馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

伊藤詩織さん、衆院議員の杉田水脈氏、Daisy大澤昇平社長を提訴。「いいね」押した責任問う

2020-08-21 04:28:59 | 日記

伊藤詩織さん、衆院議員の杉田水脈氏、Daisy大澤昇平社長を提訴。「いいね」押した責任問う

 

ジャーナリストの伊藤詩織さんは8月20日、衆議院議員の杉田水脈氏と元東京大学特任准教授でAIベンチャーDaisy社長の大澤昇平氏を相手取り、Twitter上で名誉を毀損されたとして、それぞれ約220万円(杉田氏)、約110万円(大澤氏)の損害賠償を求め東京地方裁判所に提訴した。大澤氏に対しては、投稿の削除も請求する。

当然ですね。

女性への尊厳が欠如したコメント。

下記ブログに、伊藤詩織さんを貶めるコメントがありましたが

金でも貰ってるかのと勘ぐってしまう。

愚かな唾棄すべきなので無視保留にしていましたが

公開です。

NORAとか名乗る愚か者。

自分でブログ編集して、伊藤詩織さんを

誹謗中傷したらいかがですか?

そんな気概も無い。

クリック↓

悪徳悪質芝信用金庫誹謗中傷コメントへの回答(75)伊藤詩織さんの黒髪。

 

愚かコメント

nora

2020年7月20日

>事実関係は私が論評することもなく
>メディア報道で判断できる。

メディアは、詩織さんがブラジャーに隠したレコーダーで警察とのやり取りを秘密録音していたことを一切報じていませんよね。
それに、詩織さんが事件当時に受診した産婦人科医のカルテについても隠し続けていますよね。
今、ネット上では、彼女が捏造した壮大な嘘が暴かれつつあります。が、メディアの情報にしか接していない人は、それが分からない。詩織さんの話を額面どおりに受け止めています。滑稽ですよね。

 


山岳遭難と救助隊との関係。高松山は初恋の山。

2020-08-20 06:24:51 | 日記

山岳遭難と救助隊との関係。シリーズを更新してまいりました。

暗く陰惨な記録です。

 

3歳から40代後半まで途切れ途切れに出会い別離を

繰り返した女性との海と山の物語です。

何度も公開しています。

コロナ禍で登山はできず回想の日々。

若葉のころ  /  ビージーズ  歌詞

戦後直後に生まれた団塊世代は皆貧しい生活でした。

私も狭いアパートで一家5人暮らし。

親族が上京すると、寝場所がなく

近所の家に寝かされた。

一つの布団に女の子と背中合わせで眠った。

お寺が開園した最初の保育園で入園式では

その女の子の隣に座っている。

小学校6年間一緒。

中学から横浜の辺境地に引っ越してお別れ。

少年期終わりにクラス会が開かれた。

彼女は、可愛らしい小柄な女学生に成長。

二十歳前、寸前、少年少女から脱皮し始めた。

互いに得体の知れない青春という病に入り込んだ。

ストレートな感情と気恥ずかしさが絶えず交錯。

幼い頃に興じた遊び、虐めの想い出は胸に秘めた

 

 

 

高松山は初恋の山。

2020年5月17日

コロナと検察庁法改正で日本列島 大混乱。

 

前ページで私への、労組書記長追放を書きました。

https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/e0ae9c329aa523404528da367c3d28d8

 

しかし、追放前、新任管理部長が本社からきた。

私の退社を思いとどまるよう説得慰留した。

新任管理部長が本社では組合書記長を経験。

嫌がらせ人事も経験していた。

しかし謝絶した。

私の矜持が許せなかったのだ。

エピローグは、どうなったか?

経営側が画策して書記長にさせようとした組合員は

書記長に任命されなかったというよりさせなかった。

後にその男は私に、ごくりと生唾飲み込んで

言葉を吐き出した。

「俺、書記長にならなくて良かった」

「みんなに馬鹿にされ相手にされなくなる」。

彼は、独身で50歳で亡くなった。

一人っ子で両親は既に物故。

 

私が退社して3年後、組合はストライキを決行した。

組合側は破れた。

 

私が書記長の時はストライキなどせず

白刃を構えて鍔迫り合いの末、傷も負わず勝利合意した。

しかし、労使交渉には勝ち負けはない。

全て合意であるのだから。

経営側担当者は、負け惜しみで

私を左翼だ、共産主義だと

思想的問題あり、破壊者だとかの

会社組織を破壊するとの抽象的思惟であった。

清廉潔白な地味な男を追い出したのだ。

 

およそ、具体的根拠無きデマを流した。

実の私は、どちらかというと右よりだ。

だが、ビジネスには、コンプライアンスを前提とした。

何故、交渉で勝利したかと言えば、

ブログ名通り、馬鹿も一心だから。

トルストイの童話?

「イワンの馬鹿」の如く

相手が悪意を持った邪な交渉を理解できなかったからだ。

「一生懸命働きますから、儲かったら金をもっとください」

「寒いから事務所に暖房を入れてください」

「二人勤務箇所では、病気欠勤も出来ません、

なんとかしてください」

 

経営側は、この交渉を思想的問題破壊行為だと触れ回る。

経営側の方が中国共産主義思想ですね。

芝信用金庫も職員が何も物申せず

会長の独裁で深い闇だそうです

 

新任管理部長は本社に戻り

後に代表取締役専務になった。

その後私の行く末を案じて手紙を頂いた。

愚かな画策をした担当者は、新任管理部長から信頼を失った。

後に私を銀座のレストランに招いて言い訳した。

「後にも先にも○○さんのような書記長は出ない。

白々しい謝罪。

虚しかった。

己達の保身を図るために、真面目な社員を貶めたのだ。

相手がどのように苦しんでいたか想像力が欠如。

 

 

 

一度しかない人生。

真面目に働いても

狡く働いても

旨くいくとは限らない。

生死有命!

富貴在天!

(財産や地位は天命によって決まっており、人の思い通りにはならないということ)。

 

一切是命運決定!

死ぬか生きるかは天命による。富貴になるかどうかも天命による。(しょせん人間の力ではどうにもならない

 


4回にわたって高松山での怪我した女性を綴りました。。

次は、恥ずかしくも幼馴染の女の子と出会い別れ再会物語。

間もなく、平成も終わり昭和は遠くなった。

再掲 昭和の想い出を一つ。

ロシアの諺

  • 目から遠くなると、心に近くなる。
別れてしまった相手はいっそう慕わしく感じる。

2012年5月6日のブログ。

5月5日こどもの日 7時20分自宅を出る。

小田急線急行小田原行き新宿発8時41分に乗車。

新松田駅下車 タクシーに乗車 高松山入り口で下りる。

  

10時40分、舗装された緩やかな蛇行山道をゆっくり歩き出す。

上下ジャージ、靴はジョギングシューズ、

簡易リュックには駅前で購入したポカリスエット1.8リットル

着替えの下着 シャツ、ズボン、ナイロンタオル、浴用タオル

バスタオルも詰め込んでぱんぱんだが軽い。

前日までの風雨は去って、春の陽射しを浴び、濃い緑、薄い緑の山並みの

稜線が富士へと連なる。

谷沿いの水音、鳥のさえずり、樹間からやってくる颯風。

静かな林道を一人歩む時、心身に浮世の煩悩が失せ、新鮮な酸素が注入される。

汗ばむ毎に体内の毒素が放出され森林のフェロモンが体内に吸収。

心身が高揚し始める。

集落を過ぎて11時12分滝が現れる。山ゆりの滝

 

何段にも流れる立派な滝だ。一口飲んだ。沢水の味だ。

花畑も点在。

11時45分 蛇行する道の間から雪富士が見え出す。

   

蛇行して見えない所で話し声がする。

若者二人が道端に座り携帯電話をかけている。

11時48分 分岐標識まで来た。

高松山まで1時間20分だ。

舗装された山道はなくなり、樹林と大木の根がむき出しの道になった。

前夜の雨で道はぬかるむ。

山道の落葉ががさがさ動く、茶色の蛇が潜り込もうとしていた。

先ほどの若者が会話しながら追いついてくる。

あっと言う間に追い抜かれた。

   

やはり体力差はい如何ともしがたい。

かなりの汗とぜいぜいしながらゆっくり登っていると

前方から犬が二匹下りてきた。

4本足で身軽な足取り?

2匹は止まり動かない、後ろからオジサンがやってきた。

犬は待っていたのだ。

オジサンは私を見て、持っている杖を差し出し

「使いなよ、結構楽だよ」。

切り落とした枝だがしっかりしている。

   

若い頃は 冬にピッケルとスキーのストックは使ったが

元気もありプライドもあったので、杖突き爺さんのようで嫌だった。

頂いた杖を登り斜面前方に刺しながら歩く

意外や楽でバランスも崩さない。

12時16分 高松山まで40分の標識まで辿りつく。

若者二人が休んでいた。

私は一度も休まず追い越した。

亀と兎の競争!このままいけば私が先に頂上に着くと思った。

休まずにゆっくりと登るのが疲労せず体力消耗しないのだ。

12時26分 高松山の標識があり、男坂 女坂のルートがあった。

当然 急登の男坂を登ることにした。

これを一気に登れば高松山頂上だ。

その時、背後に人声がする。

近づく足音、またまた、若者二人に抜かれてしまった。

会話しながら足取り軽く私の視界から遠ざかってゆく。

13時2分 801mの高松山頂上に着いた。

  

頂は草地になっていて前方に富士がくっきりと見えた。

幼い頃 風呂屋に描かれていた雄大な絵のようだ。

   相模湾が左り下に見える。

頂いた杖

素晴らしい富士 冬季だったら美しい冬富士が眺められる

春霞の今、めったに見られない皐月富士だ。

以前 冬富士登頂を書いた。

頂の草地に座りポカリスエットを少し飲む。相模湾も臨める。

草地に寝転び富士と漂う白雲見詰めた。

20歳の春、保育園の卒園写真に隣同士で写っている女性と

下段左5番目

高松山にハイキングに来たのだった。

あの頃は林道沿いにみかんの花が咲き、藁葺きの集落があって牛の鳴き声していた

のどかな山村だった。

二人で寝転び富士を眺め青春したのだった。

彼女は高校卒業して銀行に勤めていた。

私は大学に遅い入学を果たしたばかりであった。

私は青臭い自分勝手で、大人ではなかった。

彼女は既に社会人 大人だった。

その後まもなく、「お嫁さんに行くの」と目黒駅で告げられた。

橋の下、幾多の流れに浮き沈みを繰り返しながら、歳月は流れた。

40代半ば「あの人は今何処に」?風に父親の転勤に伴い

行方知れずになっていた私をクラスメートが探し出したのだった。

そして臨時のクラス会が開かれ、私の隣に彼女は恥ずかしそうに座った。

彼女はそっと呟いた「あの頃、あなたは学生、無理だと分かっていた」。

実は幹事に度々クラス会が開かれ、あなたが来ないのが寂しかった。

幹事に昔の事話したら「何とか見つけてやる」

旦那は大手新聞社に勤め、子供は男の子が一人

幸せに小田急沿線に住んでいる。

二人は20才の時、伊豆西海岸の砂浜にいた。

40才で再会

落ち着いた女性になっていた。

クラス会幹事も亡くなり

再会することもない。

ひとしきり、沸き消え去ってゆく雲のごとく思い出は富士の頂を越え

紺青の空に飲み込まれていった。

13時49分 下山を違うルートで歩いた。

北斜面で陽射しは無く、道は荒れて滑りやすい、杖は役に立つ。

ビリ堂という標識があった。半分は下ったと思った。

途中二股があり、鉄柵で閉じられ、悪路注意と書かれている。

方向ではこの道なのだが、別のルートを下山。

しかし、間違えたのだ。

入山口には遠ざかるようだ。

大きな道なのでトラブルはないと判断。

15時 県道に出た。道路標識に山北駅方向が示されていたので

黙々と人影なき舗道を歩き、15時34分 御殿場線山北駅到着

 

駅裏にある「山北町健康福祉センターさくらの湯」に直行

 

町の人も登山客も利用できる公営施設。

400円で露天風呂、サウナ、もあり休憩場所もある。

アルコール類は置いていないが気軽で安く

隣が駅、ツーリングの若者達が多数利用する。

露天風呂に浸かり全身を洗いまくる、体重計に乗ると朝の体重より4キロも減少

大半が水分だが嬉しい。

ジャージからスポーツシャツと黒ズボンに着替える。

御殿場線山北駅から新松田まで二駅間乗車しようとするが

駅の券売機は閉じられ人もいない、戸惑うがホームに2連結の

車両が止まっている。ホームで車掌が切符を販売しているが

御殿場行き反対方向だ。車掌が叫ぶ、「国府津行き列車がまもなく来ます」

「下車駅で山北から乗車と言ってください」

御殿場線はJR東海なのでスイカは使用できないのだ。

ここは無人駅なのだ。列車が入ってきたが、扉が開かない

自ら扉横のプッシュボタンを押さないと開かないのだ。

それも開かない扉と開く扉が駅によって違う。

車内は人と荷物でギュウギュウ、ツーリング用の自転車が布袋に包まれて

若者が多数乗っている。彼らは「すいません。すいません」と謝っている。

17時6分二駅目の松田で下車、対面が小田急線の新松田駅だ。

 

さて喉の渇きはそろそろ限界だった。

新松田駅の隅っこに「焼き鳥」の看板

「生ビールと焼き鳥を頼む」

  田舎ファッションの少女

先客は一人だけ、5人が座れるカウンター席と テーブル席が二つ。

元は田舎のスナックで働いていた風の中年オバサンと爺さんでやっているようだ。

生ビールがカウンターに置かれた。ジョッキから黄金色のホップが輝き

空気の粒があがり上に白い泡立ちができた。

喉を通る爽快感、このために飲まず食わずに我慢したのだ。

ホッピーも追加した。後からハイカー達が入って満席になった。

土日祝は午後3時半開店、登山客を取り込むためのようだ。

18時、小田急で新宿に出て帰宅を考えたが、御殿場線に乗り

国府津に出ることにした。スイカが使えないので国府津までに切符を買う。

  

久しぶりの国府津なので駅外に出たかったが、東海道線東京行きが直ぐにやってきた。

通称湘南電車で高校が藤沢にあったので沿線に友人もいたので懐かしい。

二宮には貧しかった高校同期がいた、二人で野毛の図書館で語り合った。

苦学の末、政治家になり保守系の県議団幹事長をしている。

その後、県会議長になった。

うつらうつらしていると大船駅に到着、真向かいの総武横須賀線、上総一ノ宮行きが止まっている。慌てて乗り換える。その時弊社のデザイナー女性からメールが入った。

19時52分 今大船駅にいるとメールした。

後で彼女からメールが来て、丁度その時刻に鎌倉に行き、

車で大船駅を通りすぎたと、偶然に驚いたメールがきた。

21時半 船橋駅着、海老川沿いを25分歩き

居酒屋 あんこうでビールを飲む。

その時 ハッと気付いたことがあった。

前立腺肥大になってから長時間の電車では排尿が我慢できないので

トイレのある車両しか乗らないのだが、役3時間半尿意は感じなかった。

水分取っていないから当たり前か!

 

自宅に10時半着くと 又ビールを飲んだ。

急に腹が減りだした。いろんなつまみを食べた後、してはいけない

夜のラーメンを食べた。

就寝後、夜中に喉の渇きで2回起き、牛乳と水をがぶ飲みした。

翌朝、起床後 体重計は元の体重を示していた。

4キロ減ったが翌日には4キロ戻ったのだ。

お金は懸命に働いても減るだけで増えないが

食欲と金欲は反比例する。

ニュー・シネマ・パラダイス Nuovo Cinema Paradiso(Ennio Morricone)


再掲悪徳悪質芝信用金庫横領事件(50)

2017年12月31日

12月30日(土)

午前9時半 ジャージに薄いジャンバーを着て

2017年最後のウオーキングへ。

遊歩道途中の新鮮市場にて、食材を買って

リュックに詰めて、高瀬海岸へ向かう。

高瀬海岸1

東京湾の海水を吸い込んだ風が首筋に入り込む。

海岸の先に、雪富士が大きく見えるのだが

スマホでは、鮮明に撮れない。

 

高瀬海岸2

 

遠い昔のこと。

あんな恐ろしい冬富士など二度と登りたくない。

 

歩きながら、今年一年間を振り返る。

 

3月に、柳橋事務所を閉鎖して桜上水事務所に移転。

4月に、前立腺癌小線源治療をする。

 

二つとも、結構しんどく、まだ解決せず

来年に持ち越す。

 

馬鹿も一心 ブログでは、必ず毎日検索されるのが

九段スズキ本店 長野夫婦

 

 

グリッター外山寛

 

 

上記 二人 被害者がかなりいるようだ。

 

10月 初秋の高瀬海岸の風受け追憶に馳せた。

 

 

11時 ショッピングセンター内に入った。

冷たい海風から一転して暖かい館内

ジャージにリュックが何ともそぐわない場所だ。

年末なので、午前中だが人出は多い。

 

年末ショッピングセンター

2017年 やっと切り抜けた。

来年は、悪徳悪質不良信用金庫 芝信用金庫の詐欺事件との闘いが待っている。

今日も歩いた。

 

 

 

 

 

 

 


山岳遭難と救助隊との関係。冬富士遭難。

2020-08-19 05:59:29 | 日記

 

連続 激暑 暴暑、狂暑です。

17日も各地で午前中から気温が上昇し、35度以上の猛暑日を記録する地点が相次いだ。気象庁によると、浜松市で午後0時10分に41・1度を記録し、2018年7月に埼玉県熊谷市で観測された国内最高気温に並んだ。

夕方、高瀬海岸までウオーキング。

夕刻の海風は立秋を告げます。

高瀬海岸1

激暑の時期に

凍える季節のブログをお届けします。

厳冬の雪山経験者には、重い遭難死です。

 

冬富士で現実の滑落を目撃しました。

遭難の顛末詳細処理は知りません。

だが、想像すると事前準備、危険対応が未熟であったのか?

そんな疑問が残ります。

 

ブログを読まれる前に。

 

片山右京さんと富士遭難

 

 

遭難参考記事

クリック↓

https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/6432860a16a6f27d0c73fd7218c0ad58

 

https://youtu.be/ZkdCWZCzn3A

 

 

二つの遭難は、間違った過信から?

 

スキー技術は超一流

 

ドライバーテクニックは世界最高

 

だが、冬富士の現実を知らない。

 

対応の未熟。

 

入念な準備不足。

山行計画書未提出。

 

計画書には

メンバー、氏名年齢、性別、血液型、住所、緊急連絡先記入

更に山岳保険加入。

 

天候、風雪状況確認。

 

上記最低限の冬山登山に欠陥があった。

 

遭難事後処理は不明です。

最終的解決は遺家族が負わざるを得ません。

 


再掲

冬富士遭難

2009年12月23日

 F1ドライバーの片山右京さんら3人パーティが富士山で遭難
二人が滑落凍死という悲惨な報道された。
この方が登山をなさっていたとは思いもせず
南極に挑むための訓練していたと報道されていて驚いています。
軽々しく論評出来ないが冬富士登山は日本では最も危険な登山なのは
確かだ。
私は高校 大学と山岳部に所属 春夏秋冬登山に明け暮れ
大学山岳部では年間160日間、山合宿していた。
数々の困難危険生死の分かれ目を経験実感したが
取り分け、冬の富士山登頂は嫌で行きたくなかった。
今から40年以上前1970年(昭和45年)11月25日
三島由紀夫が陸上自衛隊市谷駐屯地で立てこもり
割腹自殺した。
その時私は大学4年生、富士山で雪上訓練をしていた。
中日テレビが冬富士の青春というドキュメンタリーを
撮影していて私達の山岳部も出演していた。
首筋が痛くなるほど仰ぎ見なければならない氷一直線の頂
青白く太陽を受け照り返すアイスバーン
さえぎる視界無しの強風突風
八本刃のアイゼンは堅氷に食い込まない。
数ミリの刃がかろうじて足を支えピッケルでバランスをとって
頂上に向かうが酸素が薄く荒い呼吸と重さ25キロのザックが
肩に食い込む。一瞬たりとも気は緩めない。
滑落すれば数百メートルを滑落、氷とヤッケの摩擦で焦げるほどの
スピードで溶岩に激突死してしまう。
その日、信じられないグループが冬富士に集団で登ってきた。
スキー板担ぎ靴は布製のキャラバンシューズ、防風衣を着ていたが
防寒着ではなかった。
私達を追い抜いてどんどん登っていった。
スキー滑降をするのだろうが、その行動を横目見てなぜか私は違和感があった。
「こいつら大丈夫なの、富士なめてないか」とそんなことがよぎった。
それから時間は覚えていないが、上から人間が滑落してきたのだ。
それも二人、偶然中日テレビが滑落の瞬間を撮影していた。
当然2名とも死亡。
片山さん達の当時の状況は分からないが
テント設営には強風さえぎるもの無し稜線は雪を深く掘りテントが埋まるぐらいにする。
そして雪上滑落訓練は下に横2列の人員で落下を止める。
それでも滑落をとめられない場合を防ぐため大学バレーボール部の
古いネットを譲り受け魚網のごとく杭で雪中打ち込み滑落を食い止める。
古くから言われているように富士は登るのではなく仰ぎ見るのが
一番美しい。
古い話だが、女優だかタレントだかあいまいだが突然南極に
行きたいとマスコミに発表。
話題になった。「おいおい、そんな思いつきで行ってしまうほど甘くないぜ」思ったが。
その後、南極に行ったことで人気が復活、講演活動や
南極グッズを売っていた。
タレントが冒険家として登場 ヨットで大海原走破
大陸を走り回りそれがニュースとなり商売に結びつける。
私目の率直な感想、46歳過ぎて冬富士に登らない、登れない。
F1ドライバーも主役ではあるがそれを支える多くのスタッフがいてこそ
華々しい活躍が出来る。
登山での団体行動には主役はいない。
経験豊富冷静な判断が出来るリーダーでなければならない。
学生時代、他大学の山岳部が冬の剣で遭難した。
その時のリーダーは友人だったが猛吹雪の中で下級生に自分の衣服を与え
凍死した時はシャツ一枚だった。


私の後輩も冬の北アルプス登山で凍死したが
その時は風も無い青空の天候であった。
樹林帯を登高中は雪面が太陽の照り返しで暖かくシャツ一枚で
登れるのだが、まもなくやって来る低気圧の接近への兆候でもある。
低気圧の接近前、風が止み生暖かくなる。
森林限界線を抜けた辺りで低気圧の猛吹雪に巻き込まれ
視界ゼロの中、山小屋に20メートル付近でシャツ一枚直立不動
「熱い!熱い!」叫び狂死凍死した。


冬富士は安易な事故、遭難を未然に防ぐ訓練場だからこそ
用意周到に装備、天気図作成して気象情報を常にチェック
隊員の健康状態を細心の注意をもって観察する。
片山パーティは5合目まで車で来たが
本来訓練であるななら富士吉田口より歩き出し樹海を抜け
体を対応できるように慣らす5合目で一泊
翌日から最適な場所にテント設営 滑落停止訓練
その後天候判断して頂上アタックとなる。
彼らがどのような計画書があったのか分からない。
予断はやめよう。
三島由紀夫割腹自殺と富士登山をなぜ鮮明に覚えているかというと
無事下山して御殿場のバス停に捨てられていた新聞に
三島事件が大きく報道され、楯の会隊員に私の友人がいたからだ。
あれから40年以上、下界での橋の下 濁流、泥流、急流に抗いながら
やっと河口まで来たが大不況という大風に私は立ちすくんでいる。


山岳遭難と救助隊との関係Ⅳ 高松山のんびりハイキング 怪我した女性に遭遇(Ⅰ

2020-08-15 06:04:40 | 日記

 

山岳遭難と救助隊との関係 昭和42年クリスマスイブ 立山から槍ヶ岳縦走に出発。

からの続きです。

 

山登り、ハイキングは幼児から中高年まで

楽しめる素晴らしい心身健康法です。

 

森林、渓流、鳥の囀り、オゾンを吸って

弁当を食べ、想い出の写真を撮り

下山して湯に浸かる。

 

しかし、思わぬ危険に遭遇することがあります。

前頁に書き続けています、ヨーロッパ型登山は

基本的訓練と安全確保の保険、山岳会に入会等が必要ですが

一般的ハイキングでは、遭難しても高額費用は掛かりません。

 

次のブログは、ご夫婦の登山です。

参考までに。

再掲

高松山のんびりハイキング 怪我した女性に遭遇(Ⅰ)

2014年5月5日

5月4日(日)みどりの日。

午前7時15分 自宅を出る。

10時 小田急新松田駅到着。

 

早速、駅前でコロッケうどんを立ち食い。

コンビニでポカリスエット購入。

駅前からタクシー乗車するが246号線が渋滞のため

裏道を通り高松山入り口に10時半着。

なだらかな舗装林道を歩む。

山ゆりが沢沿いに点在する道になり

10時56分、山ゆりの滝が見えた辺りで

 

背中が汗ばみだした。

暑くも寒くもなく、沢水を含んだ

一陣の微風は心地良い。

11時32分 高松山頂上までの距離。

1時間20分の標識まで来た。

傾斜がきつくなった。

11時59分 舗装林道は終わり

急峻な山道になった。

12時38分 男坂の標識。

頂上まで後わずか!

鎖がある道をあえぎあえぎ登ると

12時45分 高松山頂上に着いた。

富士山が濃い緑、薄い緑の山並みを従えて

春霞のホワイトブルーデコレーションだ。

頂上の草原には集団の登山客が、思い思いの草地に寝転び

富士を眺めている。

どうやら、トレランの方々のようだ。

2012年5月6日の高松山登山は快晴で富士の優美は際立っていた。

 

 

13時 トレラングループは私が登った道を駆け下って行った。

 

私は17歳から山登りを始めたが

若い頃は、確かに走って登ったこともあったが

競技スポーツの認識もなかった。

危ないなあ~と感じている。

私も山北方面に下ることとした。

後でトレラングループの人と関係する

アクシデントに遭遇するとは思いもせず

枯れ枝を杖代わりにして、滑らないように

ゆっくり急斜面をくだった。

石と木の根がむき出しの悪道が終わり

歩道林道をのんびり下った。

S字カーブを下るごとに

光射す里の風景は変わり、大きく見えだした。

 

S字を曲がった斜面の先に、枯れ枝を二本両手に持ち

足を引き摺りながら、ヨタヨタ登ってくる

サングラスの若い女性が現れる。

少し怯えているような姿だ。

 

私は瞬間、女性がサングラスで表情分からないが

只ならぬ異変を感じた。

 

女性は立ち止まった。

私は歩いて近づいた。

女性は待っていた。

女性の前に立った。

 

女性が話すのを待った。

サングラスを外した。

Ⅱに続く。

芹洋子 山の子の歌

 

 

 


山岳遭難と救助隊との関係Ⅲ 昭和42年クリスマスイブ 立山から槍ヶ岳縦走に出発。

2020-08-14 05:59:52 | 日記

 

表題ブログに入る前に

 

北アルプスで滑落死から2年後。閑話休題。

 

のエピローグを語らないといけません。

不正追及で軽食喫茶で皿洗い始末記です。

 

 

サラリーマン時代の屈辱に耐えて

 

さて、山岳遭難と救助隊との関係

愛知大学山岳部北アルプス遭難死です。

愛知大学山岳部薬師岳遭難事故

 

私が大学山岳部入部する4年前に起きた山岳部員13名

凍死遭難です。

大学山岳部遭難史上、最大の悲劇です。

 

公的救助隊との関係では、実働部隊探索には関与しません。

誤解してはいけません。

あくまでも、主体は大学山岳部とその関係者です。

捜索、遺体収容は関係者が実働です。

個人山行による遭難であれば

公的機関は手伝い援助はあります。

愛大生遺体薬師沢で発見 痛恨の分岐点 -愛知大の山岳部13名の捜索隊同行記-[昭和38年3月] 中日ニュース No.480_2

 

いつかある日


 

13名遭難死から4年後

その数倍にも及ぶ困難と恐怖の

立山から槍ヶ岳縦走を敢行します。

 

山岳雑誌には何度も掲載される記録です。

 

 

再掲

昭和42年クリスマスイブ 立山から槍ヶ岳縦走に出発

12月24日(木)クリスマスイブ

この年齢になると、クリスマスイブとは縁がとんとありません。

20代の頃も女の子とクリスマスイブを過ごすこともなく

キリスト教系の学校だったが、敬虔なクリスチャンでもなく

キャンパスラウンジでクリスマスダンスパーティーも開かれたが

誘うべき彼女もいなかった。

 

書棚から

昭和45年1月発行の山岳月刊誌

岳人を引っ張りだした。

 

 

黄ばんだ表紙に 特集「積雪期縦走」の見出し。

 

大学体育会山岳部の記録が掲載された。

あの日の暗い思い出を見つめた

クリスマスイブの想い出に浸る。

 

今から48年前1967年 昭和42年12月24日

上野駅 20時35分発急行黒部に乗車した。

恐怖の厳冬積雪期 縦走の始まりだった。

サポート無しで立山から槍ヶ岳までの縦走。

4年生4名3年生2名2年生3名1年生2名。

11名の隊列。

過去にこのコースでの長距離縦走の記録は無かった。

私は1年部員

1年部員は8人に入部したが

この山行に恐れをなして退部する者、拒否する者がいて

1年生は二人だけとなった。

下山後、1年部員が二人だけだったのは

足手まといにならず遭難への危険が回避されたと思った。

富山駅から富山地鉄に乗り千寿ケ原からケーブルをアイゼンで登り

美女平に着いた。

ここから、白一色の世界を彷徨うことになった。

弥陀ヶ原の雪原を40キロのリュックを背負い

ラッセルして豪雪 猛吹雪、視界ゼロでの正しく雪中行軍で

6日間かけて室堂に到着。

12月31日 立山アタック。

見上げる急峻な氷の峰

アイゼンが食い込まない堅氷

氷を油で塗装したような40度の斜面を

ピッケルとアイゼンで3点確保しながら登攀。

立山下山中 私の眼の前で、2年生が烈風でよろけてスリップ

下で止めようとした二人も巻き込み滑落した。

私は恐怖の叫び声と泣き声を発した。

幸い岩に3人共激突して制止。

捻挫の状態のまま縦走を続行。

大晦日から 吹雪で動けず

寒さと恐怖で眠れずツエルトで紅白歌合戦を聞く。

 

 

一乗越し、五色小屋、スゴ乗越を走破して

翌年、1月6日薬師岳山頂に立つ。

当時4年前に薬師岳で愛知大学山岳部が

遭難して全部員13名が死亡した。

日本山岳登山史上最悪の遭難死だった。

 

幕営した時の温度はマイナス18度

 

烈風での体感温度はマイナス36度になる。

1月12日双六岳の小屋に入る。

その日から猛吹雪が続き、一歩小屋を出ると吹き飛ばされる状況。

 

6日間停滞する。

18日が最終帰京日だったが、トランシーバーでの応答も出来ず

伝令も出せなかった。

1月19日 午前2時 星空だ。

風も止んでいた。

 

主将が「良し 行ぞう」

極度の緊張はマイナス18度の体感も感じなくなっていた。

紺青の空に槍ヶ岳の穂先は雪も寄せ付けず

凛として仁王立ちしていた。

 

青氷壁にアイゼンを食い込ませながら登攀するが

疲労でピッチはあがらない。

 

槍の肩に11時40分着く。

槍沢はデブリの海だ。

 

 

雪崩発生を防ぐため、2年生を先頭に、4メートル間隔で

声を出さず、静かに駆け下る。

 

疲労と栄養失調と凍傷で

顔面はただれ、目は飛び出していた。

先頭でのラッセル交代も5m程で交代。

17時半 横尾避難小屋着。

ここから2名の伝令を上高地に出すが

疲労のため途中でビバーク。

 

1月20日 吹雪のない雪道を

気力だけでラッセル。

誰もが無言。

釜トンネル手前で登山者が数名登って来る。

 

目の前に現れたのは、OBの捜索隊。

OBから「おい、お母さんが心配しているぞ」

私は、堪えきれずに声を出して泣いた。

 

1月21日 中の湯に宿泊。

頭上に焼岳の煙を眺めながら露天風呂に浸かった。

22日 帰京。

学長先生 顧問教授 OB関係者

新聞記者 TV局報道部が新宿駅で出迎えた。

 

大学と個人宅に報道関係の電話が入ったのを

後で聞いたのだ。

帰京日が私の誕生日だった。

30日間の行程は未だ破られていない。

 

現在のような冬山登山装備もなく

羽毛寝袋、羽毛服ではない

綿入れのジャンバー

テトロンの防風衣

 

間もなく 半世紀

セピア色になった写真を今宵

当時のクリスマスイブに想いを馳せる。

三途の川を渡った先輩達もいる。

1年部員で現在も在籍は私だけ。

転落死、病死、退学、退部で

一人になってしまった。

 

コメント一覧

錫杖
http://blog.goo.ne.jp/toraai
急行 黒部があったんですね。
それにしても凄まじい冬山合宿ですね
鉄の集団と呼ばれた山岳同志会以上の行動を行っているのではありませんか
 室堂迄6日間のラッセル 40kgもの荷物を背負って想像を絶します。
 冬期小屋が当時はありがたかったことでしょうね 厳冬期の西鎌尾根を槍ケ岳に向って一歩一歩標高を稼ぎとっていく様子。
よくぞご無事で上高地に帰還されたことか
 夏路を知ってるわたしにはあのロングトレイル ただただ感動するしかありません。 横尾街道も長かったことでしょうね
芳野満彦さんが徳沢に越冬していたくらいの話ですね
 感銘しました。