馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

小学校恩師死去の電話。

2019-07-07 16:53:23 | 日記

 

7月2日(火)午後2時過ぎ

スマホが鳴る。

表示画面に小学校同級の氏名が表示される。

 

久しく連絡はなかった。

 

「おう 俺だ 元気か」!

「オレオレ詐欺じゃないだろう」と返した。

 

去年9月に連絡した時、逢おうなと約束したが

合わずじまい。

 

ぶっきらぼうに 「先生が亡くなったよ」

90才だった。

 

会話は私が作業中なので短く途絶えた。

 

6日(土)小学生の頃に想い馳せた。

アルバム写真を取り出した。

 

東京の下町で育ったが、小学校卒業後直ぐに

横浜の外れに引っ越した。

卒業後、クラス仲間とは連絡が途絶えた。

 

その後、きっかけは憶えていないのだが

保育園 小学校が一緒だった女の子と

大学生になった2年生の時交際が始まった。

目黒駅で、彼女は悲しい目で私を見詰め

「お嫁さんに行くの」

1年足らずで恋は終わった。

 

詳細は、45年振りのハイキングに書いた。

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/75a1faa55ca4e4490abb9e8694ed260a

 

橋の下 歳月は28年が流れた。

 

その間 小学校クラス会は度々開かれていた。

 

彼女は、思い切って 私との付き合いをクラス会幹事に告白。

住所、電話番号も不明。

仲間は、横浜に住んでいると判断して

役所等に問い合わせしたが判らず。

遂に、手分けして電話帳を捲って姓名を調べた。

手がかりが見つかった。

昭和56年6月 岡山県に住む同級生が架けた電話は

実家のおふくろにつながったのだ。

結婚して千葉県内に住んでいると教えた。

 

暫くして大型封筒に、クラス会写真、名簿が同封され

臨時のクラス会を開催する連絡もあった。

 

名簿には、当然 私は住所不明空白であった。

 

元彼女は、畳座敷に右隣に恥ずかしそうにピッタリ座った。

幹事が、仲間に二人の交際があったことを暴露。

彼女は嬉し気に瞳が輝いた。

私は身の置き場がなくだんまりした。

女である先生は中央の席で私をじっと見つめた。

判らないようだ。

皆が止めどなく会話を相互に繰り返していた。

突然 先生が大声を呼んだ。

「あ 思い出した」

「あの可愛い とっても可愛い」

○○ちゃん。

 

28年振りの再会である。

当時の面影はなく、くたびれた中年男である。

 

先生は、ほら ○○君と呼びかけるが

隣に座った元彼女が離さない。

先生が私の事をしゃべっているらしい。

 

私は先生が苦手であった。

電話くれた同級生と同じく

勉強が苦手で、居残りで漢字書き取りを

ノートマス目に数ページ埋まるまで

教室内で強制された、

先生は教壇の机で何事かしていた。

書き終わり先生に許しを貰い

学校横の多摩川べりの原っぱで遊んだ。

同級生は悪ガキでお屋敷の柿を塀を乗り越え盗んだ。

見ていた私は女中さんに羽交い絞めされ

学校に連れていかれた。

先生に叱責されたが

母親には報告しなかった。

休み時間に川べりで釣りを見ていて

そのまま教室に戻らず大騒ぎ。

戻った私を先生は抱きしめ泣いた。

その時 妙な香りを感じた。

悪ガキ同級生と互いに運動は得意であったが

勉強嫌い。

先生に頬を叩かれた。

特に私は職員室に呼ばれて、憶えていないが

説教された。

だが、帰り際、そっとお菓子を袋に入れて

「内緒よ」と渡した。

箱根に宿泊遠足があった。

私は足に怪我していた

宿泊旅館で、保健の女先生と担任が治療した。

その時、先生は言った。

「痛いようだから、この部屋でお休みしなさい」

私は 怖くて「痛くない大丈夫です」

先生は寂しげな表情であった。

 

後に クラス会で、結婚していたが

子供がいなかったのを知った。

 

細身だが綺麗な先生。

子供心は 怖い印象しかない。

 

私は子を持つ親になり

 

先生の想いが少しわかるようになった。

私を生徒というより、愛しい自分の子供として見ていたのだ。

先生は 「男の子3人兄弟なのね 貰ってもいいかな」

笑いながら言ったのを憶えている。

怖かった。

 

一枚の写真がある。

小学校入学記念写真。

写真館で撮影された。

作り物ような無表情。

戦後直後、皆貧しかった。

私達家族も男兄弟3人

狭いアパート暮らしであった。

私に入学祝いの洋服、革靴、帽子を整え

写真館で撮影した。

兄弟には記念写真はない

乏しいお金を捻出して精一杯の祝いをしたのだ。

どこの家庭もカメラなどなかった。

私の生まれて初めての写真であった。

小学校時代 遠足での集合写真はあるが

一人の写真はない。

この写真が駅前の豪華な写真館正面のガラスケースに飾られた。

他に広告にも使われたと聞いた。

数年 飾られていた。

 

後年 息子と私は似ていると言われるが

父親のほうがイケメンであるらしい。

デザイナー女性が、若かりし頃の写真を眺めて

これほど 変わってしまうのかと溜息。

 

波乱万丈の人生は

心身にダメージを著しく与え歪めるのだ。

 

中学の恩師も物故。

 

 

夜回りだと言って、藤沢の飲み屋の連れていった高校時代恩師も逝った。

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/d50c94e30ab2c2ededbb21abfd91d8e9

 

小学生の頃 立川談志さんの想い出。

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/406f29809dcd395ffc53f1b219a03a7d

 

昭和は加速度が増して遠ざかる。

合掌!