日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

物語に事寄せて

2017-08-03 21:37:31 | ある物語
こんばんは。
朝晩は随分と涼しくなり、しのぎ易くなりましたが日中はやはり暑い一日でした。
気温の上がり方が半端ないですよね;。
そんな朝はこんなお日様でした。


                                 


昨日まで「48色の夢のクレヨン」という物語を要約しながらお伝えさせて頂きました。
あの時代のことは、自分がまだ生まれる前の話でもあり、実際に自分の目で見たわけではありません。
自分が生まれたのは昭和34年で、その頃は戦争というものの影は既になりを潜めており、もはや戦後ではないといわれていた時代だったようです。
それでも、自分が物心ついた頃、あるいは幼い当時、近所の友達と共に近くの公園へ遊びに行くと、なにやらぽっかりと穴のあいた場所があった
のを覚えています。
子供の自分達なら、潜り込めばそこへ入れそうと思いながら、家に帰り大人に話すと、あそこは防空壕だったところだから入って遊んではいけない
よ、と諭された覚えがあります。
ボウクウゴウのそれが何であるのか全く分からず、それでも何とはなしに、その穴の向こうから光る目が見えたり、或いはオバケがそこへ居そうな
気がして、怖さと気持ち悪さを感じたのも事実です。
その後、その防空壕はどうなったのか、埋められたのかどうか、自分の知らぬ間に行政等で処置されたのかもしれません。


一緒に住んでいた祖母が広島の原爆投下のあの日のことを話してくれたことがありました。
「ものすごい音がして、どうしたんか思うて外へ出たら、大きな大きな黒い雲みたいなんが見えたんよ。どうなったんじゃろう思うとったら、その
 うちにバラバラーッと黒い雨がふってきたんじゃ」
そんなことであったと思います。
黒い雨というのは原爆投下後、広島の町へ降ったといわれておりますが、広島市だけであったともされています。
しかし、我が家は呉市、それも中心部に近い下町でしたし、本来は違うのではといわれそうですが、祖母が話してくれたことは間違いではなかったと
思います。
幼い自分が覚えているのはその箇所だけで、他にも色々と聞いていたのでしょうけれど、記憶には残っておりません。
他には呉であった空襲のことも同様に聞いたようなのですけれど、聞いたことだけが頭にあり、話そのものはやはり覚えていない気がします。

戦争の影はなかったといいましたが、これも幼い頃のかすかな記憶ですが、母に手を引かれ街中を歩いていると、薄汚れた身なりのオジサンがござと
いうのかムシロというのか、その上に座り、どうかすると手や足のない人もなかにはいたようで、そのオジサンの前には空き缶か何かが置かれていま
した。
特にものを言うわけでもなかったように思いますが、母はそのような人を見かけるとその空き缶に幾ばくかの小銭を入れて、私の手を引き、足早に
その場を立ち去っていたように思います。
「あの人、どうしちゃったん?(どうされたの?)」
と母に尋ねても
「戦争で大変になってしもうちゃったんよ(大変になってしまわれたのよ)」
というだけで、それ以上は答えてくれなかったようにも思います。
しばらくはそのような方も見受けられましたが、次第にそれらの人も街の中から姿が見えなくなっていったように感じます。
いわゆる傷痍軍人といわれる人達であったのでしょうが、その後どのように生活されたのでしょうか、これとて何か施策があったのかも知れません
けれど、やはり幼かった自分が知る由もありませんでした。

中学校の国語の先生が戦時中、学徒動員で学校へは行かず、代わりに廿日市であったか、その辺りの畑か何かでさつまいもを作らされていたという
話をされていました。
8月のあの日も、朝からいつもと同じように畑へ出ていると、一瞬ピカッと広島の上空辺りで何かが光ったと思うと、少し遅れて凄まじい音と共に
見たこともないようなどす黒い雲のようなものが湧き上がってきたそうです。
何事が起こったのかわけもわからず、それでもしばらくすると、それは新型爆弾が落されたんだという話を教師が話してくれたのでした。
先生自身の身内が市内におられたとかで、しかしすぐには向かうことは出来ずに、広島へ出向けたのは一週間後だったようです。
行ってみると、あたり一面焼け野原で、なにもかもが真っ黒ろこげで、形のわからないものが転がっていたといいます。
人であるのか、物であるのか、それさえもわからないものも多くあったようです。
此処で書くのも憚られるような事も多く、夜になると青い光が飛んでいたともいいます。
よく人魂とか申しますが、これも亡くなった方の体から出た燐が何がしかで燃えるのがそう見えていたのではないか、ともいわれているようです。
その先生自身、原爆投下直後の入市ということで自分自身も被爆者ということになったと話されておりました。


ある方は、広島市内で被爆されたものの、戸板に乗せられて可部の家までたどり着き、ひと月以上、意識も朦朧とされていたようですが、その間
被爆して火傷を負った腕や足には蛆がわいて来たそうです。
看病する身内の方も最初はそれらを取り除いていたようですが、次々と出てくるそれらをどうすることも出来ず、するに任せておかれたそうです。
ですが、そのように蛆がわいた痕はどういうわけか、火傷特有のケロイドが残ることなく、綺麗な皮膚が再生されていたといわれておりました。
被爆したときにガラスの破片も体内に入ったらしく、何年も経って後、急に皮膚から出てくることもあったとも話しておられました。
その方はそのように被爆されていたにもかかわらず、90歳を越えて長寿を全うされて逝かれました。

                                
                                   
                                   



自分の中に僅かにあるセンソウというものの記憶、また身近な方にうかがったその当時の話、思い出だせばまだあるかと思いますが、この度は
この辺りにさせて頂きます。

話したからどうだ、というわけではありません。
けれど、覚えている者がどこかで記録として留めておくことも必要なのではないのか、そうも感じます。
自分自身の話など、取るに足らぬちっぽけなものです。
それでも、何かを考えるきっかけにして頂ければ、そう思います。


                                   
                                       


本日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。
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ある物語ある その五

2017-08-02 23:24:44 | ある物語
こんばんは。
暑かったですけれど、先日までより湿気がないので割とその分は楽に(でもないですけどね;)過ごせたようです。
今の時間、夕方の六時半過ぎ、ヒグラシが鳴いていますが、まだ秋には程遠いようです。
朝は爽やかに明けましたが、夕べはやはり寝苦しかったのは否めませんね(涼しいのかどうか、わからんですな;)


                              


続けて書かせて頂いておりました物語、今日で終われるよう努めたいと思います。


アメリカで子供達の書画が発見されたという記事を読んでから二ヶ月が経っていました。
朝早くに散歩に出掛けようとしたところへ一本の電話がかかってきました。
「ハロー、伊藤花子さんのお宅ですか?本川小学校の三浦教頭先生からあなたのことを伺ってアメリカのワシントンDCからかけています。
 シズミ・、マナーレです。」
マナーレさんという方から温かみのある声で電話を頂きました。
まるですぐ隣からかけてきているように感じられ、花子もなんとなくハローと言いたくなる思いがしました。
彼女のことは教頭先生から話をきいていましたが、まさか実際に話をするようになるとは思いもしなかったので初めは少しとまどいました。
でも彼女はとても日本語が上手で、それは元々広島生まれの大阪育ちだったからでした。
その後、アメリカ人と結婚して約三十五年間アメリカで生活しておられるそうで自分でも日系一世だといわれました。
話を聞いて、ますますアメリカが身近になったように感じました。
彼女は早速本題に入りましたが、話によると本川小学校で最初に絵を送ったという子供の消息がわかったのは私だったというのでした。
思いがけない話に驚きながらも、どのようにして自分達の絵が見つかったのか尋ねてみました。
彼女の話す日本は余計な前置きがなく、イエスノーがはっきりしていて、むしろわかりやすく感じました。
「二〇〇六年に私があの絵の存在を知った時、教会の方に経緯を聞いたのですがよくわかりませんでした。先日、ワシントンDCで広島・長崎平和
 協会のリーダーをされているジョンさんという方から連絡があり、だいぶ事情がわかりました。あの絵は以前教会のメンバーだった方の自宅で
 十年前に見つかったそうです。」
と彼女は早口に話しました。
「それは意外ですね。私はてっきり教会の倉庫に長い間、人知れず保管されていたものだとばかり思っていました・・・・・。」
「実は私も驚いているのです。あの絵は思いがけない所から奇跡的に発見されて、再び教会に戻って来ていたのです。」
彼女の話によれば、あの絵は一九九五年のある日、教会のメンバーであるジャネットさんという方が亡くなった母親の家の片付けをしていた時に
偶然見つけたそうです。
それ以来あの絵は教会の地下倉庫に保管され、まるで七夕のように一年に一回、ワシントンDCでの広島と長崎原爆慰霊祭の平和週間に取り出され
教会を訪問した人たちに公開されてきたということでした。
その前は何処にあったのだろう、不思議だと思い、花子はきっと絵の魂が生きていて運命の回路を巡り、再び人々に呼びかけたのではないかと
感じたのでした。
「随分昔のことなので当時を知る人は殆どいなかったけれど、戦後直ぐの時期に牧師のアシスタントをしていたジェーン・ファイファーさんという
 方が見つかったのです。
 彼女は今年九十歳ですが、当時のことはよく覚えておられました。贈り物を広島に送ったことや広島からのお礼が届いたことをはっきりと覚えて
 おられました。彼女が最後に絵を見たのは一九五十年頃だったそうですよ。その当時、アメリカ支部省の方が担当して、しばらくアメリカ中の
 学校を回ったそうです。しかしその後、絵が何処に行ってどういう経路を辿ったのか、何処で眠っていたのかはわからないということでした。」
絵を発見したジャネットさんも一九九六年に亡くなっているので、一九五十年以降どのような事情があり、いつの頃から彼女の母親があの絵を保管
してたのかは不明なままでした。
しかし確かなことは、花子たちが子供のときに描いた絵や書がアメリカで生き続け、二〇〇六年に、今話しているマナーレさんらに発見され、自分
達と再会できるということです。
花子らのあの懐かしい作品がアメリカで大事に保管され、教会を訪れた世界の多くの人々の目に触れ、人々の心を暖めていると聞いて、花子は感動
しました。
あの絵発見の新聞記事のおかげで、日本各地のクラスメイトや当時の懐かしい人らから連絡がありました。
戦争を乗り越えた広島の級友が今でもたくさん元気にしていることがわかって嬉しく思い、先生を囲んで小学校の同窓会をすることにもなりました。
久しぶりであの当時のみんなに会えるのです。
自分達の絵が長い時間、どこをどのように放浪していたのかはわからぬままですが、長い旅からようやく帰ってきた旅人のように、また元の場所で
静かに生き続けています。
今は新しい世代の教会のメンバーにより保管され、これからも世界の平和を祈る宝物として役立てられるそうです。
あの子供のときの悲しみと喜びの記憶が受け継がれていくのです。
それにしても、幼い自分達の描いた絵がこんな不思議な運命を辿ろうとは思いもしませんでした。
あの白いコスモスをバトンにして走っていた自分達が、ここまで走ってこられるなんて誰が想像したでしょうか。


                                

「48色の夢のクレヨン」という本を、途中多少の前後がありますが、ほぼそのままに書かせて頂きました。
花子という女の子は架空の人物ですが、当時の話を元に上の文中に出てきておられるシズミ・マナーレ、正しくは重藤マナーレ静美さんという方が
やはり最初の頃に出てきた田舎(実際は当時の広島県双三郡吉舎町、現在の三次市)の母親の実家でお生まれになり、ひいてはそれがベースとなって
このお話が誕生したようです。
あとがきとして、彼女自身の言葉でも様々に綴られておられます。
彼女自身には被爆体験や、原爆が落とされた当時の記憶があるわけではありませんが、ご自身のお母様に話を聞いたり、被爆者の方に直接話を伺った
り、多くの当時の記録や資料を調べたりして、この話を書かれたようです。
彼女自身は、二十三歳で単身アメリカへ渡り、舞踊と演劇研究のため留学され、後にアメリカ人の夫となる方と結婚されました。
ご自身の持つ日本人、もっと言えば広島の血を引く者としての自分と、アメリカ人として育ったご子息の考え方の違いに思いを馳せ、そのような
ところからも原爆について知ってもらいたいと考えられたようで、結果的にこの物語を書かれたようです。
その他にも多くの事柄があり、フィクションではありますが、その殆どは真実に基づいた話であると語られております。


                                

この物語の本を頂戴したのは、実は既に二年ほど前だあったかと思います。
きちんと読もうと思いながらも、自分の寝る頭元に置いて、いつしかそのままにしてしまっておりました。
最初にご紹介した折に初めて最初から目を通してみて、これは自分だけで収めておくのではなく、せめて此処を覗いて頂ける方にお伝え出来ればと
思い、恐れ多くも、また拙い文章ながらも、要約しながら書かせて頂いたものです。
文中にはまだ様々に語られていることがあり、それら全てをお伝え出来なかったことは申し訳ございません。

幼い純真な少女の目を通して語られた当時の広島、広島に限らずあの頃の日本はどこもあのような惨状であったのかもしれません。

俗に言う、原爆の日が近づいたから、殊更にこの物語をお伝えしようとしたのでもありません。
ですけれど昨日も少し申したように、世界が混沌としてきている今現在、一歩間違えればこのようなことにならないとも限りません。
紛争地といわれる場所は、未だに多くあり、この物語以上に悲惨な日常が続いているとされます。
真の平和とは何なのか、平和といわれる日本にあって今一度どのようにすべきであるのか、自分達自身が考える一助になれば、僭越では御座いますが
嬉しく思います。


もう少し、自分の思いや聞いたことなど書かせて頂こうと思いましたが、少し遅くなりました。
また日を改めて延べさせていただこうと思います。


本日もこのブログへのお付き合い、誠に有難うございました。
感謝申し上げます。
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ある物語 その四

2017-07-31 21:32:25 | ある物語
こんばんは。
朝から茹だるほど暑い日でしたが、午後からは遠雷がするなと思っていると、次第にその音が大きくなりやがて雨も降り出す天気となりました。
これで随分と気温が下がり、凌ぎやすくなりました。
ただ、午前中は前の晩、どうにも頭が痛くあまり眠れていなかったのか無性に眠くて、家事の後はころげておりました;。
怠惰なオバサンそのものですね;。
寝づらい夜だったということにしておきます;。
そんな朝は、このようなお天気でした。

                                 

昨日まで書き綴らせて頂いております「48色の夢のクレヨン」、続けさせて頂きます。


箱の中から次々と目新しいものが出てくるのを、ワクワクしながら覗き込んでいた子供たちでしたが、誰かが
「もうアメリカは敵ではなくなったんですか?」
と先生に質問しました。
先生は、
「これからは自分たちと仲良くしていく国です。もっとお互いのことをよく知って理解を深めていかなくてはなりません」
といわれ、アメリカの歴史を少し難しい話を交えながら話して下さいました。
でもじきににっこりとされ、
「これからは多くのことを自由に学べます、英語も自由に勉強できるようになります」
大学時代に戦争のために英語の勉強をあきらめざるを得なかったと言われていた先生は、心を込めてそう言われました。
花子や他の子供たちも、アメリカ人は悪い人たちばかりだと思っていましたが、今回のことで優しい人たちもたくさんいるということがわかり、
いつかこの嬉しい贈り物をして下さった人たちにお礼がしたいと思いました。
そしてその日から花子は、明日になればもっと良いことがあるような、今までとは違う大きな幸せが待っているような、そんな不思議な気持ちに
なっていったのでした。

それからまたしばらく経っていました。戦争が終わってからは二年半が過ぎていました。
頂いたあの箱のお礼に、皆で絵を描いて送ろうということになりました。
二週間ほど、わら半紙に自分の描きたい絵を何度も練習して来ました。
そして今日はとうとう、あの頂いた画用紙に絵が描ける日が来たのでした。
何を描いたらいいのか、最初はわからず先生に
「目に見えるものだけではなくて、思い出や、これからの未来のことを描いてもいいと思いますよ」
と言われ、みんな色んなものを練習して描きました。
欲しいと思っている食べ物、昔のきれいな家や店、友達や家族、山や畑、自動車、人形、それに去年戦後はじめて開催した運動会のことなど、
様々なものを今日は画用紙一杯に描いたのでした。
見たこともないようなたくさんの色のクレヨンやクレパスを思う存分使ったけれど、それを見た先生は
「子供は遠慮などしなくていいのよ、あつかましいくらい元気でいいの。あなた方がこれからの日本を背負っていくのですから」
と励まして下さいました。
そんな子供らの絵をみておられたもう一人の先生が
「誰か原爆ドームの絵を描きたいものはおらんか」
と聞かれましたが、みんなひそひそと顔を合わせて話すばかりで、誰も手を上げませんでした。
そんな中でただ一人手をあげた子がいました。
アメリカのオレゴン州生まれの男の子でした。
彼は戦争が終わった昭和二十年の十二月に船で日本へ帰ってきたそうです。
他の子たちがこわくて描けないという絵をどうして描けるのか、彼に花子が問うと
「ぼくは原爆ドームがこわいと思わない。原爆が落ちたときのことを知らないし、見てないから。だから壊れた建物だとしか思えない、それだけさ」
と答えるのでした。
彼が描いた絵はまるで大人の絵描きさんが描いたようによく描かれており、こわいとか気持ち悪いというよりも、素敵な絵に見えて感心しました。
これでアメリカに送る絵は揃ったけれど、全てを送るには重過ぎるのでこのうちの五十枚ほどを選んで送られることになりました。
花子は自分の描いた絵が選ばれるのを期待していました。
それは去年の運動会を描いたもので、みんなの晴れ晴れとした顔や、もう会えないけれど死んだお母さんやお姉ちゃん、おばあちゃん達の声援
そしてコスモスのバトン・・・、そんなもの全てを絵に込めて描いたからでした。
どの色を使おうかとクレヨンを見ながらあれこれ思い巡らして描いたのでした。
だから自信があったし、おばさんや近所の偉い大学の先生も友達もみんなほめてくれていたからです。
みんなそれぞれ、自分の絵が選ばれることを願っていましたが、先生に聞いてもどの絵を選んだかは、決して教えてはくれませんでした。

その後数ヶ月が経ち、自分たちの贈ったものがアメリカに届き、それを見ている向こうの子供たちの写真が新聞に載っていると知り、なんだか
不思議な気持ちになったのを花子は感じました。
その新聞記事によると、自分たちのお礼の箱には絵や書の他に手作りの人形、漫画雑誌、それに袋町小学校と似島(にのしま)孤児院から預かった
子供らのお礼の手紙も入れられていたそうでした。
送り先は東京に住んでおられるハワード・ベル先生宛で、その先生から東京にあるアメリカ政府の検察所を経由してからアメリカへ送られるとの
ことでした。


やがて月日は流れ、2007年6月25日、花子は朝の新聞である記事に目が留まります。
「被爆地の小学生の絵ワシントンで発見、ヒロシマ『夢の光景』修復」
と大きな題字の下に子供らの絵が載っていました。
どこかで見たことがある、そう思った瞬間、これは自分が描いたあの時の絵だ!そう花子は思いました。
あの時、一生懸命描いた「あの戦後初めての運動会の絵」でした。
小さな手にしっかりとコスモスの花を握りしめ、大きな口を開けながら、空を見つめ先頭を切って走っていた私。
消しては描き、消しては描きして、絵の下書きを仕上げるのに一晩かかり、それでもみんなが応援してくれたあの運動会の絵がアメリカに届いて
いたなんて・・・。
信じられないような思いで記事を読み進めるうちに、いつしか忘れ去ろうとして来ていた過去が蘇ってきたのでした。


                              


物語も佳境に入って参りました。
あと少しなのですけれど、今日は此処までとさせて下さい。
自分自身が読ませて頂き、要約しつつも内容を正確にお伝えすることの難しさを感じております。
当たり前と言えば、当たり前の話ではありますけれど。
あの時代、どんなことがあろうと人々は常に明るくあろうとし、前向きにひたむきに歩んでいこうとしていたことが、これほど生き生きと描かれて
いることに驚きを覚える気も致します。
否、あの時代だったからこそ、そうせざるを得なかったのかもしれません。
あるいは、どのような時代背景があろうとも、常に笑うことを忘れずにたくましく生きていく、それが自分たちの本来の姿なのかもしれない、そう
も感じます。
今現在、自分たちの住まうこの国をはじめ、様々に混迷を深めておる世界です。
少しでも多くの人々が互いに笑い会える、そのような世界が来ることを願う思いです。


本日もこのブログにお付き合い頂きまして、本当に有難うございます。
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ある物語ある その三

2017-07-30 22:15:04 | ある物語
こんばんは。
暑いです;。
これしか言えない。
と弱音を吐いていてはいけませんね、この暑い最中でも外で頑張っておられる方も大勢おられるはずですので。
どうぞ、体調管理にはくれぐれもお気をつけ下さいね。
そんな今日は、このような感じ。
やはり雲がかかっております。

                               

最近、やれしんどいだのなんだの、と申しておりますが、どうも眼精疲労があるみたいでして;。
もともと遠視なので、近くを見るのは疲れるとは先だっても書いておりましたが、その上で老眼も重なり、これまたどうにも左右の視力が違うせいか
左目の奥が痛く、加えて頭も凝って相当に辛い感じです。
早いこと、自分に合わせて老眼鏡、新調せねばと思っております;。

と、そんなどうでもいい話は置いといて。

昨日すっぽかしてしまいました物語の続きを書いていこうと思います。
待って下さっておられる方がいらっしゃったのでしたら、本当にお待たせしております。

「48色の夢のクレヨン」
続けます。

                               

クリスマスの日、アメリカの民間団体から沢山の贈り物が届けられました。
先生方が朝早くから自転車に積み、五つの箱が学校へやってきました。
最初の箱には、どこも破れていない子供用の洋服が入っており、男の子用なのに赤いサスペンダーのついたズボンとか、女の子用には白と水色の
水玉模様のワンピースに、ピンクのリボンが胸や裾についた、お姫様がきるようなドレスもありました。
その他にも三足ほどの革靴が入っており、くじ引きでその一足を花子は引き当てたのでした。
二番目の箱には、歯ブラシや歯磨き粉や石鹸、それにきれいな色のビー玉が入っていました。
その歯磨き粉を使って、それからは毎日、授業が始まる前に歯磨きをすることにしました。
水でうがいをするのですが、それを吐き出すのはもったいない気がしたけれど、先生がうがいした後の水にはばい菌がいっぱいいるといわれたので
花子は必ず出すようにしました。
みんなに二つずつもらったガラスのビー玉を花子は宝物の一つとして空き缶にいれて大事にしました。
後で聞くと、ビー玉を飴と間違えて飲み込み、のどに詰まらせて死にそうになった子がよその学校にいたと先生に聞きました。
よほどおなかがすいていたんだろうなと思いました。  
三つ目の箱からは、太くて黄色い干しうどん(パスタのこと)白い砂糖、塩、干し豆、粉ミルクが出てきました。
田舎では牛からしぼったものしか飲んだことがなかった花子は不思議に思いましたが、これは水に溶かして飲むミルクだと先生が教えてください
ました。           
みんなで水筒の水に溶かして飲んでみましたが、とてもまずくて、こんなものを飲んでいるアメリカの子供たちがかわいそうだと思えたのでした。
黄色い干しうどんは、茹でて食べるんだとも教えてもらいました。
四番目の箱は、とても頑丈にできており、中にはいろんな薬や包帯、ヨードチンキなどの医療器具が入っていました。
たまたまお腹がいたくなった子がいて、先生はその子に薬を飲まそうとしましたが、最初、そんな硬くて白いもの(錠剤)を飲んだことがなかった
ので、砕いて飲ませました。
苦いのかなと思い、花子は尋ねると、みかんみたいな味がしたというので、クラスのみんなは急に自分もお腹が痛いといって、その薬を欲しがり
ました。
こんな沢山の薬をみて、戦争中にこの薬があったなら、多くの人が助かったろうにと花子は考え、亡くなった父や友達の顔を思い浮かべるのでした。
五番目の一番大きな横長の箱は、よほど前に送られたのか、ずいぶん傷んでいました。
最後となったその箱を先生はわざとゆっくり開けました。
中には、色んな勉強道具が入っていました。
束になった真っ白な画用紙が入っており、その匂いが教室に漂うと、思わずいいにおい、と誰かが声を出し、みなして深呼吸をしてそのに匂いを
胸いっぱいに吸い込みました。              
見たこともない沢山の色のクレヨンとクレパス、それに水彩絵の具がありました。
そのような文房具を目を輝かせて眺めながら、お尻に小さい消しゴムのついた鉛筆はくじ引きで六年生だけがもらい、あとのクレヨンとかは下
級生全員で共有し、図工の時間に使うことになりました。
最後に先生が取り出したのは、英語で書かれた手紙の束でした。
その中の二通を広げて見せて下さいました。
一通目は、クレヨンできれいなお花と家の絵が描かれていました。
二通目のには、大きな木と鳥が描かれており、そのどちらもがアメリカの小学四年生の男の子と女の子からのものでした。
英語で少し添えられているメッセージは、「アメリカからの贈り物が気にってもらえることを祈っています」と書かれていますと、英語の読める
先生が説明して下さいました。     
横長の箱には、最後に思いがけないものが入れてありました。
これはすごいぞ、と言って先生が取り出したのは野球のボール、それにミットやバット、野球帽が入っていたのでした。
男の子たちは喜び勇んで、悲鳴のような声を上げていました。
このクリスマスの日を今でもはっきり覚えているのは、これほど鮮やかな色の洋服や香りのよい画用紙、クレヨンや鉛筆など外国からの贈り物を
見たことがなかったからでした。
それまでの自分たちは、授業に使うものが殆ど無く、いつも何もかもがもったいないできていました。
これほどのきれいな色のクレヨンはぜいたく品で、学校で使うことはまずなかったからでした。
そして長い間、街全体が焼け野原で残骸を焼く臭い匂いの中で生活していた花子たちは、アメリカからきたこれらの贈り物の新鮮な良い匂いに
敏感になっていたのかもしれません。


                                  

物語は後もう少し続き、48色のクレヨンの意味もお分かり頂けるのですけれど、もう少し続けさせて下さい。
かなり要約させて頂きながら書いておりますが、やはりかなり無い頭を絞るように感じております。
拙い脳みそで、どのように書かせて頂けばよいものか、難しいものだなと感じるばかりです。


                                


このようなブログへのお付き合い、いつも本当に有難うございます。
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ある物語 その二

2017-07-28 21:54:45 | ある物語
こんばんは。
このところ、太平洋上に台風が居る?せいか、蒸し暑さが半端なく感じられます。
午後から出掛けて戻ってくると、バスを下りて歩く最中は雨が降ったのか多少の涼しさは感じられましたが、室内は30度をはるかに越えて
おります;。
この家自体がおそらく西日を浴びてか?相当に熱くなっているのもあるんでしょうね。
扇風機を回しても、なんだか暖房をつけているみたいで、このままだと本当に熱中症になってしまいそうです;。
今からでもエアコン設置をこの部屋にも考えないといけませんね。
そんな日の朝は、これまた曇り空。
今夏はこんなお天気が続くのでしょうか。


                                   

昨日、「48色の夢のクレヨン」という物語をご紹介する途中で終わっておりました。
今日はその続きを書かせて頂きます。

やがて花子らが通う学校の校庭にあったごみも少しずつ片付けられてちいさな広場ができていました。
その場所で戦後初めてとなる運動会が行われるからです。
運動靴がほしくても、高価なものをおばにねだることなどできないと感じている彼女の心中は、当然おば自身もよくわかっており、ならばと古い
服の切れ端で編んだ色んな色の混ざったおしゃれな草履を作ってくれ、これで一等をとりんさい、と励ましてくれました。
花子自身も、この草履が好きだよ!と元気に返事をし外へ飛び出して行きます。
そんな声を聞きつつ、普段はぐちや悪口など決していわないおばが
「戦争は絶対に二度としたらいけん。戦争でだれも幸せにはならんのじゃけん」
とつぶやくのでした。
運動会の当日、子供らの中には、新しい運動靴を履いてくる子も当然います。
そんな足元を花子はまぶしい思いで見つめがら、耳では教頭先生の話す話を聞きつつも、来賓のおられるテントの中に用意された鉛筆やノート、
消しゴム、絵本やきれいな鼻緒のついた草履など、一等賞の賞品を目の当たりにし、頑張ろうと気持ちを奮い立たせます。
リレーをするためのバトンも数少なく、ならばと子供らはそのバトン代わりにと朝からコスモスの花を摘んでバケツに入れておりました。
七十年は草木も生えないといわれていた広島の地に白い花を咲かせていたそのコスモスを、おばちゃんは奇跡じゃ、不死身の花じゃと言ってたよと
花子はみなに伝え、その花を見ながら、これは死んだ家族や友達の魂が花になって戻ってきたんだと皆して喜んでいました。
このことをきっかけにして、誰ともなくコスモスの花をバトン代わりにして走ろうと言い出し、リレーをすることにしました。
声援する大人たちも笑顔にあふれ、皆が大声を上げて、楽しくて、嬉しくて、幸せな気持ちで笑っていたのでした。

そのうち花子は風邪をこじらせ気管支炎となり学校を休みます。
当時は高価であったバナナを病気に効くからとおばが無理をして買い求め、それを食べた花子はなんとか元気を取り戻し、学校へ通いだしますが
クラスでは彼女は被爆者だといって、放射能の病気は人に移るとか、子供に遺伝するなどといっていじめを受けます。
広島の人たちは、被爆した人とそうでない人の二つに分かれていた頃でした。
そのような噂をされていることをおばに話すと、おばは教頭先生に相談に行き、先生は原子爆弾や放射能、被爆者のことについて子供らに丁寧に
説明して下さいました。
決して人に移るものなどではなく、被爆者の方たちはこの戦争の中で最も被害を受けたのだから、労わってあげなくてはいけない、と皆に諭した
のでした。
その後は花子は被爆者だといううわさはなくなり、それまでどおりに楽しく通学するようになりました。

                                 


此処まで物語をかい摘みながらご紹介してきております。
最後まで書かせて頂こうとキーを叩いておるのですけれど、どうしてか自分自身がたいそう疲れてしまいます。
何故でしょうね、どうにもそれこそ元気が出てきません;。
こうなったら、最後までを少しづつでも丁寧に綴らせて頂こうかと存じます。
もし、このような形であったとしても心待ちにして下さっておられる方がおられましたらば、本当に申し訳御座いません。
しっかりとお伝えさせて頂きますので、もうしばらくお付き合い下さいませ。
                                 
                                 
                                 

文中にも出てきました、放射能や被爆者に対するいじめ、偏見、これらは後々まで根強く残っておりました。
それでも、やはりそれらとは反対に子供らは分け隔てなく、お互いに楽しく過ごしていたともうかがっております。
そんな時代を生きた子供たちの物語です。
脚色というよりも、様々な方々の話を花子とおばの目を通してみた形で語られております。
自分がその時代にその場に居たわけではありませんが、そうであったのだろうなと感じられます。
そのような時代の空気をご一緒に感じたれたらば、と思います。



いつもながらの拙いブログへのお付き合い、本当に有難うございます。
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