Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

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2011-09-04 02:46:53 | 音楽
書いておきたい。

amazarashiの音楽性の特徴を一言で言うならば、それは複数性だ、というようなことをぼくは前に書いた。声の複数性であり、自我の複数性である、と。そして彼らの歌は複数的な自我と戦う歌として聞くことができる、と。

ぼくは間違っていただろうか?

amazarashiの歌は、困難の中を前へ進む歌だ。瓦礫の中から夜空の星を見上げる歌だ。泥の中からビー玉(!)を見つける歌だ。

彼らの歌には、確かに引用がある。「ワンルーム叙事詩」には尾崎豊を念頭に置いているとしか考えられない歌詞がある。けれどもそれにもかかわらず、彼らは自らのアイデンティティについて歌っている。くそったれた現実を生きようとする歌、まさに歌うことによって生きようとする歌。自分はこうやって生きるのだと、もがいてもがいてもがいてもがいて、必死になって生きようとする歌。ぼくはそれを自我との戦いだとかつて評した。でもそれは必ずしも複数的な自我との戦いとは限らない。そうではなく、もっと単純平明で、万人に実感できる、生きるための自我との戦いだった。

amazarashiの特徴は、その歌詞にある。メロディはときに単調で、ときにテンポをずらす。それは全て歌詞を浮き立たせるため、優先させるため。こうして歌われる歌詞は、生き抜くことについて、自らと戦うことについて語っている。

絶望に塗れた曲もある。仄かに希望を感じさせる曲もある。その狭間で揺れ動く曲もある。

「光、再生」と「少年少女」をぼくは高く評価する。もちろん好きな曲は他にもたくさんある。でも、この二曲にぼくは、光と闇の極めて微妙なバランス感覚を見る。生きる辛さとそれでも生きなければならない苦悩と、だけれども温かな慰めと励ましを聞く。誰にだって悪いときはある。今はただ日陰の中にいるだけ。そう、それさえもが、光。amazarashiの歌は全て、光について再考させてくれる歌だ。

これほど絶望的な状況を歌いながら、暗澹たる世界を嘆きながら、それでも生きることを必死に歌いきったamazarashi。聞く人によっては単なる鬱ソングにしか聞こえないのかもしれない。たまにある綺麗な旋律の美しい歌にばかり心惹かれるかもしれない。しかしそれらは彼らの世界観の一面でしかない。彼らの世界観の本質は、まさしく雨ざらしになりながら前へ前へと歩むこと。単純な希望の歌じゃない。絶望の歌ではもちろんない。闇の中の瞬く光。つまり生きる歌であり、清濁併せ持つ「人間」の歌だ。

11月、新アルバムがリリース。
現在公式HPでライヴ映像(「カルマ」)が視聴できます。