こんばんは。
朝からどんよりとした感じで、いつの間にか本核的な雨となりました。
先日から雨が欲しいと言っておりましたし、実際降るとなんだかなと思いながらもこれで多少は水不足が解消できるかなと思っているところです。
そんな雨の日、朝撮ったこの2枚位しか、今日は写真がありません;。
ですのでこれ以降に出す写真は、それ以前に撮ったものと考えて頂ければと思います。
まぁ、何もどうででも写真がないといけないということはないんですけれどね;。
ですので過去?の写真からの掘り出し物(笑)を見つけて出させて頂こうと思います、はい。
朝はいつものように祝詞奏上させて頂きました。
毎回同じ祝詞を奏上するため、殆ど文言というのか文章はそらで言える状況ですが実際にはちゃんと目で追って申し上げねばなりません。
これも当然いつもそうしておるわけですけれど、何故だか今朝は上げる祝詞の文言がいつの間にかご先祖を拝む時に上げる祭詞(さいし)の
それになってしまい、あらあら;と自分でも戸惑いました。
目で文字を追っているつもりが口から出てくる言葉がご先祖を祀る際のそれになっていたということです。
これはいけない;と気を取り直し、改めてもう一度拝礼し直し、祝詞を奏上致しました。
それでもどうしても途中何箇所か言葉に詰まるようなところがありました。
何故だろうと思いながらも、頭の片方ではどうしても先日の叔父のことが浮かんで来ておりました。
それを感じながら奉幣を振ると大神からの言葉を賜りました。
大神
“ ひと一人 この世界からいなくなるということは
それだけで悲しいものじゃ
特に縁があるもの 血縁のあるものなら 尚更やも知れぬ
けれど 御霊は変わらず続いて参るぞ
新しき生を受けるまでは この者として思うてやるがよい
弔いでもある ”
金龍の香りをつけていたのでこれは金龍か
金龍
“ 身体はやがて土へと還る
ただし 魂は続くのだぞ
それを忘れるな ”
大神、また香りをつけていた金龍からそれぞれ異口同音?のようにして同じようなことを言われました。
人が一人、この世界、3次元の世の中から居なくなるというのは確かに身内であれば余計に悲しく辛いものです。
考えまいとしても、どうしてもどこかで考えております。
大神が言われるように縁がある人、ことに血縁であるならば尚のことかと感じます。
会わなくなった、会えなくなっていたとしても同じこの世の中、世界には必ず居る、それも生きている、とごく普通に考えて普段はおりますので
特別何も思わず過ごしております。
けれどこうして肉体の死を持ってこの人ともう永遠に会えなくなったと思うと、どう考えても辛いとしか言いようがない部分があります。
あの姿、振る舞い、声も聞くことが出来ないと思うとなんとも言えぬ思いにかられるものです。
仏教でいうところの四十九日、神道では五十日祭、それまでは在りし日のその人を偲んで思うことが互いの慰めになるのかもしれない、そう感じます。
十二分と思えるほどの思いを感じながらしばらくは過ごしておきたい、そんな風にも思います。
二ヶ月足らずのこの間、その昔はその家の長(おさ)が亡くなると次の長となるべき者が遺体となった故人と共に自分らの住まう集落から離れた
地へ設けられた墓所でその間の食料を持たされて、じっとそこへおったのだそうです。
この間に棺桶というよりも丸い桶の中に入れられた遺体は死後硬直等を経た後、時には身体の中から洩れる空気がさながら声を出すかのような
音を聞きながらも、それでもその間は集落へ帰ることも許されず、ただじっとそれに耐えながら過ごしたといいます。
時間が経つに連れやがて遺体は腐敗しその何とも言えぬ臭気にも苦しみながら人が死ねばこのようになるのだということをいやがうえにも自分の
体験として感じ取りながら、次第に遺体は白骨化していく様を見続けたのだそうです。
その一部始終を見届けた者だけが、次の長に選ばれたといいます。
この間の腐敗臭を消さんがために香を焚く、すなわち臭い消しの為にそのようにしたとも言われておるそうです。
焼香するという起源はそのようなことであったとも聞きました。
今は火葬が主であり、そのように遺体が変化していくことも知らないのが普通かと思います。
今目の前にあった慣れ親しんだ姿のその人が何時間かすれば既に遺骨となっておる状態、それはそれで悲しくやるせないものでもあります。
けれどその昔は、上記のようにして身体は朽ちていくものだと大よそ殆どの人間が分かっていたのではと考えます。
だからこそ、この姿のこの人はこの世にはいないんだと身をもって感じ取っていたのでは、とも思います。
けれど、では御霊そのもの、魂そのものはどう考えられていたのか、この腐って朽ちていく肉体には留まることはなく既にそこを離れ次への旅立ち
へと向かっていったのではないのか、そんな風に思われていたのではないのか、そう感じたりも致します。
果たして古の人々は魂のことはどのように感じていたのか、我々にはわかりませんが案外と自分達以上にごくシンプルに魂はこのように離れて行く
ものだと感覚的に感じ取っていたのでは、とも思います。
その中で御霊、魂はそれが入る器、肉体を取り替えながらも連綿と続いて行く生があるようです。
上で言われていることですね、一度はこの今の肉体の弔いを行いながらも尚続く魂、生があるということ。
そのことを思いながら過ごしていく期間がこの二ヶ月足らずの時なのかもしれないとも感じております。
しかしどう考え、感じても今はまだ悲しみが感情の多くを占めております。
それを存分に味わっておきたい、そうも思う自分です。
そんな悲しいと思えていた葬儀の合間にも、おや;と思うことも無きにしも非ず。
式の間に色々とお世話をして下さる係りの方がおられます。
その女性の方の髪形がかなりキッパリとしておられまして、まるで○ルゾン○○○さんのよう;(いや、ほんとに)
お顔はというと、これがまたはっきりとした化粧をしておられて、益々似ているように感じておりました。
しかしスカートから覗くおみ足はとてもスラリとしておられ、素敵でした。
テキパキと事をこなしていかれる彼女の姿にどこか頼もしさも感じておりました。
短い間でしたがそんな方に最初から最後までお世話頂いたのは良かったことなのではと、これも感じたことでした。
葬儀の後の食事の間には先日も申しましたように殆ど知らない向こうのご親族の方々でしたが、結構な人数の方が参列して下さっており、叔父が
この地、またこれ等の方々に親しくして頂いていたのだなと思えた事でした。
無口とはいえ案外慕われていたのかもしれない、そんな叔父を感じられた時でもありました。
帰りは来た道ではなく下道、県道を通って戻りましたが、その最中昨年の豪雨災害があった地区も道路の脇や下に見ながら未だに片側交互通行と
なっておるところを通って帰りました。
自分は運転しておりますので、そこまで見られませんでしたが、あの折の爪痕は未だに痛々しく復旧もままならぬ様子でした。
叔父のいるところは被害は免れたようでしたが、少し走るとそのような場面にも出くわし、災害の大きさを思いました。
最後は一緒に参りました従姉妹を自宅まで送り届けました。
広島市内まで戻ればバスで帰ろうと思っていたと言っておりましたが、どうせ同じ区内でもあり道も知っておるところです。
玄関先でそのまま帰るつもりでしたが、まあせっかくだから上がっていってと勧められ、ならばとおそらく初めてのその従姉妹の家に上がらせて
もらい、従姉妹のご主人、久しぶりのおにいさんにもお会いしました。
このおにいさんが既に76歳とおっしゃいます。
もうそんなになられるのか、と昔お会いした頃よりも饒舌になられたなと感じながらもお話を聞いておりました。
亡くなった叔父とはほんの2、3歳ほどの違い、同じ年代であられるのかと思いながらもまだまだお元気そうな様子に安心も致しました。
けれどご自身が3歳の頃、広島市内で原爆に遭い命からがら母親と広島駅まで行き、そこから乗ろうとした列車が出るはずもなく歩きどうしで
幼いその子、おにいさんは母共々連れ立って延々と広島のそのまた奥の田舎まで帰られたのだそうでした。
そんな経緯があるにも関わらず身体に目立った症状も出ることもなく成長し、やがて縁あって従姉妹と結婚し高度成長時代と共に働いて来られた
年代でもありました。
誰しも紆余曲折のある時を過ごしながら今に至っておられる訳ですけれど、それぞれの生き様に触れさせて頂いた葬儀の日でもあったようでした。
叔父は2月の誕生日の前に79歳で逝ったそうです。
葬儀の日は29日、実は叔父の兄、つまりは自分の父親が逝ったのも79歳、また月こそ違えど同じ29日の葬儀でした。
この29日はこれもまた実母の亡くなった日でもあり、それが3月の29日、父も同じ月のこの日の葬儀でした。
どうにも今回、うちの父がどうせなら同じようにせんかとでも言うように仕向けたのでは、ともつい感じておりました;。
若い頃、曲がりなりにも同じ屋根の下で暮らした家族です、もういっぺん最後は一緒に集まろうや、そんなことを軽口を叩くようにあの世から
兄貴風でも吹かせたのでしょうか、何ともどこまでいってもやんちゃで?迷惑な父ではありますね;。
しかしそんなことを知っておるのは娘である自分ひとり、なんだかなぁ;と思うところではあります;。
どうにもすみません、思いの丈をこの3、4日間書かせて頂きました。
どう考えても自分自身の日記?備忘録とでもいうもののようになっております。
けれどこうして書かせて頂いたことで、どこかすっきりさせて頂けたことも事実です。
明日からは新しいことを書いて参りたいと思います、今度こそ;。(笑)
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
心より感謝申し上げます。
朝からどんよりとした感じで、いつの間にか本核的な雨となりました。
先日から雨が欲しいと言っておりましたし、実際降るとなんだかなと思いながらもこれで多少は水不足が解消できるかなと思っているところです。
そんな雨の日、朝撮ったこの2枚位しか、今日は写真がありません;。
ですのでこれ以降に出す写真は、それ以前に撮ったものと考えて頂ければと思います。
まぁ、何もどうででも写真がないといけないということはないんですけれどね;。
ですので過去?の写真からの掘り出し物(笑)を見つけて出させて頂こうと思います、はい。
朝はいつものように祝詞奏上させて頂きました。
毎回同じ祝詞を奏上するため、殆ど文言というのか文章はそらで言える状況ですが実際にはちゃんと目で追って申し上げねばなりません。
これも当然いつもそうしておるわけですけれど、何故だか今朝は上げる祝詞の文言がいつの間にかご先祖を拝む時に上げる祭詞(さいし)の
それになってしまい、あらあら;と自分でも戸惑いました。
目で文字を追っているつもりが口から出てくる言葉がご先祖を祀る際のそれになっていたということです。
これはいけない;と気を取り直し、改めてもう一度拝礼し直し、祝詞を奏上致しました。
それでもどうしても途中何箇所か言葉に詰まるようなところがありました。
何故だろうと思いながらも、頭の片方ではどうしても先日の叔父のことが浮かんで来ておりました。
それを感じながら奉幣を振ると大神からの言葉を賜りました。
大神
“ ひと一人 この世界からいなくなるということは
それだけで悲しいものじゃ
特に縁があるもの 血縁のあるものなら 尚更やも知れぬ
けれど 御霊は変わらず続いて参るぞ
新しき生を受けるまでは この者として思うてやるがよい
弔いでもある ”
金龍の香りをつけていたのでこれは金龍か
金龍
“ 身体はやがて土へと還る
ただし 魂は続くのだぞ
それを忘れるな ”
大神、また香りをつけていた金龍からそれぞれ異口同音?のようにして同じようなことを言われました。
人が一人、この世界、3次元の世の中から居なくなるというのは確かに身内であれば余計に悲しく辛いものです。
考えまいとしても、どうしてもどこかで考えております。
大神が言われるように縁がある人、ことに血縁であるならば尚のことかと感じます。
会わなくなった、会えなくなっていたとしても同じこの世の中、世界には必ず居る、それも生きている、とごく普通に考えて普段はおりますので
特別何も思わず過ごしております。
けれどこうして肉体の死を持ってこの人ともう永遠に会えなくなったと思うと、どう考えても辛いとしか言いようがない部分があります。
あの姿、振る舞い、声も聞くことが出来ないと思うとなんとも言えぬ思いにかられるものです。
仏教でいうところの四十九日、神道では五十日祭、それまでは在りし日のその人を偲んで思うことが互いの慰めになるのかもしれない、そう感じます。
十二分と思えるほどの思いを感じながらしばらくは過ごしておきたい、そんな風にも思います。
二ヶ月足らずのこの間、その昔はその家の長(おさ)が亡くなると次の長となるべき者が遺体となった故人と共に自分らの住まう集落から離れた
地へ設けられた墓所でその間の食料を持たされて、じっとそこへおったのだそうです。
この間に棺桶というよりも丸い桶の中に入れられた遺体は死後硬直等を経た後、時には身体の中から洩れる空気がさながら声を出すかのような
音を聞きながらも、それでもその間は集落へ帰ることも許されず、ただじっとそれに耐えながら過ごしたといいます。
時間が経つに連れやがて遺体は腐敗しその何とも言えぬ臭気にも苦しみながら人が死ねばこのようになるのだということをいやがうえにも自分の
体験として感じ取りながら、次第に遺体は白骨化していく様を見続けたのだそうです。
その一部始終を見届けた者だけが、次の長に選ばれたといいます。
この間の腐敗臭を消さんがために香を焚く、すなわち臭い消しの為にそのようにしたとも言われておるそうです。
焼香するという起源はそのようなことであったとも聞きました。
今は火葬が主であり、そのように遺体が変化していくことも知らないのが普通かと思います。
今目の前にあった慣れ親しんだ姿のその人が何時間かすれば既に遺骨となっておる状態、それはそれで悲しくやるせないものでもあります。
けれどその昔は、上記のようにして身体は朽ちていくものだと大よそ殆どの人間が分かっていたのではと考えます。
だからこそ、この姿のこの人はこの世にはいないんだと身をもって感じ取っていたのでは、とも思います。
けれど、では御霊そのもの、魂そのものはどう考えられていたのか、この腐って朽ちていく肉体には留まることはなく既にそこを離れ次への旅立ち
へと向かっていったのではないのか、そんな風に思われていたのではないのか、そう感じたりも致します。
果たして古の人々は魂のことはどのように感じていたのか、我々にはわかりませんが案外と自分達以上にごくシンプルに魂はこのように離れて行く
ものだと感覚的に感じ取っていたのでは、とも思います。
その中で御霊、魂はそれが入る器、肉体を取り替えながらも連綿と続いて行く生があるようです。
上で言われていることですね、一度はこの今の肉体の弔いを行いながらも尚続く魂、生があるということ。
そのことを思いながら過ごしていく期間がこの二ヶ月足らずの時なのかもしれないとも感じております。
しかしどう考え、感じても今はまだ悲しみが感情の多くを占めております。
それを存分に味わっておきたい、そうも思う自分です。
そんな悲しいと思えていた葬儀の合間にも、おや;と思うことも無きにしも非ず。
式の間に色々とお世話をして下さる係りの方がおられます。
その女性の方の髪形がかなりキッパリとしておられまして、まるで○ルゾン○○○さんのよう;(いや、ほんとに)
お顔はというと、これがまたはっきりとした化粧をしておられて、益々似ているように感じておりました。
しかしスカートから覗くおみ足はとてもスラリとしておられ、素敵でした。
テキパキと事をこなしていかれる彼女の姿にどこか頼もしさも感じておりました。
短い間でしたがそんな方に最初から最後までお世話頂いたのは良かったことなのではと、これも感じたことでした。
葬儀の後の食事の間には先日も申しましたように殆ど知らない向こうのご親族の方々でしたが、結構な人数の方が参列して下さっており、叔父が
この地、またこれ等の方々に親しくして頂いていたのだなと思えた事でした。
無口とはいえ案外慕われていたのかもしれない、そんな叔父を感じられた時でもありました。
帰りは来た道ではなく下道、県道を通って戻りましたが、その最中昨年の豪雨災害があった地区も道路の脇や下に見ながら未だに片側交互通行と
なっておるところを通って帰りました。
自分は運転しておりますので、そこまで見られませんでしたが、あの折の爪痕は未だに痛々しく復旧もままならぬ様子でした。
叔父のいるところは被害は免れたようでしたが、少し走るとそのような場面にも出くわし、災害の大きさを思いました。
最後は一緒に参りました従姉妹を自宅まで送り届けました。
広島市内まで戻ればバスで帰ろうと思っていたと言っておりましたが、どうせ同じ区内でもあり道も知っておるところです。
玄関先でそのまま帰るつもりでしたが、まあせっかくだから上がっていってと勧められ、ならばとおそらく初めてのその従姉妹の家に上がらせて
もらい、従姉妹のご主人、久しぶりのおにいさんにもお会いしました。
このおにいさんが既に76歳とおっしゃいます。
もうそんなになられるのか、と昔お会いした頃よりも饒舌になられたなと感じながらもお話を聞いておりました。
亡くなった叔父とはほんの2、3歳ほどの違い、同じ年代であられるのかと思いながらもまだまだお元気そうな様子に安心も致しました。
けれどご自身が3歳の頃、広島市内で原爆に遭い命からがら母親と広島駅まで行き、そこから乗ろうとした列車が出るはずもなく歩きどうしで
幼いその子、おにいさんは母共々連れ立って延々と広島のそのまた奥の田舎まで帰られたのだそうでした。
そんな経緯があるにも関わらず身体に目立った症状も出ることもなく成長し、やがて縁あって従姉妹と結婚し高度成長時代と共に働いて来られた
年代でもありました。
誰しも紆余曲折のある時を過ごしながら今に至っておられる訳ですけれど、それぞれの生き様に触れさせて頂いた葬儀の日でもあったようでした。
叔父は2月の誕生日の前に79歳で逝ったそうです。
葬儀の日は29日、実は叔父の兄、つまりは自分の父親が逝ったのも79歳、また月こそ違えど同じ29日の葬儀でした。
この29日はこれもまた実母の亡くなった日でもあり、それが3月の29日、父も同じ月のこの日の葬儀でした。
どうにも今回、うちの父がどうせなら同じようにせんかとでも言うように仕向けたのでは、ともつい感じておりました;。
若い頃、曲がりなりにも同じ屋根の下で暮らした家族です、もういっぺん最後は一緒に集まろうや、そんなことを軽口を叩くようにあの世から
兄貴風でも吹かせたのでしょうか、何ともどこまでいってもやんちゃで?迷惑な父ではありますね;。
しかしそんなことを知っておるのは娘である自分ひとり、なんだかなぁ;と思うところではあります;。
どうにもすみません、思いの丈をこの3、4日間書かせて頂きました。
どう考えても自分自身の日記?備忘録とでもいうもののようになっております。
けれどこうして書かせて頂いたことで、どこかすっきりさせて頂けたことも事実です。
明日からは新しいことを書いて参りたいと思います、今度こそ;。(笑)
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
心より感謝申し上げます。