Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

世界の終りと・・・

2010-04-04 23:34:53 | 文学
村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読みました。
いわゆる並行世界もので、現実世界とそこに生きる「私」の思考回路の中の世界とが舞台となっています。おおまかなあらすじを書くこともできますが、めんどいのでそれは省きます。

印象的なイメージが多く出てくる小説でした。眼球にナイフをずぶりと突き立てて、そうすることで「夢読み」になる「僕」のエピソード、一角獣の頭骨には古い夢が詰まっているとか、その頭骨が淡い光を発するところ、いわば「純粋な穴」を掘る老人たち、カリカチュアされた大男と小男の風貌、などなど・・・。

いささかロマンチックに過ぎると言えば確かにその通りかもしれなくて、心の在り処とか、心を持たない少女とか、そういう描写はアニメ的でしょうね。そんなところに不満を持つ人がいるかもしれません。

「世界の終り」の世界において、まるでカラマーゾフのようなテーマが描かれていることにはちょっと驚きました。「世界の終り」は、苦痛も何もない世界で、皆平穏に暮らしています。喜びもないけれど、その世界は完璧で、完結しています。人々は心を持っていませんが、それで苦しむこともない。けれども、この世に完璧に自律した世界というものはありえません。どこかで膿を排出しなければならない。その世界の完璧さの代償となっているのが、そこに住む一角獣です。彼らは人々に生まれてくる心を吸い取って、やがて衰え、死んでゆきます。

「僕」は、弱い者(=一角獣)に何もかも押し付けて完全さを保っている世界になんて住むことはできない、と言うのですが、これはまるで、カラマーゾフのイワンの台詞をパラフレーズしたもののように聞こえます。子供を代償にした世界になんて住むことはできない、お断りだ、と。

「世界の終り」はある種のユートピアに他ならないのですが、なぜそこに留まることができないのか?それは、その世界が完璧だからです。完璧に見えるからです。しかし完璧などというものは、永久機関が存在しえないように、この世には存在しません。ならば、その世界はどこかに偽りを隠している。綻びを隠している。そしてそれを弱い者が繕っている。この欺瞞、犠牲に気がついたからこそ、「僕」は脱出を試みます。

世界を損なっているものがあるからこそ、世界は自然でいられる。それを隠しているのは偽善に過ぎません。でも、隠しているにしろさらけ出しているにしろ、どちらの世界も損なわれていることには変わりありません。そして、その損なわれているところを埋めるべく駆り出されるのが弱い者であるという点も、恐らく変わりありません。要は、それを巧妙に隠蔽しようとするか否かの違い。しかし本質的には、両者にさしたる違いはないのではないでしょうか。

「僕」は結局「世界の終り」に留まることを選択しますが、これは一見すると何の解決にもなっていないように見えて、実はこれしかないというラストだったのかもしれません。

うむ、色々と考えてみたくなる小説ですが、今日はあまり時間もないのでこのへんで・・・

ある大手予備校が嫌いな訳

2010-04-02 23:33:00 | Weblog
4月からちょっと忙しくなりそうです。珍しい。

それはさておき、ぼくは高校生の頃、某大手予備校に通っていたのですが、そこが嫌いでした。なぜかというと・・・いや、理由を説明する前に、どうしてその予備校に通うことになったのか、いきさつを書いておかねばなりません。

ぼくの通っていた高校では、強制的にその予備校の模試を受けさせられていたのですが、それでぼくは成績がよかったので、特待生になったんですね。授業料が無料になったわけです。高校2年生に進学したとき、大学受験のためにどこか塾に通った方がいいらしい、ということで(そういう雰囲気がクラスにあったのです)、ぼくが決めたのがその予備校でした。というのも、授業料がタダだったからです。

その予備校では、成績上位の者は「東大クラス」あるいは「東大特進クラス」なるものに入り、東大を目指すべきものと定められていました。ぼくはこれに反発してしまった。成績上位の者が上位のクラスに入るのは自然なことです。それはいい。でもなぜそれが「東大クラス」という名前を付けられ、東大を受験するための訓練が施されているのか。ぼくは、別に東大に行きたいとは思っていなかったし、予備校に進学先を決められるのも抵抗がありました。

でも、これだけならまだ許せるのです。この予備校では、模試の成績上位者で且つ東大志望者には、優遇措置を与えていたのです。仮に模試で一番になっても、東大志望者でなければ優遇されません。優遇というのは、お金の面での話なのですが(たしか夏期講習などが無料になった)、ぼくはこの措置を受けるためだけに、志望校を東大にし、そして優待されるようになりました。もちろん、こんな制度は腐ってると思ったし、心底嫌になりましたが、お金のない家庭の高校生には、確かにありがたい制度ではありました。

要はこういうことです。この予備校は、元から成績のいい高校生を無料で集めて東大に合格させてそれを実績とし、一方で成績のよくない高校生から金を巻き上げるわけです。おかしいですよ、こんな構造は。この仕組みが見え見えで、それに嘔吐を催した高校生のぼくは、主にZ会で勉強することにし、予備校は補助的にしか使用しなくなりました。

頭が固いとか言われそうですが、成績上位者は東大を目指すものだ、みたいなレールに乗せられることは我慢ならなかったし、予備校の利益追求の姿勢にも嫌気がさしていました。そんなわけで、ぼくは某大手予備校が今でも好きじゃないのです。

たとえば、シニフィアンとシニフィエ

2010-04-02 00:06:42 | 文学
専門とする(または強い関心がある)文学作品についての批評をブログで書くのは差し控えたいと思うので、おおざっぱなことだけ書きます(と思ったらそうでもなくなった)。

たとえば、シニフィアンとシニフィエという言葉がありますが、これはまあ、意味するものと意味されるもの、というふうに捉えてしまっても大きな間違いではありません。厳密に言うと違いますが。で、ある文学作品を批評するに当たって、この作品の特徴はシニフィアンとシニフィエとの乖離だよね、とか、シニフィアンの優越がテーマだよね、とかいう言い方がよくされます。それは間違いではありません。実際、その作品では言葉とそれが表わすはずの概念とが一致しておらず、そのことが非常に奇妙な効果を生んでいるからです。

でも、ついこの間も人と話していて改めて感じたのですが、こういう言説がその作品のおもしろさを解き明かす批評になっているとはどうしても思えないのです。言うのは簡単なんですよ。そりゃシニフィアンの優越だよ、と。シニフィアンの優越という現代的テーマをその作品にあてはめて、それを現代の文学史に位置づけようとしているってことは分かります。けれども、それはちょっと違うんじゃないか。

その文学作品がどのように文学史の中に入ってきて、文学史を改変していくのか、ということは確かに興味深いテーマではありますが、でもそもそもそれがどういう作品なのか、なぜそれがおもしろいのか、ということがまずは大事なはずで、それが自分の中で定まって初めて文学史との関連を云々できるのではないかなあ、と感じています。もちろん、時代背景や現代的な視点から作品を眺めることで、新たな意味が浮かび上がる、ということは往々にしてありますが、ここで問題にしたいのは、その作品のおもしろさについてです。現代的な視点から眺めることで、新たな魅力が発見されるのは喜ばしいことですが、しかし最初に読んだときのおもしろさは、どこへ行ってしまったのでしょうか。それがきっかけだったのではないですか。ならば、まずはそれを解き明かそうとするのが先決でしょう。

知の情報化、ということを最近は考えています。情報化された知を作品にレッテル張りしているだけの例が多いように思えます。そこでは知はある種の「物」であり、切り貼りしたり、人に贈与したり、場合によっては売ったり買ったりすることもできます。人々は物としての知を蓄え、なるべく新鮮な形でそれを保存することに汲々とし、必要な時にはいつでも取り出せるように備えます。それができる人がうまく知を活用できている人であり、頭のよい人であるとされます。もちろん、その知はいつ価値が暴落してしまうか分からないので不安が伴いますが、逆に突然高値がつくかもしれない、という淡い期待も抱かせます。

果たしてこれが知なのでしょうか。実を言えば、上記のような考えを抱くにいたったのは、これと非常によく似た発言を参照したからであって、まさにぼくは知を「入手」したわけです。うまく言えませんが、この入手した知それ自体は知ではありません。そうではなく、いまこうして自分の頭で考えながら書いている行為が知です。

ぼくは「物としての知」を捨てます。分からないものを分からないままに受け止めて、それについて考え続けましょう。未分化のものを下手に分節するのは必ずしもよい手段ではありません。明快な解答を与えることに、少しは疑問を持っていい。