日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

ある物語 その四

2017-07-31 21:32:25 | ある物語
こんばんは。
朝から茹だるほど暑い日でしたが、午後からは遠雷がするなと思っていると、次第にその音が大きくなりやがて雨も降り出す天気となりました。
これで随分と気温が下がり、凌ぎやすくなりました。
ただ、午前中は前の晩、どうにも頭が痛くあまり眠れていなかったのか無性に眠くて、家事の後はころげておりました;。
怠惰なオバサンそのものですね;。
寝づらい夜だったということにしておきます;。
そんな朝は、このようなお天気でした。

                                 

昨日まで書き綴らせて頂いております「48色の夢のクレヨン」、続けさせて頂きます。


箱の中から次々と目新しいものが出てくるのを、ワクワクしながら覗き込んでいた子供たちでしたが、誰かが
「もうアメリカは敵ではなくなったんですか?」
と先生に質問しました。
先生は、
「これからは自分たちと仲良くしていく国です。もっとお互いのことをよく知って理解を深めていかなくてはなりません」
といわれ、アメリカの歴史を少し難しい話を交えながら話して下さいました。
でもじきににっこりとされ、
「これからは多くのことを自由に学べます、英語も自由に勉強できるようになります」
大学時代に戦争のために英語の勉強をあきらめざるを得なかったと言われていた先生は、心を込めてそう言われました。
花子や他の子供たちも、アメリカ人は悪い人たちばかりだと思っていましたが、今回のことで優しい人たちもたくさんいるということがわかり、
いつかこの嬉しい贈り物をして下さった人たちにお礼がしたいと思いました。
そしてその日から花子は、明日になればもっと良いことがあるような、今までとは違う大きな幸せが待っているような、そんな不思議な気持ちに
なっていったのでした。

それからまたしばらく経っていました。戦争が終わってからは二年半が過ぎていました。
頂いたあの箱のお礼に、皆で絵を描いて送ろうということになりました。
二週間ほど、わら半紙に自分の描きたい絵を何度も練習して来ました。
そして今日はとうとう、あの頂いた画用紙に絵が描ける日が来たのでした。
何を描いたらいいのか、最初はわからず先生に
「目に見えるものだけではなくて、思い出や、これからの未来のことを描いてもいいと思いますよ」
と言われ、みんな色んなものを練習して描きました。
欲しいと思っている食べ物、昔のきれいな家や店、友達や家族、山や畑、自動車、人形、それに去年戦後はじめて開催した運動会のことなど、
様々なものを今日は画用紙一杯に描いたのでした。
見たこともないようなたくさんの色のクレヨンやクレパスを思う存分使ったけれど、それを見た先生は
「子供は遠慮などしなくていいのよ、あつかましいくらい元気でいいの。あなた方がこれからの日本を背負っていくのですから」
と励まして下さいました。
そんな子供らの絵をみておられたもう一人の先生が
「誰か原爆ドームの絵を描きたいものはおらんか」
と聞かれましたが、みんなひそひそと顔を合わせて話すばかりで、誰も手を上げませんでした。
そんな中でただ一人手をあげた子がいました。
アメリカのオレゴン州生まれの男の子でした。
彼は戦争が終わった昭和二十年の十二月に船で日本へ帰ってきたそうです。
他の子たちがこわくて描けないという絵をどうして描けるのか、彼に花子が問うと
「ぼくは原爆ドームがこわいと思わない。原爆が落ちたときのことを知らないし、見てないから。だから壊れた建物だとしか思えない、それだけさ」
と答えるのでした。
彼が描いた絵はまるで大人の絵描きさんが描いたようによく描かれており、こわいとか気持ち悪いというよりも、素敵な絵に見えて感心しました。
これでアメリカに送る絵は揃ったけれど、全てを送るには重過ぎるのでこのうちの五十枚ほどを選んで送られることになりました。
花子は自分の描いた絵が選ばれるのを期待していました。
それは去年の運動会を描いたもので、みんなの晴れ晴れとした顔や、もう会えないけれど死んだお母さんやお姉ちゃん、おばあちゃん達の声援
そしてコスモスのバトン・・・、そんなもの全てを絵に込めて描いたからでした。
どの色を使おうかとクレヨンを見ながらあれこれ思い巡らして描いたのでした。
だから自信があったし、おばさんや近所の偉い大学の先生も友達もみんなほめてくれていたからです。
みんなそれぞれ、自分の絵が選ばれることを願っていましたが、先生に聞いてもどの絵を選んだかは、決して教えてはくれませんでした。

その後数ヶ月が経ち、自分たちの贈ったものがアメリカに届き、それを見ている向こうの子供たちの写真が新聞に載っていると知り、なんだか
不思議な気持ちになったのを花子は感じました。
その新聞記事によると、自分たちのお礼の箱には絵や書の他に手作りの人形、漫画雑誌、それに袋町小学校と似島(にのしま)孤児院から預かった
子供らのお礼の手紙も入れられていたそうでした。
送り先は東京に住んでおられるハワード・ベル先生宛で、その先生から東京にあるアメリカ政府の検察所を経由してからアメリカへ送られるとの
ことでした。


やがて月日は流れ、2007年6月25日、花子は朝の新聞である記事に目が留まります。
「被爆地の小学生の絵ワシントンで発見、ヒロシマ『夢の光景』修復」
と大きな題字の下に子供らの絵が載っていました。
どこかで見たことがある、そう思った瞬間、これは自分が描いたあの時の絵だ!そう花子は思いました。
あの時、一生懸命描いた「あの戦後初めての運動会の絵」でした。
小さな手にしっかりとコスモスの花を握りしめ、大きな口を開けながら、空を見つめ先頭を切って走っていた私。
消しては描き、消しては描きして、絵の下書きを仕上げるのに一晩かかり、それでもみんなが応援してくれたあの運動会の絵がアメリカに届いて
いたなんて・・・。
信じられないような思いで記事を読み進めるうちに、いつしか忘れ去ろうとして来ていた過去が蘇ってきたのでした。


                              


物語も佳境に入って参りました。
あと少しなのですけれど、今日は此処までとさせて下さい。
自分自身が読ませて頂き、要約しつつも内容を正確にお伝えすることの難しさを感じております。
当たり前と言えば、当たり前の話ではありますけれど。
あの時代、どんなことがあろうと人々は常に明るくあろうとし、前向きにひたむきに歩んでいこうとしていたことが、これほど生き生きと描かれて
いることに驚きを覚える気も致します。
否、あの時代だったからこそ、そうせざるを得なかったのかもしれません。
あるいは、どのような時代背景があろうとも、常に笑うことを忘れずにたくましく生きていく、それが自分たちの本来の姿なのかもしれない、そう
も感じます。
今現在、自分たちの住まうこの国をはじめ、様々に混迷を深めておる世界です。
少しでも多くの人々が互いに笑い会える、そのような世界が来ることを願う思いです。


本日もこのブログにお付き合い頂きまして、本当に有難うございます。
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ある物語ある その三

2017-07-30 22:15:04 | ある物語
こんばんは。
暑いです;。
これしか言えない。
と弱音を吐いていてはいけませんね、この暑い最中でも外で頑張っておられる方も大勢おられるはずですので。
どうぞ、体調管理にはくれぐれもお気をつけ下さいね。
そんな今日は、このような感じ。
やはり雲がかかっております。

                               

最近、やれしんどいだのなんだの、と申しておりますが、どうも眼精疲労があるみたいでして;。
もともと遠視なので、近くを見るのは疲れるとは先だっても書いておりましたが、その上で老眼も重なり、これまたどうにも左右の視力が違うせいか
左目の奥が痛く、加えて頭も凝って相当に辛い感じです。
早いこと、自分に合わせて老眼鏡、新調せねばと思っております;。

と、そんなどうでもいい話は置いといて。

昨日すっぽかしてしまいました物語の続きを書いていこうと思います。
待って下さっておられる方がいらっしゃったのでしたら、本当にお待たせしております。

「48色の夢のクレヨン」
続けます。

                               

クリスマスの日、アメリカの民間団体から沢山の贈り物が届けられました。
先生方が朝早くから自転車に積み、五つの箱が学校へやってきました。
最初の箱には、どこも破れていない子供用の洋服が入っており、男の子用なのに赤いサスペンダーのついたズボンとか、女の子用には白と水色の
水玉模様のワンピースに、ピンクのリボンが胸や裾についた、お姫様がきるようなドレスもありました。
その他にも三足ほどの革靴が入っており、くじ引きでその一足を花子は引き当てたのでした。
二番目の箱には、歯ブラシや歯磨き粉や石鹸、それにきれいな色のビー玉が入っていました。
その歯磨き粉を使って、それからは毎日、授業が始まる前に歯磨きをすることにしました。
水でうがいをするのですが、それを吐き出すのはもったいない気がしたけれど、先生がうがいした後の水にはばい菌がいっぱいいるといわれたので
花子は必ず出すようにしました。
みんなに二つずつもらったガラスのビー玉を花子は宝物の一つとして空き缶にいれて大事にしました。
後で聞くと、ビー玉を飴と間違えて飲み込み、のどに詰まらせて死にそうになった子がよその学校にいたと先生に聞きました。
よほどおなかがすいていたんだろうなと思いました。  
三つ目の箱からは、太くて黄色い干しうどん(パスタのこと)白い砂糖、塩、干し豆、粉ミルクが出てきました。
田舎では牛からしぼったものしか飲んだことがなかった花子は不思議に思いましたが、これは水に溶かして飲むミルクだと先生が教えてください
ました。           
みんなで水筒の水に溶かして飲んでみましたが、とてもまずくて、こんなものを飲んでいるアメリカの子供たちがかわいそうだと思えたのでした。
黄色い干しうどんは、茹でて食べるんだとも教えてもらいました。
四番目の箱は、とても頑丈にできており、中にはいろんな薬や包帯、ヨードチンキなどの医療器具が入っていました。
たまたまお腹がいたくなった子がいて、先生はその子に薬を飲まそうとしましたが、最初、そんな硬くて白いもの(錠剤)を飲んだことがなかった
ので、砕いて飲ませました。
苦いのかなと思い、花子は尋ねると、みかんみたいな味がしたというので、クラスのみんなは急に自分もお腹が痛いといって、その薬を欲しがり
ました。
こんな沢山の薬をみて、戦争中にこの薬があったなら、多くの人が助かったろうにと花子は考え、亡くなった父や友達の顔を思い浮かべるのでした。
五番目の一番大きな横長の箱は、よほど前に送られたのか、ずいぶん傷んでいました。
最後となったその箱を先生はわざとゆっくり開けました。
中には、色んな勉強道具が入っていました。
束になった真っ白な画用紙が入っており、その匂いが教室に漂うと、思わずいいにおい、と誰かが声を出し、みなして深呼吸をしてそのに匂いを
胸いっぱいに吸い込みました。              
見たこともない沢山の色のクレヨンとクレパス、それに水彩絵の具がありました。
そのような文房具を目を輝かせて眺めながら、お尻に小さい消しゴムのついた鉛筆はくじ引きで六年生だけがもらい、あとのクレヨンとかは下
級生全員で共有し、図工の時間に使うことになりました。
最後に先生が取り出したのは、英語で書かれた手紙の束でした。
その中の二通を広げて見せて下さいました。
一通目は、クレヨンできれいなお花と家の絵が描かれていました。
二通目のには、大きな木と鳥が描かれており、そのどちらもがアメリカの小学四年生の男の子と女の子からのものでした。
英語で少し添えられているメッセージは、「アメリカからの贈り物が気にってもらえることを祈っています」と書かれていますと、英語の読める
先生が説明して下さいました。     
横長の箱には、最後に思いがけないものが入れてありました。
これはすごいぞ、と言って先生が取り出したのは野球のボール、それにミットやバット、野球帽が入っていたのでした。
男の子たちは喜び勇んで、悲鳴のような声を上げていました。
このクリスマスの日を今でもはっきり覚えているのは、これほど鮮やかな色の洋服や香りのよい画用紙、クレヨンや鉛筆など外国からの贈り物を
見たことがなかったからでした。
それまでの自分たちは、授業に使うものが殆ど無く、いつも何もかもがもったいないできていました。
これほどのきれいな色のクレヨンはぜいたく品で、学校で使うことはまずなかったからでした。
そして長い間、街全体が焼け野原で残骸を焼く臭い匂いの中で生活していた花子たちは、アメリカからきたこれらの贈り物の新鮮な良い匂いに
敏感になっていたのかもしれません。


                                  

物語は後もう少し続き、48色のクレヨンの意味もお分かり頂けるのですけれど、もう少し続けさせて下さい。
かなり要約させて頂きながら書いておりますが、やはりかなり無い頭を絞るように感じております。
拙い脳みそで、どのように書かせて頂けばよいものか、難しいものだなと感じるばかりです。


                                


このようなブログへのお付き合い、いつも本当に有難うございます。
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車窓から

2017-07-29 21:42:13 | 車窓から
こんばんは。
夏らしくないような天候が続いているこの辺りです。
そういえば夜空、星空を最近眺めていないように感じます。
月も見ていないですね。
それだけ曇り空が多いということみたいです。
ということで、今朝はこんな感じ。
一枚目は午前五時頃、二枚目は七時前、まぁどちらもぼんやりしたお天気には変わりありませんね。

                                 

                                   

昨日まで「49色の夢のクレヨン」の物語をほぼ順を追ってご紹介してきております。
引き続き三回目を、と考えていたのですが、またもやすみません;、今日は御祓いに出向かせて頂き、帰ってきたのが19時半頃。
いささか疲れてしまいました。
申したようにこの物語を此処で書かせて頂くという作業が、思っていた以上に大変という気がしております。
要約云々というよりも、この物語自体が此方へ訴えてくるものが人知れずあるのかもしれません。
やはりご紹介するのであるならば、自分自身が気合を入れて、事に当たりたいと思います。
ですので、日を改めてきちんとお伝えさせて頂ければと思います。
言い訳がましいのですけれど、本当にすみません。

 
                                  


そんな仕事帰りの車窓から撮った写真を何枚かあげさせて頂きます。
これは西区の己斐(こい)辺り、もちろん信号待ちで撮っておりますよ。
現在は大田川放水路として整備された子の川は、先ほどのように信号待ちをしていると満潮になる頃には水中にいるボラが身を躍らせて跳ねる
姿があちこちで見受けられます。
河口からさほど遠くないので満潮時にはこの辺り位まで、もしかすると汽水域になるのかもしれません。
その魚をねらう鷺などの水鳥もそこかしこに佇んでおります。
冬になると渡ってきた鴨などが何羽かかたまって泳いでいたり、たまにどぼんと水に潜り、魚を捕まえたりする様子も見て取れます。
今でこそ、そんな平和な川の光景ですが、この辺りも八月のあの日にはおそらく水を求めて大勢の人がこの辺りへ押し寄せたのかもしれません。

                                
                                 

此方はその放水路の土手沿いの道から。
夕日が見えるかと思いましたけれど、この後位からポツリと来出して次第にポチポツからザァーッの本降りへとなったのでした。
こんなゲリラ雷雨も、最近は増えているような感じますね。

                                 

                                 

やがてそんな雨も上がり、車を下りたところで見えた、これは東側の空。
西の陽に照らされて、上空の雲が赤く色づいていたようでした。
これが本当の雲だからこそ、綺麗だなと素直に思えるのだろうな、とこれもまた感じた次第です。                               

そんなこんなの写真を上げることで、どうにもお茶を濁した感満載;の今日のブログ、いつにもまして申し訳御座いません;。
英気を養い、明日はまたしっかりと書かせて頂きたいと思います。
  

本日もそんなブログへのお付き合い、本当にありがとうございました。

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ある物語 その二

2017-07-28 21:54:45 | ある物語
こんばんは。
このところ、太平洋上に台風が居る?せいか、蒸し暑さが半端なく感じられます。
午後から出掛けて戻ってくると、バスを下りて歩く最中は雨が降ったのか多少の涼しさは感じられましたが、室内は30度をはるかに越えて
おります;。
この家自体がおそらく西日を浴びてか?相当に熱くなっているのもあるんでしょうね。
扇風機を回しても、なんだか暖房をつけているみたいで、このままだと本当に熱中症になってしまいそうです;。
今からでもエアコン設置をこの部屋にも考えないといけませんね。
そんな日の朝は、これまた曇り空。
今夏はこんなお天気が続くのでしょうか。


                                   

昨日、「48色の夢のクレヨン」という物語をご紹介する途中で終わっておりました。
今日はその続きを書かせて頂きます。

やがて花子らが通う学校の校庭にあったごみも少しずつ片付けられてちいさな広場ができていました。
その場所で戦後初めてとなる運動会が行われるからです。
運動靴がほしくても、高価なものをおばにねだることなどできないと感じている彼女の心中は、当然おば自身もよくわかっており、ならばと古い
服の切れ端で編んだ色んな色の混ざったおしゃれな草履を作ってくれ、これで一等をとりんさい、と励ましてくれました。
花子自身も、この草履が好きだよ!と元気に返事をし外へ飛び出して行きます。
そんな声を聞きつつ、普段はぐちや悪口など決していわないおばが
「戦争は絶対に二度としたらいけん。戦争でだれも幸せにはならんのじゃけん」
とつぶやくのでした。
運動会の当日、子供らの中には、新しい運動靴を履いてくる子も当然います。
そんな足元を花子はまぶしい思いで見つめがら、耳では教頭先生の話す話を聞きつつも、来賓のおられるテントの中に用意された鉛筆やノート、
消しゴム、絵本やきれいな鼻緒のついた草履など、一等賞の賞品を目の当たりにし、頑張ろうと気持ちを奮い立たせます。
リレーをするためのバトンも数少なく、ならばと子供らはそのバトン代わりにと朝からコスモスの花を摘んでバケツに入れておりました。
七十年は草木も生えないといわれていた広島の地に白い花を咲かせていたそのコスモスを、おばちゃんは奇跡じゃ、不死身の花じゃと言ってたよと
花子はみなに伝え、その花を見ながら、これは死んだ家族や友達の魂が花になって戻ってきたんだと皆して喜んでいました。
このことをきっかけにして、誰ともなくコスモスの花をバトン代わりにして走ろうと言い出し、リレーをすることにしました。
声援する大人たちも笑顔にあふれ、皆が大声を上げて、楽しくて、嬉しくて、幸せな気持ちで笑っていたのでした。

そのうち花子は風邪をこじらせ気管支炎となり学校を休みます。
当時は高価であったバナナを病気に効くからとおばが無理をして買い求め、それを食べた花子はなんとか元気を取り戻し、学校へ通いだしますが
クラスでは彼女は被爆者だといって、放射能の病気は人に移るとか、子供に遺伝するなどといっていじめを受けます。
広島の人たちは、被爆した人とそうでない人の二つに分かれていた頃でした。
そのような噂をされていることをおばに話すと、おばは教頭先生に相談に行き、先生は原子爆弾や放射能、被爆者のことについて子供らに丁寧に
説明して下さいました。
決して人に移るものなどではなく、被爆者の方たちはこの戦争の中で最も被害を受けたのだから、労わってあげなくてはいけない、と皆に諭した
のでした。
その後は花子は被爆者だといううわさはなくなり、それまでどおりに楽しく通学するようになりました。

                                 


此処まで物語をかい摘みながらご紹介してきております。
最後まで書かせて頂こうとキーを叩いておるのですけれど、どうしてか自分自身がたいそう疲れてしまいます。
何故でしょうね、どうにもそれこそ元気が出てきません;。
こうなったら、最後までを少しづつでも丁寧に綴らせて頂こうかと存じます。
もし、このような形であったとしても心待ちにして下さっておられる方がおられましたらば、本当に申し訳御座いません。
しっかりとお伝えさせて頂きますので、もうしばらくお付き合い下さいませ。
                                 
                                 
                                 

文中にも出てきました、放射能や被爆者に対するいじめ、偏見、これらは後々まで根強く残っておりました。
それでも、やはりそれらとは反対に子供らは分け隔てなく、お互いに楽しく過ごしていたともうかがっております。
そんな時代を生きた子供たちの物語です。
脚色というよりも、様々な方々の話を花子とおばの目を通してみた形で語られております。
自分がその時代にその場に居たわけではありませんが、そうであったのだろうなと感じられます。
そのような時代の空気をご一緒に感じたれたらば、と思います。



いつもながらの拙いブログへのお付き合い、本当に有難うございます。
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ある物語

2017-07-27 22:33:56 | ある物語
こんばんは。
日々、暑いの連続ですけれど、今日はムシムシ感はかなり軽減され、その分これまでよりも過ごしやすく思われました。
もっとも、暑いことには変わりなくやはり夏、ではあります。
そんな朝は此方。
薄雲はありましたが、しばらくぶりで青空が広がっておりました。

                                 

昨夜夜遅くまで、ある本を読んでおりました。
気づくと一時半を過ぎており、おっとこれはいけない、と頭元のスタンドの灯りを消したのですけれど。
市販されておる物ではなく、おそらくごく限られた方々へのものかと思うのですが。
この本は、信者さんのご主人が此方の小学校へ通われていたことから、そのような方々へ配布されたものなのではと思うのですけれど、詳しくは
存じません、申し訳ございません。
いつぞや、此方のお宅に御祓いに参らせて頂いたおりの事、いつも奥様とお話させて頂くのですけれど、その時どこであったか、部屋の一隅に置かれて
あったその本に目がいき、手に取りパラパラとめくっておりますと
「宜しかったら、お持ちください。実在のお子さんのことではないですけれど、皆さんの当時の話を元に書かれたらしいですよ」
とおっしゃり、何冊か積まれてあった本の中から一冊を頂戴して帰ったのでした。
それは広島市の本川小学校に通う、ある女の子の視点から書かれた原爆の記憶の本です。

                                 

「48色の夢のクレヨン」と題されたその本は、当時6歳であった花子という女の子が主人公で原爆投下の一日前、日常の何気ない風景の中で
自分の敬愛する姉と楽しい会話をしているところから物語が始まります。
何も変わらないごく普通の生活、とはいえ戦中のこととて、花子は次の日から広島から遠く離れた地へ疎開に行くのですが、その前日に自宅の
庭に咲いた蓮の花を愛でたり、トンボが卵を産み付けるところを偶然発見したりしながら束の間を楽しむ光景が描かれています。
そんな、ともすれば平和ともいえる原風景は、次の日の広島への新型爆弾投下により一瞬にして破壊されてしまいます。
遠くの疎開先からでさえ、きのこ雲といわれたあの忌まわしい黒く毒々しい雲は見え、まるで地震が起こったかのような地響きまでしたといいます。
その後、まもなくしてそのような広島の地から逃げ延びてきた人々が、まるで幽霊のような姿であったり、その人々の放つ異臭にも花子は尋常なら
ざるものを、その目に焼き着付けることになります。
自分たちの家族は無事でいるのか、そんな心配を胸に父の妹であるおばと共に数日後に市内へ入るのですが、そこでは自分の知っていた広島の町とは
到底思えない凄まじいばかりの光景が広がっているのでした。
景色はおろか、そこへ居る人は今この瞬間、声を発していたと思うと、一口水を口に含んでそのまま息絶えることも少なくないような状況でした。
花子を通してみたそれらの光景は、とても自分の思っていた場所などではなく、黒こげになった馬や木や、焦げたような変な臭いの漂う黒一色の
世界だったようです。
結局は、彼女の父は少し前に疎開先に近い病院まで戻れたものの、酷い火傷により人相も変わるほどになっており、最後は書かれておりませんが
おそらく長い命ではなかったのでしょう。
その父が連れて帰ったという母は、白い箱の中に焼けてグニャリと曲がった眼鏡が入っているきりだったのでした。
それでも、どうしてもあきらめきれない花子は、先のようにおばと二人市内へ入り、この世のものとは思えない光景を目の当たりにしたのです。
二人で広島まで戻り、結果的には花子の家があった場所にはなにもなくなっており、おば自身もその当時身重であったため、一度田舎へ戻り、
なんとか出産はしたものの、赤ん坊は生まれてしばらくして肺炎に罹り、あっけなく死んでしまいます。
おば自身も、それまでに出征した息子を二人とも亡くしてしまい、自分の夫も入市後、わからなくなったのか、身内が互いに居なくなってしまった
花子とおばは今一度広島へ戻り、二人で暮らすことになります。
戦後は、誰しもそうであったように、原爆で焼けて何も無くなった広島の街では親も居ない子もおり、そのような子らは孤児院へ送られたり、それ
までの幸せな生活とは一変してしまう人生を歩む者も少なくなかったのでした。
花子自身は、二人きりの生活の中で、自分の身内を亡くしたことにより、朗らかで明るかった性格も笑顔さえ出ないほど変わってしまったおばに
最初はとまどいなからも、少しずつ自分を思ってくれていることに気づき、花子自身が明るくあろうとしていくようになります。
些細なことで笑い合える友達と再開された学校で出会い、辛い日常を子供なりの明るさで過ごしていくようになります。
綺麗なズックも買ってもらえないけれど、それより様々な境遇の子供たちと過ごすうちに、自分の方がまだましだと思ったり、戦争前と変わらぬ
家族と過ごせている友達のことを羨ましく考えたり、子供なりの感性で心の内に落とし込んでいくようでした。
そんな学校生活の中で、先生方は子供らに物がないなりに必死で勉強を教えてくれたり、近くの中学校からオルガンを肩に担いで借りてきたりして
出来る限りの授業をしてくれようと取り組んでいます。
窓にはガラスなどなく、打ち付ける風にはトタンを張って凌いでいたりしますが、やがて大人たちがお金を出し合って買ってくれたガラスを窓に
取り付け、久しぶりのその風景を楽しんだりするのでした。

                                   

物語の題名になっている48色のクレヨンは、この後出てくるわけですが、すみません、今日は此処までとさせて下さい。
このお話と共に、自分自身が祖母に聞いた事や、知り合いの方にうかがった話などを交えてまた書かせて頂ければと思います。

                               

恥ずかしながら、最近、すっと立ち上がるとクラッとして立ちくらみを起こします;;。
どうやら貧血みたいなのですけれど;。
つい先だっては太極拳しまーす、なんぞと威勢のいいことを申しておったのですが、ここ二、三日少し歩くだけでやけに疲れるなぁ、と感じて
おると、立ちくらみを覚えるようになり、う~む、イカンぞこれは;、と思っておるところです。
貧血になる要素は、はっきり言って更年期の今、排除されているようなものなのですけれど;。
あと考えられるのは、単なる栄養失調;くらいですかね。
息子がいなくなり、自分だけとなると、どうやらこのオバサン、手抜きを覚えたらしく(自分のことでっせ;)あまりまともな食生活をしておら
ないのかも、と自分に思ったりしております。
なんにせよ、一度病院行った方がよさそうですね。



中途半端に終わってしまいましたけれど、続きはしっかり書かせて頂きたく思います。
このようなブログへのお付き合い、本日も有難うございました。



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