村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読みました。
いわゆる並行世界もので、現実世界とそこに生きる「私」の思考回路の中の世界とが舞台となっています。おおまかなあらすじを書くこともできますが、めんどいのでそれは省きます。
印象的なイメージが多く出てくる小説でした。眼球にナイフをずぶりと突き立てて、そうすることで「夢読み」になる「僕」のエピソード、一角獣の頭骨には古い夢が詰まっているとか、その頭骨が淡い光を発するところ、いわば「純粋な穴」を掘る老人たち、カリカチュアされた大男と小男の風貌、などなど・・・。
いささかロマンチックに過ぎると言えば確かにその通りかもしれなくて、心の在り処とか、心を持たない少女とか、そういう描写はアニメ的でしょうね。そんなところに不満を持つ人がいるかもしれません。
「世界の終り」の世界において、まるでカラマーゾフのようなテーマが描かれていることにはちょっと驚きました。「世界の終り」は、苦痛も何もない世界で、皆平穏に暮らしています。喜びもないけれど、その世界は完璧で、完結しています。人々は心を持っていませんが、それで苦しむこともない。けれども、この世に完璧に自律した世界というものはありえません。どこかで膿を排出しなければならない。その世界の完璧さの代償となっているのが、そこに住む一角獣です。彼らは人々に生まれてくる心を吸い取って、やがて衰え、死んでゆきます。
「僕」は、弱い者(=一角獣)に何もかも押し付けて完全さを保っている世界になんて住むことはできない、と言うのですが、これはまるで、カラマーゾフのイワンの台詞をパラフレーズしたもののように聞こえます。子供を代償にした世界になんて住むことはできない、お断りだ、と。
「世界の終り」はある種のユートピアに他ならないのですが、なぜそこに留まることができないのか?それは、その世界が完璧だからです。完璧に見えるからです。しかし完璧などというものは、永久機関が存在しえないように、この世には存在しません。ならば、その世界はどこかに偽りを隠している。綻びを隠している。そしてそれを弱い者が繕っている。この欺瞞、犠牲に気がついたからこそ、「僕」は脱出を試みます。
世界を損なっているものがあるからこそ、世界は自然でいられる。それを隠しているのは偽善に過ぎません。でも、隠しているにしろさらけ出しているにしろ、どちらの世界も損なわれていることには変わりありません。そして、その損なわれているところを埋めるべく駆り出されるのが弱い者であるという点も、恐らく変わりありません。要は、それを巧妙に隠蔽しようとするか否かの違い。しかし本質的には、両者にさしたる違いはないのではないでしょうか。
「僕」は結局「世界の終り」に留まることを選択しますが、これは一見すると何の解決にもなっていないように見えて、実はこれしかないというラストだったのかもしれません。
うむ、色々と考えてみたくなる小説ですが、今日はあまり時間もないのでこのへんで・・・
いわゆる並行世界もので、現実世界とそこに生きる「私」の思考回路の中の世界とが舞台となっています。おおまかなあらすじを書くこともできますが、めんどいのでそれは省きます。
印象的なイメージが多く出てくる小説でした。眼球にナイフをずぶりと突き立てて、そうすることで「夢読み」になる「僕」のエピソード、一角獣の頭骨には古い夢が詰まっているとか、その頭骨が淡い光を発するところ、いわば「純粋な穴」を掘る老人たち、カリカチュアされた大男と小男の風貌、などなど・・・。
いささかロマンチックに過ぎると言えば確かにその通りかもしれなくて、心の在り処とか、心を持たない少女とか、そういう描写はアニメ的でしょうね。そんなところに不満を持つ人がいるかもしれません。
「世界の終り」の世界において、まるでカラマーゾフのようなテーマが描かれていることにはちょっと驚きました。「世界の終り」は、苦痛も何もない世界で、皆平穏に暮らしています。喜びもないけれど、その世界は完璧で、完結しています。人々は心を持っていませんが、それで苦しむこともない。けれども、この世に完璧に自律した世界というものはありえません。どこかで膿を排出しなければならない。その世界の完璧さの代償となっているのが、そこに住む一角獣です。彼らは人々に生まれてくる心を吸い取って、やがて衰え、死んでゆきます。
「僕」は、弱い者(=一角獣)に何もかも押し付けて完全さを保っている世界になんて住むことはできない、と言うのですが、これはまるで、カラマーゾフのイワンの台詞をパラフレーズしたもののように聞こえます。子供を代償にした世界になんて住むことはできない、お断りだ、と。
「世界の終り」はある種のユートピアに他ならないのですが、なぜそこに留まることができないのか?それは、その世界が完璧だからです。完璧に見えるからです。しかし完璧などというものは、永久機関が存在しえないように、この世には存在しません。ならば、その世界はどこかに偽りを隠している。綻びを隠している。そしてそれを弱い者が繕っている。この欺瞞、犠牲に気がついたからこそ、「僕」は脱出を試みます。
世界を損なっているものがあるからこそ、世界は自然でいられる。それを隠しているのは偽善に過ぎません。でも、隠しているにしろさらけ出しているにしろ、どちらの世界も損なわれていることには変わりありません。そして、その損なわれているところを埋めるべく駆り出されるのが弱い者であるという点も、恐らく変わりありません。要は、それを巧妙に隠蔽しようとするか否かの違い。しかし本質的には、両者にさしたる違いはないのではないでしょうか。
「僕」は結局「世界の終り」に留まることを選択しますが、これは一見すると何の解決にもなっていないように見えて、実はこれしかないというラストだったのかもしれません。
うむ、色々と考えてみたくなる小説ですが、今日はあまり時間もないのでこのへんで・・・