ジョン・ハリスという有名な出版人がかつておりまして、彼はナンセンス絵本を出版したことでも知られています。その流れを引き継いで巨大な仕事を成し遂げたのがエドワード・リアであったりするわけですが、彼の『ナンセンスの絵本』や、またジョン・ハリスの出版したナンセンス絵本を眺めていて思ったのは、「言葉のナンセンス」というのは絵本という形にすると絶大な効果を発揮する、ということ。ここでいう「言葉のナンセンス」というのは、要は語呂合わせの駄洒落のことです。
語呂合わせというのはとても耳に心地よいのですが、しばしば意味がなおざりにされます。例えば、「ノッポのシッポが一歩進んだ」とか、いま適当に思いついた文ですけど、語呂はいいのですが、意味不明なわけです。不明というか、なんじゃそりゃ、という意味なわけです。そうやって面白がるのがいいと思うのですが、ただ言葉にするだけではその面白さが十全には伝わらないかもしれません。そこで、「意味」を絵にするのです。つまり、言葉は「音」に特化し、絵は「意味」に特化するのです。それがナンセンス絵本です。
したがって、ここでの絵=イラストレーションとは、しばしば考えられるように言葉を補うものではありません。そうではなく、「意味」として自立しているのではないでしょうか。もちろん、言葉には「音」と「意味」があるわけですから、イラストは後者を補っているのだ、と考えることもできますが、しかしナンセンス詩の場合は、後者を補佐するのではなく担当していると考えた方がよさそうです。
いまふと思ったのですが、「ノッポッポのシッポが一歩進んだ」とすれば、もっとおもしろいですよね。「ノッポッポ」って何だろう、と。この文全体でもナンセンスですが、「ノッポッポ」という単語だけでもナンセンスです。
こう考えてみると、ナンセンス絵本というのはとても興味深いですね。
語呂合わせというのはとても耳に心地よいのですが、しばしば意味がなおざりにされます。例えば、「ノッポのシッポが一歩進んだ」とか、いま適当に思いついた文ですけど、語呂はいいのですが、意味不明なわけです。不明というか、なんじゃそりゃ、という意味なわけです。そうやって面白がるのがいいと思うのですが、ただ言葉にするだけではその面白さが十全には伝わらないかもしれません。そこで、「意味」を絵にするのです。つまり、言葉は「音」に特化し、絵は「意味」に特化するのです。それがナンセンス絵本です。
したがって、ここでの絵=イラストレーションとは、しばしば考えられるように言葉を補うものではありません。そうではなく、「意味」として自立しているのではないでしょうか。もちろん、言葉には「音」と「意味」があるわけですから、イラストは後者を補っているのだ、と考えることもできますが、しかしナンセンス詩の場合は、後者を補佐するのではなく担当していると考えた方がよさそうです。
いまふと思ったのですが、「ノッポッポのシッポが一歩進んだ」とすれば、もっとおもしろいですよね。「ノッポッポ」って何だろう、と。この文全体でもナンセンスですが、「ノッポッポ」という単語だけでもナンセンスです。
こう考えてみると、ナンセンス絵本というのはとても興味深いですね。