよむということ

2011-06-21 23:30:26 | 文学
明日はリョサの講演会が大学であるのですが、これ、予約制だったのか。ぼくは別にスタッフでもないのに行けば入れてもらえるものとばかり踏んでいた。仕方ない、聴講は諦めよう。

さて、無聊を持て余して渡辺一夫のエッセイをパラパラと捲っていたら、おもしろい文章にぶつかりました。「今日は朝から、フランスの古い作家の本を開いて、その一頁と睨めくらをしている。こう進まないと、今日は、この一頁と討死することになろう。註解がいっぱい附いた本なのだが、ある註釈にラテン文の引用があり、それがよく判らないと、本文の意味もよく判らないという箇所で停滞しているのである」。

むかし大学の先輩から、太宰治は小説の執筆中に適切な表現がどうしても見つからないときは、終日屋根の上でその言葉を考えていた、という話を聞いたことがあります。それが事実かどうかはさておき、文士たるものの理想の姿だね、というその人の感想に、ぼくはなるほどと思ったものです。

その伝で行けば、渡辺一夫は研究者の理想の姿でありましょうか。一日に何ページ読めた、などと一喜一憂しているうちは、まだまだひよっこですね。いくら量をこなしても、それを自分の脳内できちんと咀嚼できていないといけない。そしてそれができぬうちは先へは進まぬぞ、という姿勢は、ぼくにしてみればほとんどストイックであり、恐れ入るばかりです。

こういうふうに本を読んでゆけば、大学者になれるのでしょうか。だとしたらぼくにはとても無理そうです。だって理解できない箇所などあり過ぎてしまって、いちいち留まっていては、何物も読み通すことなど到底叶わないからです。

いま、ある詩論を読んでいるのですが、詩に関する専門用語が多くて、やや苦戦しています。詩の勉強なんてこれまで碌にしたことがなかったものですから、日本語とロシア語の参考書を交互に参照しつつ、遅々たる歩みで読書しています。ですが、どうしても分からない箇所は仕方なく素通り。仕方なく?いや、ここで踏ん張る努力をしないといけないのかもしれないなあ。

というわけで、本を読むということについて色々考えさせらてしまいました。

書棚

2011-06-21 00:13:46 | お出かけ
金曜日はひどく具合が悪くなって、学校を休んでしまいました。正直言うと昼間はそれほどでもなかったのですが、夜になると頭痛やら悪寒やらで倒れ込む寸前でした。でも一晩寝たらかなり改善していて、まだ少し残っていた頭痛は薬を飲んで治しました。

さて、ぼくの部屋はとても小さいので、もう蔵書を収容するスペースがほとんどありません。本棚を設置するスペースも当然ありません。そこで悩んでいたのですが、このあいだ通信販売の折り込みチラシに回転式の書棚が掲載されていて、いいな、と。コート掛けのような大きさでそれほど場所を取らない割には回転式ですのである程度の量を収められます。しかし、この商品は自分で組み立てなければならないのでそれが面倒ですし、あとまだ懸案事項もあったために、もっといい商品があるかもしれない、ということで、ちょっくら大きな家具屋へ足を延ばしてきました。

ところが、書棚はあまり置いてないですね。まあ巨大なものはありますけれども、あんなのは部屋には置けない(というか家に置けない)。一品だけ、幅44、奥行き16というミニサイズの書棚があったのですが、たしか2万円近くしたのかな。高さを天井までにすると3万円超だったので、諦めました。

そこでやはりチラシの商品を買おうと思ったのですが、ここにきて例の懸案事項が一層気になり出しました。地震が来たら倒れるぜ?

というわけで、まだ書棚を買う決心がつかないのでした。切迫しているんだがなあ。