Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

チェーホフ博物館

2009-08-11 00:41:51 | 文学
ロシアのメーリホヴォというところにチェーホフ博物館がありますが、そこのホームページを見ていて、あれ、と思いました。

開館は10時から17時までで、チケット販売は10時15分から16時30分。
「?」
なんで、チケットの販売時間が開館時間よりも遅いのでしょうか…
注意書きがありました。いわく、「事前の承認(話し合い)に従うときのみ」
「?」
ロシア語ができなさすぎて意味が分からない…

さらに、料金も「?」
散策だけなら一般は50ルーブル。ただし外国人旅行者は90ルーブル。へえ、外国人料金なんだあ、とがっかりして、次の行を見てみる。
展示見学もするなら、大人は120ルーブル。ただし外国人旅行者は100ルーブル。
「?」
展示を見たら、外国人の方が安くなるのか…しかも散策だけのときとほとんど値段が変わらないのはどうしてだろう…

「?」だらけのメーリホヴォでした。

そういえば、開館日欄に、いつでもやっています(ただし、月曜日と最終火曜日を除く)、と書かれていましたが、変な書き方だなあ、と。閉館日:月曜と最終火曜、と記せばいいのに、などと思った。まあこれは別にいいんですけどね。

限りなく透明に近いブルー

2009-08-10 00:54:53 | 文学
食わず嫌いだった村上龍の小説を読了。

飽きれるほどつまらなくて、途中で投げ出したくなりましたが、とりあえず最後まで読み通す。しかし結局おもしろくなりませんでした。これが芥川賞?
きのうラテンアメリカ文学アンソロジーを読んだばかりで、文学に求める期待値が高すぎたのでしょうか。普通の小説ってこんなものか。

麻薬、乱交、暴力、嘔吐、などなどで満ち溢れた中編(それとも長編?)で、内容はひどい。で、そこに語り手の空想とか観察な記述が挟まれているわけですが、ぼくとしてはそれもいまいち。だいたい、暴力的な内容に詩的な語りという組み合わせは、いかにもキッチュで、あまり好きじゃないです。

どこが評価されたのかな、といぶかしみながら解説を読んでみると、この小説は「清潔」だと評されたらしい。それは、どうやら「この作品がじつは奇妙な静けさに浸されている」ことを言っているようです。たぶん覚めた視線で馬鹿騒ぎを描写している点を指しているんだろうと思います。そして、語り手の「感覚を全開にした受動性」は、「〈私〉意識の解体を、文体そのものにおいて、みごとに定着してみせた」ということです。現実と非現実との転倒も重要な主題らしい。

う~む、意味づけ(あるいは価値判断か)を拒否してただただ対象を眺める視線、というのがそれほど当時はインパクトあったのでしょうか。確かに日本文学においては「私」という存在意識は重大で、それが取り払われている、という事態には注目が払われて然るべきなのかもしれません。新世代の出現を予感させる出来事だったのかもしれません。でも、眼前の出来事を無批判に受け入れる主人公、という設定はそんなに珍しいことで、大事なことなのでしょうか。

文体ということで言うなら、この小説が主に現在形を用いて書かれていること、そして最後の一文が未来形になっていること、などにも意味が見出せそうです。現在形なのは、目の前の出来事をひたすら写し取っている印象を読者に抱かせるのに好都合で、暴力的な描写にも適しています。また、最後の未来形は、ほとんど用いられてこなかった未来形を最後に持ってくることで読者にインパクトを与え、この作品を文字通り未来へと開かれた物語にします。後日談(あとがき)のようなものが付されているのは、まさに予想通り、というところでしょうね。

ただ、どうしても内容に目が行ってしまうのは無理からぬところで、内容にばかり言及して文学そのものを見ていない、などという批判はほとんど理屈が通っていないように思えます。このようなスキャンダラスな内容は、「目利き」には等閑視され、ただ語り手の冷たい視線のみがクローズアップされたというのなら、ちょっと失笑ものです(失敬)。意味付けをしない、という視線は、眼前の出来事が派手であればあるほど効果的なわけですが、もしもそうした視線のみが注目されたのであれば、出来事は単なる記号と化し、この小説は極めて観念的な、しかも大して意味がないような観念を語る観念小説に留まってしまいます。小説を貶める批評でしょうね、こんなのは。

かといって、内容に注目しても特に得るものはないです。文章はうまいですけど、それだけ。と、ぼくは思うわけです。

でも好きな人は好きかもしれないですね。やはり内容に惹かれるのかも。それはまとまな読みだと思いますよ。変に「私」の解体などと言ってスキャンダラスな出来事を封殺してしまう読みよりも、よっぽどまともですよ。出来事に意味付けをしない新たな書き手が誕生した。これは文学史上の事件だ。でも読者は、だからなに?ってのが本音では。要するにおもしろくないんですよ、そういう読みは。読んでいるときに感じる感情っていうのがあるはずで、それを解き明かしたり、次読むときはもっと楽しめたり、そうなるような解釈が必要なのに、「私」の解体って言われても、困りますよ。この小説に適した読みなのでしょうか、それは。「私」意識の解体を論じたいなら、材料は他に山とあります。

感じるだけの主人公が能動的になる箇所とか、そういう亀裂を論じられればこの小説も楽しくなるかも。電車で女性の足を引っ掛けるところです。あそこは幾分それまでの設定から浮いているところですよね。なんでだろう。

つまんないと言いつつ長くなりましたが、こう読めばおもしろく感じられる、という視座を探していたのかもしれません。

ラテンアメリカ文学アンソロジー

2009-08-09 01:11:50 | 文学
福武文庫のラテンアメリカ文学アンソロジー、『美しい水死人』を読みました。

収録されている作家は、A・レイエス、O・パス、ファン・ルルフォ、C・フエンテス、イバルグエンゴイティア、エリソンド、パチェーコ、A・モンテローソ、ガルシア=マルケス、リベイロ、マヌエル・ローハス、ホセ・ドノーソ、オラシオ・キローガ、エルナンデス、ムヒカ=ライネス、ビオイ=カサーレス、コルタサル。

表記方法が統一されてませんが(名前を省いたり省かなかったり)、あしからず。

知らない作家もけっこういました。でも、かなりおもしろいです。
まず、最初の二つの作品、「アランダ司令官の手」と「波と暮らして」に度肝を抜かれました。なんだこれは!これはとんでもない短篇集だぞと思って読み進めると、一旦落ち着いた作風のものが並び、でもまたしても奇怪で幻想的な作品が畳み掛けるように続きます。お、おもしろい…。無学なぼくはラテンアメリカ文学というと土着性とか幻想性とかいう程度のことしか思い浮かびませんが、この短篇集は特にその幻想性が色濃いです。解説によればそういう意図で編んだようですが、でもそれだけに縛られているわけでもありません。たとえば、個人的にこの短篇集の白眉であるホセ・ドノーソの「閉じられたドア」は、確かにどこか幻想的でありながら、しかしリアリティに裏打ちされた小説であり、完全に蜃気楼の世界にあるわけでも、幽明の堺を漂っているというふうでもなく、表向きはリアリズム小説でありながら、奇想をテーマにしているだけに不可思議な霧に包まれている、そういう作品です。

少年は幼い頃よりとにかく寝てばかりいて、長じて彼は母に言う。自分は寝ているときは至福を味わっているが、ひとたび起きてしまうとその幸福感を忘れてしまう。夢の世界に通じるドアは閉じられてしまう。自分はそれを開きたい。そうすれば、夢の中の幸福感を現実に持ち込むことができる。そのためには、眠らなければいけないんだ…

彼はただ眠るためだけに、いや眠ってそのドアを開くためだけに人生を選択し、計画します。その結果彼に襲い掛かる数々の不幸。その過程の描写は、奇想をテーマとしているにもかかわらずリアリスティックな筆致であり、生じる出来事も日常的な困難ばかり。ですが、この小説は「生きる目的」一般に敷衍できるような寓意性を確実に有しており、その力強い描写は深い感銘を残します。これは自らの理想のためだけに自らの一生を捧げる男の物語であって、その生き方が何より力強いのであり、圧倒的に美しいのです。しかも、この作品の非凡なところはこれが完全にリアリズム小説なのではなくて、あくまで摩訶不思議な物語、奇妙な男の一代記として成立している点にあります。これだけの短編はざらにあるものではない、と思います。すばらしい。

奇妙な味わいの短編が幾つもあります。一風変わっているのはムヒカ=ライネスの「旅行者―― 一八四〇年」でしょうか。ほとんど悪魔的に魅惑的、あるいは蠱惑的な美女の突然の来訪により、心をかき乱される若い夫妻の物語。夫も妻も、そのえも言われぬ美貌と魅力を持った女旅行者の誘惑に引き寄せられ、眠れぬ夜を過ごします。

夫が誘惑にかかるのはよくある話だとしても、妻までもが美女の手に落ちてしまう、というのは興味深いですね。レズビアン文学、としても当然読むことができますが、男女を相手にしている点で普通とは変わっており、またその女が両性具有的であるという記述からして、その方面の文学の系譜に連なるのかもしれません。フランス的な香気の漂う佳品です。

本書はいずれの作品もぐいぐい読者を引き込み、飽きさせません。格好のラテンアメリカ文学入門かもしれませんね。

サマーウォーズ!!

2009-08-08 01:09:44 | アニメーション
色々と都合があって観られなかった『サマーウォーズ』、ついに観てきました。

超絶の悶絶もんでした。

誰かが日本のアニメサイコーって言ってました。
これは家族が主人公だって、たしか監督が言ってました。
なるほどなるほど。
なんか、いろんな意味で日本的なアニメだと思います。

分家とか本家とかの大家族、マスコットキャラみたいなアバター、バーチャのような格闘シーン、数学オタク、強気な(少)女、ゲーム、ヴァーチャル世界のヴィジュアル、どれを取っても日本的であるような気がします。旧来の日本と現代の日本とをごたまぜにして、「家族」というキーワードでまとめあげたような、そんな印象。

ここをああしてほしかった、という希望がないわけではありませんが、でも総じてすばらしかったですよ。いくらなんでも都合がよすぎるとか、そういう批判はあるでしょうけども、でも、なんか馬鹿馬鹿しさみたいなのがこの映画にはあって、といってもけっこうシリアスな状況に追い込まれてゆくことになるわけですが、でもどこかまったりとした、気の抜けた空気感があって、そういう批判っていうのはほとんど挙げ足取りのような、本質を掴んでいない批判である気がします。物語の細部の整合性や合理性を重んじる人であれば我慢ならないのかもしれませんが、この映画の魅力の一つは、その都合のよさを笑って受け止めてしまえるような馬鹿馬鹿しさにあるように思います。

もちろん、その馬鹿馬鹿しさを醸し出しているのは大家族。大騒ぎして、喧嘩して、笑い合って、泣いて、ああいいなと素直に思えてくるところがすごい。本当に、この映画の主人公っていうのは一人じゃないですよ。90歳のおばあさん陣内栄もそうだし(最高の演技だった)、佳主馬も、侘助も、当然健二も夏希も、主人公並みでした。現代のアニメーション作品として集団を主人公にしたところは新鮮で、楽しめました。

ところで、健二が暗号を解いている途中で鼻血を出すシーンでは、『EDEN』という漫画の同様のシーンを思い出してしまいました。人は極限まで集中力が高まると出血するのか?

それはそうと、超が付くほどおもしろかったです。今年は「破」といい、貞本義行大暴れですね。大満足でした。

江戸川乱歩文庫

2009-08-06 23:18:54 | 文学
春陽堂の江戸川乱歩文庫、『心理試験』を読みました。未読も既読もありましたが、とりあえずまとめて読了。収録作品は、

「心理試験」
「二銭銅貨」
「二廃人」
「一枚の切符」
「百面相役者」
「石榴」
「芋虫」

とりわけ印象深かったのは、「二廃人」「石榴」「芋虫」。ちなみに「石榴」は「ざくろ」と読みます。

「一枚の切符」あたりまでは、純然たる探偵小説として読めますが、「百面相役者」からかなり怪奇色が濃くなります。「芋虫」はご存知の方も多いでしょうが、かなり凄まじい話ですしね。

ぼくは小学生の頃、例の少年探偵団シリーズが大っ好きでして、この46巻のシリーズを読破いたしました。今なら考えられないですねー。46巻を読破って。ちなみにルパン・シリーズ30巻も読破いたしました。当時は読書欲旺盛な少年でした。ただ今日はこれについての話ではないのでひとまずおいといて、「心理試験」について言及。

この短編は実は46巻のシリーズにも収録されていて、ぼくは当時初めてこれを読んだのですが、この話のことを優に10年以上経った今でもよく覚えていたので、少年のぼくにも相当おもしろかったんでしょうね。今でもおもしろいです。ただ、当時のぼくには気が付かなかったことですが、この物語はドストエフスキー『罪と罰』を下敷きにしているところがあるんですねえ。まず老婆殺しという点、そして犯人の思想。彼もラスコーリニコフと同様、ナポレオンの大掛かりな殺人を罪悪として考えず、賛美していたと書かれています。もっとも、『心理試験』ではその思想の掘り下げは見られず、犯人がいかにその犯行を見破られるか、という過程が詳述されます。見破るはわれらが名探偵、明智小五郎!
そのお手並みはいつ読んでも鮮やかです。

さて、「二廃人」は夢遊病という、いかにも乱歩の好きそうな題材の使われた小説。本書に収録された小説のほぼ全てに当てはまることですが、「二廃人」にも大どんでん返しがあります。うう、ネタバレせずにはレビューを書きにくい小説だ…

「石榴」は、もし小学生の頃に読んでいたら、一生トラウマになりそうな小説。過去に起きた硫酸殺人事件を、投宿先で出会った探偵小説愛好家に物語る警官。二転三転する事件の真相。しかしこの小説で最もぼくの印象に残ったのは、その筋書きというよりはむしろ遺体の描写。ううう…。しかもそれを模写する狂った画学生。うううう…。
ある書物の連想でこの事件を想起し、両者を関連させるというのは、専門的なことを言うと、「リファテール的なインターテクスチュアリティ」のありようを物語っているように思えます。あ、論文で使えるかな、と思ってしまうあたり、トリゴーリン的な職業病(職業じゃないけど)か。トリゴーリンはチェーホフ『かもめ』に登場する作家。すみません、後半意味不明かも(でも説明すると厄介なことに)。

やはり「芋虫」は物凄い小説ですね。トランボの『ジョニーは戦場へいった』にも登場するような(未読ですが)、「五体不満足」な傷病兵がものすごい雰囲気を出しています。両手両足が根元から切断され、耳はきこえず口もきけない、という戦争帰りの男が妻と二人で暮らしています。妻は夫がそのような姿で戻ってきたことを嘆きましたが、次第にこの異形の身体に異常な性欲を募らせてゆき…
変態性欲と怪奇趣味が合体した、何度も言いますが物凄い小説。ぼくは「人間椅子」を非常に高く評価していますが、これはそれとはまた違うレベルで凄まじいですね。

ところでボルヘスはチェスタトンを好んだそうですが、個人的にはチェスタトンよりも江戸川乱歩の方がよほど上手(うわて)だと思っています。怪奇性とか異常性とかではなく、最後のどんでん返しの意外性や合理性の点で、上を行っていると思うんですよね。「二廃人」などは、ボルヘスの「刀の傷」(だっけ?)と読後感が似ていて(内容はまるで違いますが、その意外性が)、もしもボルヘスが乱歩を知っていたらどう感じたのだろう、と気になります。しかしあの博学のボルヘス、もしかして知っていた?ってことはないか。

修士論文 第二章・完

2009-08-05 01:13:13 | お仕事・勉強など
去年からせっせと書き次いできた修士論文、第二章が終わりました。他の部分と合わせて、10万字突破。予定ではまだあと一章残っているのですが、もう分量が分量ですので、これからどうするかは先生と要相談、というところでしょうか…

第二章は、メルツァーの『サロメと踊るエクリチュール』という本を読んで発奮してほとんど一気に書き上げました。実は既に下書きはできていたのですが、それを大幅に改良。文学作品の具体例をたくさん出しながら論じられたのでよかったです(それまでは抽象的過ぎたので)。しかし、こうして書き上げてみて分かったのは、下書きの段階でもう今回の改良作を射程に捉えていたことです。思想の萌芽が既に見られたんですね。今回の作業は、だからその草稿を具体化する作業だったようです。

ぼくは神経衰弱ということで薬を飲んでいるのですが、その薬の副作用に悩まされて、ここ何年間も、以前のように本を読むことができないでいます。それで、去年から執筆を始めているのにもかかわらず、ここまで時間がかかってしまったんですね。健康な人が羨ましいですよ。ただ、先月から処方してもらっている薬があまり副作用がないようで、そういうわけで、論文の執筆も大変はかどりました。とにかく本を読めたのが大きかったです。ちょっと前だったら、具合悪くてとてもじゃないけど読めなかったような評論を丸々一冊読むことができました。ありがたい。それがメルツァーです。

『サロメと踊るエクリチュール』はけっこう難しいことも書いてありますが、文学研究者を目指す人なら必読書だと思います。ただ、ミメーシスって何?リプレゼンテーションだって、はあ?という人には難しすぎるので、大学院生以上が対象?でもぼくも、大学に入りたての頃はミメーシスのミの字も知らなかったぜ。へっへっへ。だから、学部生でまだそんなの知らないよという人も、焦らずに勉強してください…。それ以外の人も同様。って、なんかあまりにも生意気なことを書いてますが、この本を薦めたいだけなんです。とってもいい本でしたからね。

明日からまた小説でも読もうかなあ。

『神の裁きと訣別するため』

2009-08-04 00:35:45 | 文学
アントナン・アルトー『神の裁きと訣別するため』所収の同名作品を読みました。

アルトーは有名な役者・演出家・理論家ですが、実はその著作を読むのは初めて。ただし、「神の…」はラジオ・ドラマとして書かれたものだそうです。

率直な感想としては、難解。更に醜悪。
要はキリスト教やアメリカ・ソヴィエトを攻撃する激烈なプロパガンダであり、また新たな身体、「器官なき身体」を称揚し提案する文章ですね。ちなみに言うとこれは通常の意味での「ドラマ」ではなく、本当にプロパガンダ的なメッセージ文です。

神を糞便とか黴菌とかと呼んでこれを非難、また身体性を持たない人間をも否定し、新たな身体の獲得を呼びかけます。それがいわゆる「器官なき身体」でありますが、ぼくにはその内実がよく分かりません。ドゥルーズ、ガタリの著書にはこの概念が検討されているはずですが、ぼくはよく知りません。どうやら性的なもの、生理的なものを排除した身体であるようですが…ぼくの読解なんてそらまあいい加減なものなので、よく分かりません。

解説では触れられていませんでしたが(ぜひ触れるべきだと思いましたが)、この作品はラジオ・ドラマのためのもので、読まれることを前提としていない、あくまで上演されることが望まれています。実際、アルトーは本書に収録されている書簡において、朗読の声やら何やらといった聴覚的要素を最も重視しています。彼は本や雑誌という媒体を嫌悪すらしています。それがこうして文庫に収められるようになったのは、少し皮肉なような気もしますが、しかもそれは紙の本という媒体の危機が叫ばれる時代のことなのですから(2006年初版)、二重の意味で皮肉ですね。

それにしてもアルトーはだいぶ自己主張の激しい人物だったようで…書簡からはそれが如実に伝わってきます…ちょっと付き合いにくい人かも。

そうだ、アルトーは、この作品は野人にも明らかだ、と言っていますが、けっこう難解な気がするのですが。断片的な記述、何語でもないという意味不明の詩など、とまどう読者もいるはず。いやこれは大衆的だ、と反論されそうですが、到底この作品が大衆に容易に受け入れられるようには思えません。ま、だからどうということもないのですけどね。ただ、アルトーには自分の主張が余りにも自明で明白なことのように感じられたのでしょうか。西洋世界にあっては異端の思想であるはずですが。

圧制について

2009-08-03 01:15:27 | テレビ
圧制と言っても、別にフランスの絶対王政について書こうとしているのではありません。そうではなく、身近なこと。

ときどき、お客様は神様だ、みたいな発想をするお店の幹部の人がテレビで取り上げられることがありますよね。お客からクレームが出たら、それを宝物だと考えろとか、そういうの。

で、そういう幹部の人っていうのは、ときどき物凄く高圧的なことがあるのです。お客には平身低頭なのに、部下に対しては、彼らが人間だとは思っていないような態度なのです。「~しろよ」とか「~をやれよ」とか「なんで~しねえんだよ」とか、そういう物言いで、あろうことか自分よりも年上の人に対してもこういう言葉使いをするんですね。お客へのサービスがなっていないという理由で、自分の部下をこうした言葉で責め立てるわけです。はっきり言って、こういう言葉使いにはぼくは我慢なりません。相手への敬意というものを明らかに欠いています。こんな言葉使いをする人の野卑な人間性が露わで、見ていて(聞いていて)気分が悪くなります。

こういうのを嫌うって、チェーホフ的だなあ、と自分でも感じますが、本当にやめてもらいたいですね。だいたい、結果的に自分の損になると思うんです。こんなふうに責められたら部下はストレスを感じますよね。するとそのストレスは家庭に持ち込まれます。はけ口は奥さんや子どもたちであったりします。子どもたちはそのストレスを更に学校で発散し、別の子供たちに感染します。その子どもたちはまた別の子どもに、あるいは両親にそれをぶつけます。奥さんは他の奥さんに対して、あるいはお店でストレスを発散します。夫も友人やお店に対してストレスをぶつけます。どこかのお店に対してストレスを発散する場合は、それは当然クレームをつける、という形になります。巡りめぐって幹部の人たちは怒りで顔を赤らめることになるわけですよ。まあちょっといい加減な筋道ですが、でもありそうなことです。

こういう幹部の人たちが、おれは嫌われてもいいんだよ、お客様のためだからな、とか言うのを聞いていると、本当に腹が立ちます。お客のためになっていないし(部下だって、その家族だって別のお店ではお客ですしね)、第一、お客のためだからと言って人間のもちうる尊厳を蹂躙するような言動が許されるのでしょうか。彼にはそんな権利はないはずです。

誰かと話すときは、相手を気遣いたいものですね。

魔女 才能 血

2009-08-02 00:00:44 | アニメーション
『魔女の宅急便』について、ちょっとだけ思ったことを。

この映画は才能についての映画だとぼくは昔から思っていて、というのは、魔女の能力というのは人間が誰しも持っている才能というものの比喩ではないかと考えられるからです。キキがほうきで空を飛ぶ能力は実は特別なものではなくて、数多ある才能の一つだというわけですね。

まあ大人がこの映画を観れば多くの人が同じような感想を持つだろうなとは予想がつくのですが、あえて話を進めます。

したがって、この映画はキキが自覚していなかった才能をはっきりと認識し、それについて熟考し、ついに本当にそれを開花させるまでを描いた作品、として捉えられるわけです。しかし開花させた、と言い切るのはちょっと早計かもしれませんね。才能と共に歩んでいく話、とでもするのが妥当なところでしょうか。

これが才能についての物語であることは、別の観点からも明らかであるように思います。それは、声優さん。主人公のキキの声は高山みなみがやっていますが、彼女はあの絵描きの少女ウルスラの声も担当しているんですね。エンドロールを見れば分かることですが。つまり、キキとウルスラというのはパラレルな関係として描かれているのです。キキの成長した姿がウルスラ、ということかもしれません。映画の後半、ウルスラは「絵を描くこと」についてキキに話をしますが、それはまさに才能一般の話でもあります。同じ声をした者同士が才能について語らっているわけですね。

魔女は「血」で空を飛ぶ、とキキは言いますが、それは、才能というものはその人に生来与えられているものなのだ、ということを示唆しているのではないかと思えてきます。それを発見し、伸ばすことは人間の義務なのかもしれません。

でもキキにはもう才能が明らかである分、彼女はぼくらよりも幸福ですよね。ハッピーエンドで終わるべくして終わる映画、ですね。

東京マグニチュード8.0

2009-08-01 00:25:22 | アニメーション
魔女の宅急便がやっていたので、そっちのことを書こうかと思いましたが、とりあえず今日はノイタミナで。
ちなみに、パソコンの不調ですが、本当に近いうちに完全にぶっ壊れるかもしれません。で、買うかもしれません。そのとき、場合によったら1週間くらいはブログもおあずけになると思うので、3、4日更新が滞ったら、ああ壊れたんだな、と思ってください。
もし買うとしたらXPにします。というのも、ぼくはロシア語でときどき入力するのですが、ヴィスタはそれに欠陥があるらしいのです(ネットの画面ではロシア語が入力できないそうです)。ちょっと古いですけどね、仕方ないですね。中古なら安いかもしれないですし。

さて、『東京マグニチュード8.0』について。これは、現代の東京で大地震が起きたらどうなるか、というシミュレーション・アニメです。女子中学生が主人公で、その弟と、それに被災先で知り合った女性と三人で協力して行動し、なんとかこの事態を乗り切ろう、というお話。

今週の放送では、余震などの影響もあってか東京タワーが倒壊しました。ですが、ぼくの関心はそこにはなくて、あったのはトイレ。トイレです。ヒロインが、歩いている途中でお腹が痛くなってしまうんですね。実はぼくはお腹が弱くて、しょっちゅうお腹が痛くなっているのですが、こういう震災のときは困るなあ、と常々思っていて、どうするんだろうと気になっていたのですが、このアニメでシミュレーションが見られてよかったです。

携帯トイレなるものがあるんですね。仮設トイレは非常に混んでいて、緊急の時には役に立たない恐れがあります。そこで、携帯トイレ。しかし、ヒロインも渋っていましたが、ぼくもこれはやだなあ。けっこう神経が細いので、できるかどうか…まあ切羽詰っているときは躊躇している暇はないのかもしれませんが。尾篭(びろう)な話で恐縮ですが、これは大問題ですからね。

アニメではこういう描写があったのはうれしいですが、しかし処理方法などは描かれませんでしたね。それはさすがに自主規制?でも重要なんですがねえ。

作品としては、派手な題材の割りに地味な印象で、本当に些細な描写を重視しているようです。エンターテインメントとしても楽しめますが、後学のためにいいかも。アニメーションに興味のない人でも、お勧めです。

ただ、今期から開始の木曜アニメは個人的にはちょっと低調?