こんばんは。
朝晩は随分と涼しくなり、しのぎ易くなりましたが日中はやはり暑い一日でした。
気温の上がり方が半端ないですよね;。
そんな朝はこんなお日様でした。
昨日まで「48色の夢のクレヨン」という物語を要約しながらお伝えさせて頂きました。
あの時代のことは、自分がまだ生まれる前の話でもあり、実際に自分の目で見たわけではありません。
自分が生まれたのは昭和34年で、その頃は戦争というものの影は既になりを潜めており、もはや戦後ではないといわれていた時代だったようです。
それでも、自分が物心ついた頃、あるいは幼い当時、近所の友達と共に近くの公園へ遊びに行くと、なにやらぽっかりと穴のあいた場所があった
のを覚えています。
子供の自分達なら、潜り込めばそこへ入れそうと思いながら、家に帰り大人に話すと、あそこは防空壕だったところだから入って遊んではいけない
よ、と諭された覚えがあります。
ボウクウゴウのそれが何であるのか全く分からず、それでも何とはなしに、その穴の向こうから光る目が見えたり、或いはオバケがそこへ居そうな
気がして、怖さと気持ち悪さを感じたのも事実です。
その後、その防空壕はどうなったのか、埋められたのかどうか、自分の知らぬ間に行政等で処置されたのかもしれません。
一緒に住んでいた祖母が広島の原爆投下のあの日のことを話してくれたことがありました。
「ものすごい音がして、どうしたんか思うて外へ出たら、大きな大きな黒い雲みたいなんが見えたんよ。どうなったんじゃろう思うとったら、その
うちにバラバラーッと黒い雨がふってきたんじゃ」
そんなことであったと思います。
黒い雨というのは原爆投下後、広島の町へ降ったといわれておりますが、広島市だけであったともされています。
しかし、我が家は呉市、それも中心部に近い下町でしたし、本来は違うのではといわれそうですが、祖母が話してくれたことは間違いではなかったと
思います。
幼い自分が覚えているのはその箇所だけで、他にも色々と聞いていたのでしょうけれど、記憶には残っておりません。
他には呉であった空襲のことも同様に聞いたようなのですけれど、聞いたことだけが頭にあり、話そのものはやはり覚えていない気がします。
戦争の影はなかったといいましたが、これも幼い頃のかすかな記憶ですが、母に手を引かれ街中を歩いていると、薄汚れた身なりのオジサンがござと
いうのかムシロというのか、その上に座り、どうかすると手や足のない人もなかにはいたようで、そのオジサンの前には空き缶か何かが置かれていま
した。
特にものを言うわけでもなかったように思いますが、母はそのような人を見かけるとその空き缶に幾ばくかの小銭を入れて、私の手を引き、足早に
その場を立ち去っていたように思います。
「あの人、どうしちゃったん?(どうされたの?)」
と母に尋ねても
「戦争で大変になってしもうちゃったんよ(大変になってしまわれたのよ)」
というだけで、それ以上は答えてくれなかったようにも思います。
しばらくはそのような方も見受けられましたが、次第にそれらの人も街の中から姿が見えなくなっていったように感じます。
いわゆる傷痍軍人といわれる人達であったのでしょうが、その後どのように生活されたのでしょうか、これとて何か施策があったのかも知れません
けれど、やはり幼かった自分が知る由もありませんでした。
中学校の国語の先生が戦時中、学徒動員で学校へは行かず、代わりに廿日市であったか、その辺りの畑か何かでさつまいもを作らされていたという
話をされていました。
8月のあの日も、朝からいつもと同じように畑へ出ていると、一瞬ピカッと広島の上空辺りで何かが光ったと思うと、少し遅れて凄まじい音と共に
見たこともないようなどす黒い雲のようなものが湧き上がってきたそうです。
何事が起こったのかわけもわからず、それでもしばらくすると、それは新型爆弾が落されたんだという話を教師が話してくれたのでした。
先生自身の身内が市内におられたとかで、しかしすぐには向かうことは出来ずに、広島へ出向けたのは一週間後だったようです。
行ってみると、あたり一面焼け野原で、なにもかもが真っ黒ろこげで、形のわからないものが転がっていたといいます。
人であるのか、物であるのか、それさえもわからないものも多くあったようです。
此処で書くのも憚られるような事も多く、夜になると青い光が飛んでいたともいいます。
よく人魂とか申しますが、これも亡くなった方の体から出た燐が何がしかで燃えるのがそう見えていたのではないか、ともいわれているようです。
その先生自身、原爆投下直後の入市ということで自分自身も被爆者ということになったと話されておりました。
ある方は、広島市内で被爆されたものの、戸板に乗せられて可部の家までたどり着き、ひと月以上、意識も朦朧とされていたようですが、その間
被爆して火傷を負った腕や足には蛆がわいて来たそうです。
看病する身内の方も最初はそれらを取り除いていたようですが、次々と出てくるそれらをどうすることも出来ず、するに任せておかれたそうです。
ですが、そのように蛆がわいた痕はどういうわけか、火傷特有のケロイドが残ることなく、綺麗な皮膚が再生されていたといわれておりました。
被爆したときにガラスの破片も体内に入ったらしく、何年も経って後、急に皮膚から出てくることもあったとも話しておられました。
その方はそのように被爆されていたにもかかわらず、90歳を越えて長寿を全うされて逝かれました。
自分の中に僅かにあるセンソウというものの記憶、また身近な方にうかがったその当時の話、思い出だせばまだあるかと思いますが、この度は
この辺りにさせて頂きます。
話したからどうだ、というわけではありません。
けれど、覚えている者がどこかで記録として留めておくことも必要なのではないのか、そうも感じます。
自分自身の話など、取るに足らぬちっぽけなものです。
それでも、何かを考えるきっかけにして頂ければ、そう思います。
本日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。
感謝申し上げます。
朝晩は随分と涼しくなり、しのぎ易くなりましたが日中はやはり暑い一日でした。
気温の上がり方が半端ないですよね;。
そんな朝はこんなお日様でした。
昨日まで「48色の夢のクレヨン」という物語を要約しながらお伝えさせて頂きました。
あの時代のことは、自分がまだ生まれる前の話でもあり、実際に自分の目で見たわけではありません。
自分が生まれたのは昭和34年で、その頃は戦争というものの影は既になりを潜めており、もはや戦後ではないといわれていた時代だったようです。
それでも、自分が物心ついた頃、あるいは幼い当時、近所の友達と共に近くの公園へ遊びに行くと、なにやらぽっかりと穴のあいた場所があった
のを覚えています。
子供の自分達なら、潜り込めばそこへ入れそうと思いながら、家に帰り大人に話すと、あそこは防空壕だったところだから入って遊んではいけない
よ、と諭された覚えがあります。
ボウクウゴウのそれが何であるのか全く分からず、それでも何とはなしに、その穴の向こうから光る目が見えたり、或いはオバケがそこへ居そうな
気がして、怖さと気持ち悪さを感じたのも事実です。
その後、その防空壕はどうなったのか、埋められたのかどうか、自分の知らぬ間に行政等で処置されたのかもしれません。
一緒に住んでいた祖母が広島の原爆投下のあの日のことを話してくれたことがありました。
「ものすごい音がして、どうしたんか思うて外へ出たら、大きな大きな黒い雲みたいなんが見えたんよ。どうなったんじゃろう思うとったら、その
うちにバラバラーッと黒い雨がふってきたんじゃ」
そんなことであったと思います。
黒い雨というのは原爆投下後、広島の町へ降ったといわれておりますが、広島市だけであったともされています。
しかし、我が家は呉市、それも中心部に近い下町でしたし、本来は違うのではといわれそうですが、祖母が話してくれたことは間違いではなかったと
思います。
幼い自分が覚えているのはその箇所だけで、他にも色々と聞いていたのでしょうけれど、記憶には残っておりません。
他には呉であった空襲のことも同様に聞いたようなのですけれど、聞いたことだけが頭にあり、話そのものはやはり覚えていない気がします。
戦争の影はなかったといいましたが、これも幼い頃のかすかな記憶ですが、母に手を引かれ街中を歩いていると、薄汚れた身なりのオジサンがござと
いうのかムシロというのか、その上に座り、どうかすると手や足のない人もなかにはいたようで、そのオジサンの前には空き缶か何かが置かれていま
した。
特にものを言うわけでもなかったように思いますが、母はそのような人を見かけるとその空き缶に幾ばくかの小銭を入れて、私の手を引き、足早に
その場を立ち去っていたように思います。
「あの人、どうしちゃったん?(どうされたの?)」
と母に尋ねても
「戦争で大変になってしもうちゃったんよ(大変になってしまわれたのよ)」
というだけで、それ以上は答えてくれなかったようにも思います。
しばらくはそのような方も見受けられましたが、次第にそれらの人も街の中から姿が見えなくなっていったように感じます。
いわゆる傷痍軍人といわれる人達であったのでしょうが、その後どのように生活されたのでしょうか、これとて何か施策があったのかも知れません
けれど、やはり幼かった自分が知る由もありませんでした。
中学校の国語の先生が戦時中、学徒動員で学校へは行かず、代わりに廿日市であったか、その辺りの畑か何かでさつまいもを作らされていたという
話をされていました。
8月のあの日も、朝からいつもと同じように畑へ出ていると、一瞬ピカッと広島の上空辺りで何かが光ったと思うと、少し遅れて凄まじい音と共に
見たこともないようなどす黒い雲のようなものが湧き上がってきたそうです。
何事が起こったのかわけもわからず、それでもしばらくすると、それは新型爆弾が落されたんだという話を教師が話してくれたのでした。
先生自身の身内が市内におられたとかで、しかしすぐには向かうことは出来ずに、広島へ出向けたのは一週間後だったようです。
行ってみると、あたり一面焼け野原で、なにもかもが真っ黒ろこげで、形のわからないものが転がっていたといいます。
人であるのか、物であるのか、それさえもわからないものも多くあったようです。
此処で書くのも憚られるような事も多く、夜になると青い光が飛んでいたともいいます。
よく人魂とか申しますが、これも亡くなった方の体から出た燐が何がしかで燃えるのがそう見えていたのではないか、ともいわれているようです。
その先生自身、原爆投下直後の入市ということで自分自身も被爆者ということになったと話されておりました。
ある方は、広島市内で被爆されたものの、戸板に乗せられて可部の家までたどり着き、ひと月以上、意識も朦朧とされていたようですが、その間
被爆して火傷を負った腕や足には蛆がわいて来たそうです。
看病する身内の方も最初はそれらを取り除いていたようですが、次々と出てくるそれらをどうすることも出来ず、するに任せておかれたそうです。
ですが、そのように蛆がわいた痕はどういうわけか、火傷特有のケロイドが残ることなく、綺麗な皮膚が再生されていたといわれておりました。
被爆したときにガラスの破片も体内に入ったらしく、何年も経って後、急に皮膚から出てくることもあったとも話しておられました。
その方はそのように被爆されていたにもかかわらず、90歳を越えて長寿を全うされて逝かれました。
自分の中に僅かにあるセンソウというものの記憶、また身近な方にうかがったその当時の話、思い出だせばまだあるかと思いますが、この度は
この辺りにさせて頂きます。
話したからどうだ、というわけではありません。
けれど、覚えている者がどこかで記録として留めておくことも必要なのではないのか、そうも感じます。
自分自身の話など、取るに足らぬちっぽけなものです。
それでも、何かを考えるきっかけにして頂ければ、そう思います。
本日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。
感謝申し上げます。