Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ナンセンス絵本

2011-09-22 23:39:26 | 文学
ジョン・ハリスという有名な出版人がかつておりまして、彼はナンセンス絵本を出版したことでも知られています。その流れを引き継いで巨大な仕事を成し遂げたのがエドワード・リアであったりするわけですが、彼の『ナンセンスの絵本』や、またジョン・ハリスの出版したナンセンス絵本を眺めていて思ったのは、「言葉のナンセンス」というのは絵本という形にすると絶大な効果を発揮する、ということ。ここでいう「言葉のナンセンス」というのは、要は語呂合わせの駄洒落のことです。

語呂合わせというのはとても耳に心地よいのですが、しばしば意味がなおざりにされます。例えば、「ノッポのシッポが一歩進んだ」とか、いま適当に思いついた文ですけど、語呂はいいのですが、意味不明なわけです。不明というか、なんじゃそりゃ、という意味なわけです。そうやって面白がるのがいいと思うのですが、ただ言葉にするだけではその面白さが十全には伝わらないかもしれません。そこで、「意味」を絵にするのです。つまり、言葉は「音」に特化し、絵は「意味」に特化するのです。それがナンセンス絵本です。

したがって、ここでの絵=イラストレーションとは、しばしば考えられるように言葉を補うものではありません。そうではなく、「意味」として自立しているのではないでしょうか。もちろん、言葉には「音」と「意味」があるわけですから、イラストは後者を補っているのだ、と考えることもできますが、しかしナンセンス詩の場合は、後者を補佐するのではなく担当していると考えた方がよさそうです。

いまふと思ったのですが、「ノッポッポのシッポが一歩進んだ」とすれば、もっとおもしろいですよね。「ノッポッポ」って何だろう、と。この文全体でもナンセンスですが、「ノッポッポ」という単語だけでもナンセンスです。

こう考えてみると、ナンセンス絵本というのはとても興味深いですね。

やる気のなさについて

2011-09-22 02:32:30 | Weblog
ぼくはやる気のない人間です。覇気がない。気力がない。やる気は欲しいと望んでいます。でも、やる気がないのです。生来の怠慢のせいなのか、それとも体調を壊したせいなのか(数年前に体調を壊してからぼくはずっとやる気がない)、それは分かりません。やる気がないと本も読めないし、映画も見られません。就職活動もできません。だからぼくは非常に肩身の狭い、窮屈な思いをしています。

ぼくも就職活動をしたことがありますが、求められている人材というのは、とにかく「やる気のある人間」なのです。バイトでもそうですね。だからぼくは、ないやる気を振り絞ってエントリーシートを書き、面接に臨みました。それは非常につらい体験でした。

今の生活も、とにかくやる気が求められているように感じます。やる気がなかったら大学に残ってはいけないような気さえしています。つまり、やる気がなければ社会で働いてはいけないし、勉強してもいけないわけです。

でも、それだったらぼくのような人間はどうすればいいのでしょうか。生きていてはいけないのでしょうか。ときどきそのようにぼくは思い詰めてしまいます。やる気がなかったら、人間は死んだ方がいいのでしょうか。なんでやる気がないだけでこんなに窮屈な思いをしなければいけないのでしょうか。

こんな考え方は、まあ普通の人はしないんでしょうね。健全な人、やる気のある人はこんなことでくよくよ悩む人間がいること自体、考えつかないんでしょうね。やる気がないんだったらやらなきゃいいじゃん、ただしそれ相応の暮らししか待っていないがな、と彼らはぼくを断罪するのでしょうね。

やる気がない人もそれなりに満足して生きていける社会にぼくは住みたいなあ。それは資本主義社会ではない!と言われそうですが、でも、そんなことを言う人たちが多数派の社会では生きていたくないなあ。ぼくは知っているんですよ、そうではない社会の存在を。
ああ、ものぐさ太郎の昔話って、なかなか寓意に富む話ですよね。