日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

蜂が飛ぶ

2017-08-31 20:59:12 | 不思議なお話
こんばんは。
今日、気温は上がりましたが、とても爽やかな日でした。
というのも、かなり湿度が低かったからですね。
とはいえ、見ると40パーセント切ってます;。
これはこれでどうなんかいな、という感じですけれど。
大体が乾燥肌の方ですけれど、今日はやけに肌が乾く、顔が乾燥する感じがしまして。
家でいる分には殆ど化粧しないのもあり、しょっちゅう化粧水をつけておりました。
そう考えると、多少は化粧してる方が良いようなのですけれど。
朝はしかし雲が多く、このように乾燥するとは考えにくかったのですけどね。


                                    

昨日、蜂の怖い面ばかりを強調して書いていたように思います。
時期でもありますし、これも申した如く危ない面が最近は多々ありますので、それも兼ねて書いておりました。
ですけれど、今日は少し違った側面から見ていこうかと思います。
実際の蜂の行動云々よりも、そんな場面でいるのか、というようなことでしょうか。


                                                                        


このところ亡き主人の出場?回数が増えておりますけれど、やはり今日もその主人の登場となります。
まぁ、この人を引き合いに出すと、結構色んなことが出てきますのでそれでもいいかなぁ、とか思ったりもするのですけれど;。
それはともかく、蜂の話ですね。

これも随分と以前の話になります。
ある信者さんのご依頼で、その方のお墓に行った時のことだったそうです。
(その頃、自分自身は子供が小さかったのもあり、仕事へは同行しておりませんでした。)
季節は十二月、それも年末といえる位、かなり年も押し迫った頃のことだったかと思います。
二十数年前のことでもあり、最近に比べればまだまだ冬は寒かった頃のことです。
お墓のあるところは広島県の北部、三次というところで冬はかなり雪も降る地域でもあります。
とは言えその日、十二月であるにも関わらず、随分と暖かく小春日和であったようです。
そのような日にお墓へ行くと、その時期には既に冬ごもりをして、いないであろう蜂が飛んできたのだといいます。
それも一匹ではなく、何匹かがブンブンとお墓の周りを飛び始めたのだそうです。
最初は蜂がうるさいなぁ、と感じていたようでしたけれど、よく考えると季節は真冬ともいえる寒い頃、そのような時に蜜を探すでもなかろ
うに、何匹ものミツバチと思しき蜂がどこからともなく飛んで来たそうです。
信者さんが主人に
「まぁ珍しいですねぇ、今頃こんなに蜂が飛ぶなんて」
というと
「この蜂は、亡くなったご主人の御霊がこうして飛んで来ておるんよ。さっきから追い払っても逃げもせず、お墓の周りを飛んでおるでしょう」
と答えたのだそうです。
そう言われてみれば、蜂がいるのはその信者さんのお墓のある場所だけで、他のお墓には蜂はおろか別の虫すら飛んでいなかったといいます。
この日、信者さんや主人がお墓へ来たことを知り、とても懇意にしていたそのお墓の主はそのようにして蜂に姿を変え、嬉しい気持ちを表現した
のではと先生が話してくれたと、後日、その信者さんは私に語って下さったのでした。
自分もこの話を主人から直に聞いておるはずなのですけれど、先に申した如く、なんせ幼い息子の子育てに追われていた頃で、おそらく話を聞いて
いたとしても、右から左に流していたのかもしれません;。
我が家も主人が亡くなり、その信者さんのお宅へお祓いに伺うと、折につれこの時のことが話題に上ります。

「あの日は、車を下りると案外と暖かかったんよね。それでお墓に参るといくら暖かいというても冬の十二月に蜂がブンブンいうてお墓の周りを
 飛び出したんにはびっくりしたんよ。先生がこれは○○さんのご主人がこうして蜂に姿を変えて会いに来てくれたんじゃ、と言われたんよ。
 確かに考えてみたら不思議な話じゃしねぇ。はぁ、それでこの蜂らは追い払っても逃げずにおるんじゃねぇというて感心したんよ。
 お墓参りも終わって帰ろうかというて車に乗ると、今度は急に雪が降り始めてねぇ。さっきまであったかいねぇと話しておったのが、まるで
 嘘みたいなかったんよ。
 でも、嬉しかったねぇ。蜂でもなんでもああしてお父さんが自分らの前に姿を見せてくれたというのは、やっぱり御霊はあるんじゃろうねぇ。」  
このように懐かしむようにしてその方は話して下さいます。
蜂、それもミツバチ、しかも季節は冬の最中。
このような条件であったからこそ、尚更印象に残っておられるのかもしれません。


                                   
                                    

たまに、このように蜂に姿を変えて家族に会いに来てくれたのでは、という話を聞いたり見たりすることがあります。
蜂に限らず、蝶であるとかまたは鳥であるとか、何かしら別のものに成り代わるようにして存在を示してくれることも少なくないようですね。
もしかするとごく日常の中でも、このように自分達に認識出来る格好に変身?して案外と近くにおられる御霊もあるのかもしれません。
そのような気持ちで周りを見渡すと、また別の見方が出来てくるのかもしれませんね。


                                   


蜂の話から、最後は御霊の話になりましたけれど、明日から九月。
月半ばにはまたお彼岸を迎えます。
お墓参りには、少し気をつけて周りを見渡してみられてはどうでしょうか。
不思議なことに遭遇するかもしれませんよ。


本日もこのブログにお付き合い頂きまして、有難うございました。
感謝申し上げます。
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蜂、あれこれ

2017-08-30 21:48:21 | 蜂について
こんばんは。
台風15号が発生し、日本列島へ向かって来ているようですね。
涼しくなったかと思うと、またあの蒸し暑い空気を運んで来そうで困ったものです、というよりもあれこれの被害が出ないことを願っております。
この辺りは今日は日中は暑かったのですけれど、やはり朝晩めっきり秋めいて参りましたね。
蝉のなく声が今の時間、18時半でもしておりますがそれと共に虫の音も聞こえてきます。
季節は確実に移ろっておるようですね。
そんな日の朝は、此方。
ほんの少しだけ朝焼けしていたようです(時間が遅くて見えなかっただけかも;)


                                


実は我が家の天井裏に蜂が巣を作っておりまして;。
いつの頃からか、ブゥ~ンという羽音を室内に居て聞くようになっておりました。
ですけれど最初それが何なのか、蜂のようではあるけれど、どこから聞こえるのかわからずにおりました。
この家自体、随分古いようで屋根裏というのか天井と屋根の間の隙間もさほど無い感じでもあります。
その屋根裏?の空気抜きというのでしょうか、これも小さな穴なのですが、そこの網を被せてある部分が経年劣化なのか、取れてしまったようで
そこから蜂が入り込んでいたようです。
羽音は、その蜂のものだったんですね。
蜂はどうやらアシナガバチのようで、スズメバチではないのがまだ幸いだとは考えておるのですけれど。
自分としては、季節が来ればそのうち飛び立つだろうと考えておりましたが、ご近所が小さいお子さんが多く、どうにかしてもらえないかという
声が自治会を通して話が来ました。
確かにこれからの時期、蜂も危なくなるというしなと考えつつも、申すように天井板と屋根裏はその板一枚の仕切り?のようでして、薬剤散布
するとなれば、室内まで下りて来そうで、どうにもなぁ;と二の足を踏んでしまいます。
木酢液が良いと、どなたかのブログで拝見しましたが、今それをあの狭い通風孔(にもなってないけど;;)から入れようにも、それもどうだかな;
と案じあぐねておるところです。
蜂と意思疎通が出来るなら、お願いだから子供らには攻撃しないでね、もちろん大人もですよ、と願いたいのですけれど。


                                


駆除といいますがこれはあくまで自分達人間側から見たことであり、大きな視点で見れば殺生することに他ならないのでは、と考えてしまいます。
人間の住む場所へ近づきすぎて来ている彼らの問題なのか、やはり気温等が高くなり気象状況が以前と比べて大幅に変わってきているからなのか
そこのところはわかりませんが、出来るならお互いに平和的に共存していきたいものです。
おそらく天井裏へ巣を掛けているであろう(いや、掛けておりますけれど;)蜂に向かい、そこれこそテレパシーで
「悪いことしないので、そちらも穏便にね。お願いね。」
と頼んでおこうと思います。
どうぞ大丈夫でありますように。
もちろん時期が来て蜂がいなくなった時点で通風孔の穴はしっかりと塞いで、これ以降蜂の出入りがないようにしたいと考えております。
                                
      
                                


今の前に住んでいた家でも、やはり蜂、アシナガバチがすぐ目と鼻の先に巣を作ったことが何度もありました。
そこは二階に物干し、つまりベランダがありまして(ここも相当古いお宅でした)その軒先に時期になると、蜂がやってきて巣を作っておりました。
自分としては、こちらが何もしない限り、向こうも無闇に攻撃してくることもないので大丈夫かな、と感じておりました。
その巣もある時、物干し竿の先端に作ったことがあり、この時はさすがに少しビビッておりましたね;。
ちょうど主人を介護しておる頃でもあり、洗濯物は日々かなり出ておりましたし、干さないわけにもいきません。
最初はおっかなびっくり、ソロ~ッ;、とその竿の片隅に寄せるようにして干しておりました。
蜂の方も初めの頃は、まるで猫が毛を逆立てるようにして羽を広げ威嚇するようにしておりましたけれど、じきに此方がなにもしないというのが
わかったのでしょうか、自分が洗濯物を干しにベランダへ出ると、彼らはジィッとして動かなくなりました。
そうしてこちらが干し終わり、網戸を閉めてしばらくすると彼らも安心したように、また巣作りを始めるのでした。
そんな蜂の様子をそれこそ間近で観察するがごとく見ておりましたので、お互い無益な争いは避けようという意思疎通は出来ているのかな?と
考えておりました。

           
                                


そんなある日のこと、たまたまそのベランダのある部屋から外を眺めておりましたら、一匹の蜂が飛んで来ました。
というよりも、いつものアシナガバチの羽音よりも遥かに大きく力強いその音に気づき、目を向けたのでした。
ご想像の通り、こちらはスズメバチのようでした。
これは危ない、と判断し網戸だけではなく窓ガラスを閉めて様子を窺いました。
スズメバチはアシナガバチの巣に取り付き、中の蜂の子を食べ始めました。
えぇっ;と驚く自分でしたけれど、貪り食うという表現がまさにぴったりな感じで、外からら戻ってきた親であるアシナガバチの必死の攻撃にも
全く怯むことなどなく、むしろ彼らもそのスズメバチの餌食となってしまったのでした。
ガラス窓を通してですけれど、その蜂を食べる音が聞こえてきた程でした。
散々そのようにして食べ散らかし(本当にそのような表現が当てはまる感じでした)、最後、これも信じられないでしょうけれど、そのスズメバ
チが満腹だとでもいう様に、大きなゲップをしたのでした。                               
そこでやっと満足したのか、スズメバチはどこかへと、また飛んで行ってしまいました。
つい先ほどまで、甲斐甲斐しく世話をし、自分も怖いながらもなんとか育って巣立って行ってほしいと考えておったアシナガバチでしたが、まさか
最後がこのような結末で終わろうとは思いもしませんでした。
弱肉強食とはいいますけれど、それをこのような形で目の当たりにしたのは初めてのことでした。


                                


スズメバチにはもう一つ話がありました。
これはまだ主人自身が元気な頃のことです。
主人が居る部屋に、スズメバチがどうしたものか入ってきたようでした。
二階から蜂が入ったから危ないので近づくな、と主人の叫ぶような声がしました。
どうやら扉を閉め切って、その部屋の中で何とかしようとしていたようでした。
たまたま部屋の中に殺虫剤があったらしく、それを一缶丸々使い蜂に向けて噴射したようでした。
20分も経った頃、ようやく二階の部屋から下りて来て言うには
「あいつ(蜂ですね)、最初は窓開けて出そうとしたけど、こっちへ針を見せるようにして尻を向けてくるんじゃ。攻撃する気満々だったから
 こっちもやられたら適わんし、必死で殺虫剤撒いたんよ。ようやっと弱って落ちたと思うたら、一缶無くなっとったんや。」
と疲れ切った様子で話しておりました。
そうして気分が悪いというものですから、掛かりつけの医師の元へ向かいました。
診察室に入り、主人自身が今しがたのことを事細かに話し、その際に殺虫剤を丸々一本使い切りました、と付け加えると、やおら医師が握っていた
ボールペンをコロリと落として言うことには
「あなた、それ殺虫剤の中毒ですよ。一本全部使い切ったんでしょ?そりゃ気分も悪くなりますよ。蜂のせいではありませんから。」
といわれたそうです。
その時の治療はどうであったか、すみません、覚えておりませんが確か安静にしておきなさいとの指示だったような気がします;。

                                                               
                               

書いておりますともう一つ思い出しました、スズメバチのエピソード;?
これもまた主人絡みです。
ある日、木々が茂る庭の一隅に、つい一週間前まで見なかったバレーボールより少し小さめの球状のものがぶら下がっております。
主人にその事を話し、確認してもらうとこれこそあのスズメバチの巣だとのこと。
ええ、危ないじゃん;;とビビッて言うと
「大丈夫よ、昼間にあれら(蜂)が巣から出て行っておらん間に取れば刺されもせんよ」
とさも簡単げに応えるのでした。
実際、次の日の昼間、蜂が外へ出掛けていなくなった隙を突いて主人が脚立を持ち出し、その巣にビニール袋を被せてそのまま切り落としました。
その間わずか10分程のこと。
巣の中に子がいたのかどうか、そこまでは知りませんでしたけれど、主人は親であるスズメバチに噛まれることも攻撃を受けることも全く無く
すんなりと巣を取り除いたのでした。
夕方戻って来た蜂達はしばらくその辺りを飛んでおりましたが、そのうち姿を見せることは無くなりました。
若い頃、なんでもしていた主人のこと、どうやらそのような蜂の対処もどこぞで覚えてきていたものだったのかもしれません。



今日は、蜂についてのあれこれでした。
此処では簡単そうに書いてしまいましたけれど、やはり危険な相手には違いありません。
危ないと感じましたら、そうっと身を屈めて静かにその場を去ることだといいます。
これからの時期、アウトドア等、どうぞ皆さんお気をつけてお過ごし下さいね。



本日もこのブログにお付き合い頂きまして、有難うございました。
感謝申し上げます。
                                 
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2017-08-29 21:34:59 | 
こんばんは。
朝から何かと騒がしい日でした。
これからどうなるのか、という感じですけれど。
不穏な空気が早く払拭されることを思い何事もなく過ぎてほしい、実のところ、そう願うばかりです。

そんな日の朝は此方。
やや雲がある感じでしたね。


                                


幾度か書いておりますけれど、このところ想念の中に龍が見えてきます。
以前は白く輝く虹色を纏った龍と申しておりましたけれど、最近は少し違ってきております。


                                


これもまた龍が見えるのは、ある方の月々の改善の呪文(此処でいう呪文とは悪しき意味ではなくよくなる為の言葉と解釈して頂ければと
思います)を唱えて目を閉じていると見えてくると言っていたものです。

                                
                                


ある時から、白く虹色纏う龍に替わり、二頭の龍が見えてくるようになりました。
それは白色と黒い色を纏った龍です。
それらが二頭で絡まりあい、あたかも二重螺旋を描くようにしながら飛んで行く様が見えています。
白だけでもない、黒だけでもない、つまりは陰陽、どちらもあって物事は一つとなる。
どちらかが正しいとか悪いとかではない。
全ては絡まり合っている。
つまりはこの世の全ては、どちらもが絡まり合って出来ている、どちらか一方では存在しえない、そう、これらの龍に言われたようにも感じ
ました。
また、この二重螺旋はDNAのそれを想起させます。
そのようにして絡まり合うようにして、この二頭の龍が進んで行く様が見て取れます。

ある時は、夕方の散歩のコースを歩きながら心でその呪文を唱えると、自分の頭上を巨大な黒い龍とそれより少し大きな、これは金色の龍が
駆けていく様が感じられました。
方角でいうと北のほうです。
そうして遥か上空、もしかすると大気圏外辺り?にいつもの虹色を纏う龍がそれを確かめるともなく、浮遊しながら観ているようでした。
当然ながらそのスケールは壮大です。

上の文章はこの呪文を教えて下さっている方に宛ててメールしたものを書いております。
この時の日付が今月の17日。

その翌日に神殿で祝詞奏上の後、やはり呪文を唱えて感じたのが、黒い龍もですけれど、主に金色の龍があたかも目の前でその姿態をぬめらせる
ようにして、殊更此方へ鱗の一枚までもわかるように身体をくねらせて舞い上がって行くかのような情景を目の当たりにしたのでした。
あまりにリアルなその姿に、本当に自分の目の前に居たかのように感じられ、驚きでした。

また、視点が変わり、上空には件の虹を纏う白い龍、遥か下方ではそこかしこで様々な色の龍が互いにくるくると回っていたり、あるところでは
八の字に飛んでいたり、と様々に見えています。
その下はおそらく日本国土の森林、山林なのだと思います。
そのような場所のあちこちで前述のように舞うが如く居る龍達は、おそらくそこが神社であったり、或いはパワースポットと呼ばれるような場所で
そのようにして居る様でした。

このような光景が頭の中に想念として浮かび上がってきます。
そうして、たまにそんな龍に此方(側)へ参れと呼びかけられているような気がします。
そう言われても、というところですけれどね;。

  
                               


つい先だっても、ふと見上げる自分の頭上を胴体だけが悠々と通り過ぎて行くような龍の感覚を覚えました。
その本体はあまりに巨大過ぎて、どこからどこまでであるのかさえ分かりかねるほどでした。
いつもながらにその大きさに圧倒されるのですけれど、決して怖いとかではなく、何とも胸のすくような感覚があります。
ある時は夜空に思いを馳せると、そこにもすぐ真上に龍の気配?を感じ、いつでも近くにいるのだ、あるのだと思えたのでした。

申すように自分の場合、その姿形が目に見えるわけではありません。
あくまでも、そのように感じられるというだけのことです。

                               


よくスピリチュアルという世界ではガイドということが言われます。
自分ではよくわかりませんけれど、もしかするとこのように頻繁に出てきてくれる?龍は、自分にとっては正にそのガイドであるのかもしれません。
これから先、どのように龍が現れてくるのか、自分には皆目わかりません。
また何を示しているのか、それもこれからよく観ていかねばならないのだろうなとも思います。
様々に出てくる龍、想念の中の龍ではありますけれど、楽しみながら感じて「観て」いきたいと思います。


                               
                                        

本日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。
感謝もうしあげます。
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デパートの屋上にて

2017-08-28 21:34:17 | 日記
こんばんは。
日中、今日は割りと涼しい所へいたのでさほど暑さは感じませんでしたが、やはり暑い一日だったようです。
夕方になるとそれでも風も涼しさを覚えるようになりました。
そんな日の朝は、此方。
空気が少し霞んでいるようにも思えます。


                                

所用にて街中へ。
ここで、このブログでブックマークさせて頂いております多賀井正夫氏が先だって個展を催されたデパートの屋上で、これもまたある催しがある
ようでした。
催しというよりも、その屋上にて面白いものが展示されておりました。
例によって、この中にある郵便局へ行っておりますと、店内放送で屋上にてペンギンがいます?というようなアナウンスが流れました。
実際には作家さんがそこへオブジェとして置かれているものをそのように放送されたのだと思うのですけれど。
その方のお名前は、中村明日香さん。
実はこの方、どうも息子と同じ大学の学部の同級生であられたか、あるいは先輩、後輩のどちらかに当たる方だと思います。
というのも、息子がおりました大学では、その学部(芸術学部でした)の卒業展示、いわば卒展として大学並びに市内の現代美術館というところで
開催がされておりました。(今年から場所は少し変わったかもしれません)
その折に、なんとも印象的なペンギンの彫刻がありましたのを、これを見て思い出したからでした。
印象的なペンギンというのは、身体はペンギンなのですけれど、顔は人の顔、というよりも幼児の顔であったように記憶しております。
不思議な感覚、というのか面白いなぁ、と感じてましたので余計に記憶に残ったのかもしれません。


                                

今日展示されてあったのは、それとは違い、ごく普通の姿をした何羽ものペンギンでした。
素材は何であるのか、そこまではわからないのですけれど、このような愛らしいペンギン達が、屋上の広場のそこかしこへおり、日射しはきつか
ったのですが、小さなお子さん連れのお母さんなどが近くへ寄って物珍しそうに、或いは楽しそうにしておられました。
写真はこの一枚しか撮っておりませんでしたので、伝わりにくいかもしれませんけれど、夏の日をサンサンと浴びながらあちこちへ置かれている
ペンギン達は、なんともユーモラスに感じられました。

そんなデパートの屋上、その昔、此処はちょっとした遊園地になっていたように思います。
とは言え記憶の中にかすかにあるだけで、どのような遊具があったかまでは流石に覚えがありません;。
同じ階にあった、とこれも記憶する大食堂で少しかしこまりながら、お子様ランチやら、時には天辺に綺麗に盛られたバターのあるふっくらと焼き
上げられたホットケーキが運ばれて来るのをワクワクしながら待っていたこと、これは思い出します。(やはり食い気かも;)

その食い気はともかく;、同じその広場にお稲荷さんが祀られておりました。
御祭神は、宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)、豊穣の神様ですね。


                                



広島で最も老舗といわれているデパートですし、このような神様が祀られておられても不思議ではないと感じます。
むしろ、このようにきちんとなさっておられるからこそ、今の時代を生き抜いてこられているのかもしれません。
自分もいくばくかのお賽銭をお入れし、拍手を打って参りました。

                                  


デパートやショッピングモールへ出かけたとしても、なかなか屋上までは昇りません。
よしんば昇ったとしても、最近はどこも駐車場になっておるところが殆どで、このような憩いの場では無いようです。
街中にあっても少し緑があり陰があり、子供さんらが自由に遊びまわれる場所、それほど見当たりませんけれど(確かに公園もありますが)、
このような所なら親御さんも安心して走らせてあげることが出来るのかも、と幼いお子さんらを眺めながら感じたひとときでした。


                                 


やれやれ、今日はどうにもごく普通のオバサンのお出かけ記録となってしまいました;、失礼致しました。
そんなブログへのお付き合い、今日も有難うございました。
感謝申し上げます。
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文字のエネルギー  もう一度

2017-08-27 21:18:06 | ものの見方 考え方
こんばんは。
昨夜は随分と気温が下がり、ともすれば寒い位に感じられました。
いつもなら布団を蹴っ飛ばして;寝ている自分ですけれど、さすがにその布団をかき寄せて寝ていたようです。
そんな日の朝は、此方。
ちょっと庇も部分が写りこんでおりますけれど、寝坊した証拠ですね;。


                               


昨日、ニギハヤヒについて滔々と述べておりましたが、う~む;あれはどうなんだろう、とそこれこそご紹介した著書を最後まで今一度読み返して
感じました。
名前そのものの考察については自分にしては案外と出来たようにも思えましたが、その人物の如何についてはかなり?マークのようでした。
ただ自分が述べたいと考えていた名前の持つ意味ということについては、あれはあれで良しとするかなということろですね。

今朝もそんな感じで様々な物や名前を「カタカムナ」の文字の意味するところに照らし合わせて考えてみると、なるほど上手く表現してあるのだな、
と改めて感じました。

よく自分達が使う「ありがとう」という言葉。
これも、この吉野信子氏著書の中でも解説されておりますが、自分でも一文字ずつ当てはめて考えてみると

         「ア」  感じる
         「リ」  離れる
         「ガ」  内なる力(濁点が付くと、内なるという言葉が掛かります)
         「ト」  統合
         「ウ」  生まれ出る

とされており、これを繋げて考えると、
      
          感じる離れた内なる力が統合されて生まれ出る

となりますね。
感じる離れた内なる力って何だろうと考えると、この言葉を使う時には自分とその対象となる人或いは物などがあります。
お互いに感情を持ち、それは離れてはいるけれど、内なる力を持っている、それが統合、一つになって生まれ出てくること。
そのようになるのかなと思います。
この場合、物には感じることそのものなんて備わっていないじゃないか、そう考える方もおられると思います。
ですけれど最近の科学では、物であってもこのありがとうという言葉には敏感に反応し、その分子の状態が良くなるとされておるようです。
殊に水などは非常に現れやすいとされているようで、「ありがとう」の言葉をかけられた水は綺麗な結晶を作り、片や「バカ」と言葉を投げかけ
られた水は、結晶そのものが崩れているとされております。
これも、文字そのものが持つ波動によりそのようになると説明されたならば、信じざるをえないのでは、とも思います。

人名、動物の名前、或いは物につけられた名前、それらをこの「カタカムナ」で自分なりに解読していくと、最初は難しくともだんだんと面白く
なり、あれこれと文字を書いては一人で感心しておること、しきりです。

もう一例を挙げてみます。

よく祝詞の中でも出てくる言葉の一つに「大神」という名詞があります。
これをやはり読み解いてみると

          「オ」  奥深く
          「オ」  奥深く
          「カ」  ちから
          「ミ」  実体 光

となっております。
これを順番に繋げて考えると
 
           奥深い奥深い力の光

となります。
感じとして、自分達の計り知れない程の奥深くある力、それこそが光である、そのように思えます。
最初の「オ」「オ」を除いてみても、「カ」「ミ」の二文字で『力の実体、光』と解釈でき、正しくその通りを表現しているのだな、と感じら
れます。 

試みにあまりよくない言葉、先ほどの「ばか」という言葉を読み解いてみましょうか。

          「バ」  内なる引き合う 

          「カ」  ちから

となり、これを同様に繋げてみると 
 
          内なる引き合う力
まぁ、言葉そのままですけれど、力と力が引き合えば、どちらも譲らず終いには壊れてしまうのでは、と感じられます。
先に例でも出したように、水の分子が壊れてしまいきれいな結晶にならないということにも、なるほど頷ける気がしますね。 


                               



普段、自分達が何気なく使っている言葉、よく綺麗な言葉を使いなさいと言われますけれど、真相はこのようなところにあるのかもしれませんね。
気持ちよい言葉を掛けられると、此方も心地よくなりますし、第一使った自分自身が清々しいと思います。
皆さんもいつもの言葉、少しだけ意識してみられては如何でしょうか。
案外それだけでお互いに気持ちよく、また明るくなれるかもしれませんよ。



                                


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