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日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

エネルギーの違い?

2017-07-01 23:23:05 | ものの見方 考え方
こんばんは。
いやぁ、暑かったです、今日は。
一昨日、凄まじいほどの雷雨でしたが、それが過ぎると途端に今日はムシムシと暑くなり気温も急上昇。
昨日も暑かったですけれど、それとは比較になりませんでした。
このあたりは、これで梅雨も明けたのでは、と思えるくらいです。
とはいえ、日本の各地では今日かなりの雨量であった地域もあるようですし、全国的にどうとはいえない感じですね。
朝は、まだこのような感じでした。

                              

朝、トイレ掃除をしながら、ふとまた考えていたのですけれど。

食べるものは、皆さんそれぞれに好みも違いますね、当然です。
お肉の好きな方もおられるし、いやいや菜食主義ですとおっしゃる方もおられるでしょう。
そのどちらも、食べるときには一度自分の口に入れ、咀嚼して胃へと運ばれます。
そこで様々な消化液が出てきて分解され、それがまた小腸へと運ばれて、そこから吸収され、自分達の身体の一部となる。
あらましを言えば、そのようなところかと思います。
一体何を言いたいんだ?と思われるでしょうね。
食べるものは、口に入る前は、植物性であれ動物性であれ、それら固有の形をしています。
ですけれど、それを自分の体内に取り込み、もう一度自分の身体の一部にするには、アミノ酸という形にまでは分解しなければ、自分の身体として
再生?できないということですね。
(もちろん、アミノ酸だけではありませんが、今回はアミノ酸に話を絞って書かせて下さい)
蛋白質はご存知のようにアミノ酸からできていますね。
ですから、まずは元の食べ物をまずはそのアミノ酸という形にまで戻してやらなければ、自分の身体の中では蛋白質は生成できませんよ、という
ことですね。
そのアミノ酸の元となる蛋白質を多く含むものが肉なので、筋肉をつけたければ、お肉を食べなさいということになるのだと思います。
それはよくわかります。
野菜を食べたとしても、同じ量の蛋白質を得るのは、相当大量に摂取したとて、とても追いつかないでしょう。

                                

ですけれど、そのお肉に関していうならば、殊に牛はそれ自身、草を食べる動物です。
肉を食べて大きくなっているわけではありません。
草を大量に食べて四つあるという胃で反芻しながら摂取するといわれています。
それでも、牛はあのように身体も大きくなり、育て方によれば肉牛としてかなり美味しいといわれるほどの飼育もされております。
肉牛として飼育される牛の中には、その途中でビールを飲まされたり、あまり運動をさせずに筋肉の中に脂肪を蓄えさせるようにして人間にとって
美味しく食べられるように育てられる牛もいるようです。
そのようにして大きくなった牛を、自分達人間は、その肉を美味しいといって口にします。
そうして食べたものは、先にも書いたように、食べるという行為により身体の中に取り込まれ、もう一度自分の身体に適するように分解され
やがて自分自身の身体の一部となります。
この時は、元の牛という形は、どこにもありません。
一度、牛というものをアミノ酸という形にリセットしたからですね。
元の牛「成分」の片鱗もなくなっているのでしょうか。

元々、牛は大人しい動物ですし、知る限りにおいては、のんびりと草を食む様子しか思い浮かびません。
そのような牛なのに、食べると何故元気が出てくるのか、上で述べたように自分と似た組成?のアミノ酸を比較的素早く体内に取り入れることが
出来るからなのでしょうか。


                                

一方で、野菜などの植物は、それ自身が成長する時には土の中から水分と共に微量のミネラル等を吸い上げ、太陽の光を浴びて光合成を
行い、水と空気中の二酸化炭素から炭水化物を作り出しているとされています。
他者が持っていたものを自身の中で一度分解して再構成するのではなく、既にあるものを用いて自身を一から作り上げているようなことなの
ではと思います。
別の言い方をするならば、他者の生命を取り入れることで自身を成り立たせているのではなく、無機物や有機物を取り入れ、そこに太陽の光も
取り入れ、自身を作っていく、もっと簡単に言えば無から有を作っているようなものなのでしょうか。
(食虫植物等の特殊なものは除いての話とさせて下さい)
自分達人間が他者そのものを取り入れることで自分を構成していうのとは大きな差、違いがあるようです。
いわば他者を傷つけることなく、自身を作るあげているといえるのかもしれません
自分達が未だに作り上げることが出来ていない精妙な方法で自身そのものをを既に作ることが出来ている、成功している、地球上での生物といえ
るのかもしれません。

                                


このように考えてくると、動物等、自分に近しいものを口にするということは、よく言われるようにそれらの命を頂戴しておることに他なりません。
それは植物を摂取する時も同じではありますが。
ですが、動物の場合、それらが生きていた時の記憶の断片も、もしかすると同時に自分の体内に取り入れるような、そんなような気持ちがどこか
にあります。                          
記憶の断片というと生々しく聞こえるかもしれませんが、生きていた時のそれら動物の持っていたエネルギーを再構成して頂戴しているわけですから、より自分達の持つ生体のエネルギー、もっといえば波動に近いのではと思うのです。
言い換えれば、自分達に近しいからこそ、より多くのエネルギーを摂取できるといえるのかもしれませんけれど。

しかし、それはやはり述べたように、植物が用いている精妙な方法とは違いますので、エネルギーの持つ質自体もかなり違うのではと思います。
自分達に近い、動物のそれは近しい分だけパワーもあり、早く力として発揮できるように感じます。
ですけれど、同じようなエネルギーの質なだけに、そこの域内で物事をするのには適していたとしても、次の段階というのか別の次元の部分に
到達するのは、少し難しくなってくるのでは、と感じたりもします。


此処の部分をもう少し自分なりに考えてみたいのですが、時間もかなり遅くなってきたようです。
明日、もう一度頭を捻りながら考えさせて頂きたいと思います。
中途半端になりまして、申し訳ございません。
(夕方から書き始めて、此処までが精一杯でした、頭の無さを痛感しとります;;)


                                      
                       
                                
今日もこの拙いブログへのお付き合い、有難うございます。
感謝申し上げます。


ご相談等、承っております。
 
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誰が主役?

2017-06-28 21:41:21 | ものの見方 考え方
こんばんは。
一日曇ってはいましたが、結局降ることはないまま暮れました。
雨量の多い地域の方は大変かと思います。
どうにもうまく平均して降ってくれることがないみたいですね。
朝もこんな感じでしたよ。

                             

そんなに降らないといいつつも、湿気はあるのでしょうね、夕方散歩に出ると、こんな感じのきのこが生えてたり。
初めて見ましたが、絶対食べるのは無理、そういう感じです。
よしんば、食べられたとしても遠慮しときたいところです。
 
                            

この食べられるかどうか、はしかし考えてみると自分達、人の側からみたものであり、向こうからすると人間に食べられようがどうしようが
関係ないことですね。
きのこというのか、その菌類にしてみれば、その生物の生育環境が良かったから、こうして大きくなってきたのでしょうし、見てほしくてそこに
生えてきたわけでもないでしょう。
ましてや食べてもらおうなどとは、考えて?ないでしょうし。

そう考えると、これはほかの事全てにも当てはまることではないのかな、と思います。

今日本に外来生物が多く入って来ており、そのことで自分達の環境にも大きな影響を与えるとされて問題になっています。
植物然り動物然り、つい最近ではヒアリという南米原産の毒性の強い蟻が、中国から輸入されたコンテナに紛れ込んでいたのか、日本にも
上陸したということで大変な事態となっていますね。
元々はごく限られた地域にしか生息していなかったであろうそれらの生物も、人間がこの地球上をあちこちに移動し物を移動させることによって
否応なしに連れてこられたという見方も出来るのでは、とも思います。
確かに彼らは毒性も強いものがあったり、日本に本来生息している種と比べるとかなり手ごわい相手だといえるのでしょうね。
ですけれど、今のように物もあちこちから輸入したり、或いは輸出したりすることが当然な社会では、これは防ぎようのないことなのかもしれない
とも思います。

                                                            

そう考えると、これらのこと全ては元々は自分達人間がして来ている事とも言えるのではと思います。
あの蟻はいけないとかこの植物は害があるとか、これら全ては人間の側がしたこと、或いは考えたことが原因で、元々のその生物は、そのように
進化してきただけなのかもしれません。
物事を考えるときには、まず自分達や身近なところを中心にして考えていくのは当然かもしれません。
自分達に害をなすと思うものを、除外していこうとするのはごく自然な考え方かもしれません。
ですけれど、この地球上には、自分達人間以外にも様々な生物がいるのは、これもまた大きな事実でもあります。
そうならば全てを自分達人間の思うように出来ていく、していけると考えるのは、もしかすると途轍もない間違いをしているのでは、とも
思います。

土の中にさえ、微生物が住んでいるといわれています。
そこを人間は、開発という名の下にブルドーザーで容赦もなく掘り返していきます。
或いは、有用、有効といわれる金属やレアメタル、はたまた女性の好む宝石の原材料となる石等も掘り起こされています。
これら全て、自分達人間に使用する為だけにそうされています。
とはいえ、それらが今なされているからこそ、自分達はその恩恵に浴していることも否めない事実でもあります。
ですけれど、どこまでを自分達人間が手を入れていけるのか、或いはさせてもらえるのか、そろそろ考えても良い頃なのでは、とも思います。

                            


いつにも増しての上から目線?な物言いとなっておりましたらば、すみません;。
自分でも時々、何でこんなこと書いてんだ?と思いながら文章を捻り出していることがあります。
今日もそんなことを感じつつ、出てきたブログとなりました。
生意気に感じられましたらば、申し訳御座いません。

そういうブログへのお付き合い、皆様本当に有難うございます。
感謝申し上げます。



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人知れず

2017-06-27 21:22:03 | ものの見方 考え方
こんばんは。
今日から雨降りますと聞いて、少し期待していましたが日中は陽射しもあり、暑く感じられました。
今は曇っていますが、さてどうなんでしょうね。
朝日もぼんやりだったのですけれど。

                                

今日、またいつものように上の住宅団地の方まで散歩しておりますと、以前ここへも書きました池の辺りである一人の女性と会いました。
池というよりも、そこは貯水池というのか上の団地と関係ある浄水を兼ねたようなため池という方が良いのかもしれません。
その池には鯉が何匹か泳いでいます。
いつの頃からそこへ放されたものやら、誰かが意図的にそこへ入れたのやら、全く存じないのですけれど、結構な年数が経っているのでしょうね
上から見ても、30センチはあるような鯉が泳いでいるのが見えます。
池の周りは柵がしてあり、中には入れません。
池自体、人工のものですので、その中に鯉のえさとなるようなものが居るとも思えません。
そのような池の近くで、先ほどの女性は高く伸びた草を持参されていたカッターで切るというか、刈っておられました。
どうしてされておられるんですか、とうかがうと、この池にいる鯉に毎日餌をやりに来て、ついでにこうして伸び放題の草も刈ってるんですよ
と話して下さいました。
この池の近くと通るたびに、この鯉たちはどうやって餌を調達してるんだろう、と疑問に思っていましたが、この女性のように誰かが此処を
訪れては、このように餌をやっているんだということが判明しました。
誰が最初に此処へ鯉を放したのやら、全く分からないけれど、誰かが必ず目を掛けているんだなということが分かり、安心しました。
自分もやりにくれば一番いいのでしょうけれど、歩きに出るときには全くその事を覚えていないばか者故、どうにもなりませんね。
誰にも知られず、このように草を刈ったり餌を上げたり、善意は人知れずともあるものなんだと感じさせて頂けた出来事でした。

                               

こう考えると、誰も知らずともこうした方が気持ちいいからとすることが、結局は周りの為になり、そうすることで気持ちよさも広がり
それがまた次の気持ちよいことに繋がっていくのでは、とも思います。
誰かが、一つでもゴミを捨てると、それがいつの間にか悪い循環になり、余計に汚れていくという、悪いループになることもあります。
それを、誰かがいうからではなく、自分が気持ちよいと感じるから始めてみるというのは、最初は受け入れられずとも、それが次第に周りを
巻き込んで広がっていくということもあるようですね。

実際に、そのようにして相当に汚れていたといわれる新宿駅東口の掃除をたった一人で始めた荒川祐二さんという方が著わした「半ケツとゴミ拾い」
という書物を読んだことがあります。
初めはだめな自分を変えたいとの思いだけで、何もわからぬままに、毎朝同じ時間に駅へ行き、落ちたゴミを一つ一つ拾っていったそうです。
場所柄なのか、その辺りはヤクザなオニイサンや、表題になっている半分オケツの見えているようなホームレスのおじさんやらが、はじめのうち
こそは白い目で見ていたような人々がいつの間にか彼とともに掃除をし始め、汚れているのが当たり前だったその駅周辺が次第に綺麗になって
いったというものです。

自分はこの著書を読むまで全く存じませんでしたが、当時はこのことは相当な反響を呼んだようで、マスコミに取り上げられたり官邸にまで
彼は足を運んだりしたようです(だったと思います、もし間違っていたらごめんなさい;)
そこの部分は、しかし、付け足しのようなものとも思います。
取り上げられたかったからするのではなく、していたら、たまたまそうなったということだと思います。

人に良く見てもらおうとして、或いは目立とうとして事をするのなら、芸を見せる人の方が妥当だと思います。(あくまで自分の意見ですけれど)

人に知られるとかどうとか、そんなことは全く考えもせずに自分が気持ちよくなれることだからと始めることは、誰にも知られずともどこかで
何か良い結果を生むのでは、と思います。
これを日本では昔から陰徳を積むという言葉で表していますね。
ですが、そのように陰徳云々などとも思わずに、いつの間にかそうしている自分であれたなら、とも感じます。
出来ていない自分だからこそ、尚のことそう思うのですけれど。

                               


今日も、さて何書かせて頂こうか、と思いつつ、書いてみるとこのようなことを綴らせて頂いておりました。
口幅ったい文章にて申し訳ございません。

そんなブログに本日もお付き合い頂きまして、ありがとうございました。
感謝申し上げます。




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やっぱり笑おう

2017-06-22 21:31:45 | ものの見方 考え方
こんばんは。
昨日はやっと梅雨らしい天気かと期待しましたが、今日はやはり夕方には晴れてきました。
もう少し降ってほしいところですが、これまでに雨で大変であられた地域の方を思うとあまりそればかりもいえないのかもしれません。
そんな日の朝のお天気は、此方。
この時はまだ曇りがちで、はっきりしない感じでした。

                               

そんな風に、お天気がよくないとどうやら自分は気持ちも落ち込むことが多いようです。
うつうつするというのでしょうか。
雨は降らないといけないと思いつつも、テンションが下がります。
そうしてお天気が回復してきだすと、気持ちもこれまただんだんと晴れやかになってきて、なんでも出来るぞ、と思いだすんですね。
これは気圧の変化がそうさせるらしく、具合の悪い方は顕著に出ることもあるらしいです。
うちで主人を介護しておった時も、下り坂ですとどうにもしんどいようで、自宅ではずっとベッド上での生活でしたが、身体を起こすのすら
たいぎな様子でした。

気持ちの持ちようでどのようにも出来るともいいますが、そうでないこともあるのかもしれませんね。

                              

と、そんな、なんだかな、な話題ですけれど、このところワクワクするようなことが出来ていないというのか、気持ちが弾むようなことに
自分自身がなっていないからかもしれません。
笑おう、といいながら、なかなか笑えていない自分がおりまして;。
一人でいるというのは、こういう時に不便ですね。
息子でもおれば、まだケンカしつつも話し相手にはなるのですけれど。

                              

夕方いつもの如く散歩していると、景色を見ながら、また空を見上げながら歩くので、その分気分も晴れやかになります。
そうしながら自分の気持ちを自分で覗くようにしてみると、うつうつしているのはまるで澱が沈殿しているようなものなのかな、と。
沈んだ澱は普段は気づくことはないけれど、ふとした拍子に上に舞い上がり、それまで澄んでいた上澄の部分まで濁らせてしまうのでは
ないのか、とも思いました。
普通は、その上澄部分だけで物事を考えているけれど、暗く落ち込んだ時には、望むつもりは無くとも、下に留まっている澱のような部分を
自分が拾い上げてくるのではないのかしら、と。
そうならば、濁らせてしまう元になるその部分、澱そのものを取り除くことが大事なのかも知れない、そんな風なことを考えながら歩いて
いました。

ふと見ると、自分の目線の上に建つ住宅から一人の小学生の男の子が顔を覗かせています。
彼は、いつぞやそのお宅から自分が歩いていた道路に向かい、やみくもに棒切れを投げていたことがあり、それを見つけた自分がつい大きな声で
「こらっ!そんなの投げてて下に居る人や車に当たったら危ないよ!」
と注意していた男の子でした。
その時、男の子は素直に
「ごめんなさい」
と謝ったので
「もう、しないんだよ」
といい、その投げてきた棒切れだかを彼に向かい、投げ返したことがありました。
まだ小学生ということもあり、とても素直な子だなとその時は思っておりましたが、その後はまた顔を見ることもありませんでした。
今日はたまたま、その彼が下を通る自分を見つけ、どちらからともなく
「こんにちは」
と声を掛け合っていました。
にっこり笑う彼の顔を見るとそれだけで、その時までウツウツと物事を考えていたことなどすっかりどこかへ忘れてしまったようで、なんとも
爽やかな気分になり家路に着いたのでした。

                                

なんとも単純な人間でして、そんなちょっとしたことで気持ちも晴れやかになり、夕暮れ近くの空には、その夕日に照らされてうっすらと彩雲も
出ておりました。 
その雲を撮ろうと空を見上げると、一瞬別の雲が虹色に染まり、あ、またアーク?!と、こちらは思う間も無く消えたしまったのですけれど。

ウツウツしたところを敢えて覗くのではなく、やはりニコニコしていた方がいいんだよ、とその時また教えてもらったような気がしたのでした。
気持ちがそのまま反映したかのような空の様子を見ながら、いつにも増して、単純な自分はそう思えた今日でした。

                                

しんどいことを考えていると、余計にそのしんどいことがやってくるといいます。
ならば心配するよりも、面白いことばかりを考えていたほうが、結果的にはそのような事柄が多く引き寄せられるのかもしれません。
きっかけがないならば、なんでもいいから無理してでも笑っとけとは生前の主人の口癖でした。
口癖というよりも、口からついて出てくる言葉は、いつも如何にしたら目の前の人を笑わせられるか、という大阪人気質そのものでしたけれど。

                                

どうやら、そんな簡単な家訓?も最近忘れておったようですね;。
アカーン!です。
笑える種を見つけて、日々笑いを更新したいと思います。

こんな感じの今日のブログ、変わらずお付き合い頂きまして、有難うございました。


                               

       

                       
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カラスと鳶

2017-06-21 20:47:51 | ものの見方 考え方
こんばんは。
昨夜は多少雨がありましたが、今朝にはほとんど止んでいた状況でした。
ところによっては危険ともいえるような状態の地域もありますね。
被害がない事を願うばかりです。

                                

そんな今日でしたけれど、いつものように散歩に出かけると、これもまたいつものように上空にカラスや鳶が舞っていました。
毎日みたいに見かける彼らですが、どうしてだか何もしていない鳶に向かい、カラスは執拗に攻撃を仕掛けていました。
鳶が普通に電線に停まっているなのに、そこから追い出そうとばかりにカラスはちょっかいを出し、鳶が堪りかねてそこから飛び上がっても、
尚もその後を上空高くまで追い掛け回しています。
鳶がその場所から少し離れた場所に停まっても、今度はまた別のカラスが同様に追いかけ始めます。
どうみても一羽の鳶を大勢のカラスでからかいながら、意地悪く追い出そうとしてるようにしか見えません。
餌の関係?と考えてみても、鳶自身は上空から下に居る自分の獲物となる小動物のにおいを嗅ぎ取り、そこへ狙いを定めて取りに行く猛禽類と
聞いたことがあります。
片やカラスは、人間の出したゴミからでも漁るようにして蹴散らかしながらでも何でも食べる雑食性だと感じております。

それほど餌のことではお互いにテリトリーも被らないと思うのですが、どうしてなんでしょうね。

                                 

理由が無いのにもかかわらず、大勢でそのもの一羽を苛めるというのは、種類が違うからでしょうか。
普通は、猛禽類の鳶の方が多少なりとも身体も大きいのですから、カラスなどにからかわれる由縁もないはずだと思うのですけれど。

と此処でネットでググッてみると、あら自分の考えていたこととは違い、鳶自身もかなりの雑食性で、時にはカラスとの争いもあるとのこと。
そうなんでしたか、と納得しましたが、それにしても多勢に無勢、なんだかな、な思いではありますね。

お互い、餌を求めていることには変わりはないのでしょうから、そこで争いがあってもおかしくないということなのかもしれません。

空を眺めながら感じた事でした。

                                 
                                  

それでも、とつい考えてしまいます。
争うとはいっても、このカラスと鳶はとことんまでやり合うわけではないようです。
ちょっかいを出しはしますが、お互いにやり込めるところまではいっていないように感じます。
これが互いに一線を越えてしまうと、見ているこちら側もハラハラするようなことになってしまうのかもしれませんね。
小競り合いで済ませているのは、まだそこに一定のルールがあるのかもしれない、とも思います。

自然界でも事ほどさような、いわば苛めのような行為があるようですが、今は人間の世界の方が苛めは酷いのかもとも感じます。
はじめは相手をからかうようなものだったのが、次第にエスカレートしていって苛めではないほどの悲惨な状況に陥っていることも
少なくないのではと思います。
子供同士、或いは大人の社会の中、殊にこの頃は守るべき親の立場である者が自分の子供に手をかけてしまうような悲惨な出来事等、目を
覆うようなことも少なくないとも感じます。
相手を思いやるという心がどこかへ置き去りにされてしまい、自分だけの楽しみに焦点が当たっているからなのか、とも思うのですけれど。

                                  

この辺りは小学生の子供たちも多く、朝晩は学校の行きかえりに元気な声が響いています。
時にはふざけが過ぎたりして、たまにケンカしながら帰って来たりしています。
大抵は黙ってみておるのですけれど、あまりに度が過ぎるようですと、つい此方が声を出して注意してしまうこともあります。
向こうにしてみれば、コワいオバサンなのでしょうけれど、そのように叱る大人がいるというのもある意味では大事なことなのではとも
感じます。
周りに目が無いと、知らぬうちに先ほど申したような苛めの目がエスカレートして行くことに繋がるのではとも思うからです。
登下校時に見る子供らを多少たしなめたからといって、いじめがなくなるわけではありませんが、どこかで大人が見守っていてやれる
社会であるならば、とも感じます。
それでも、昨今はそれすら疑わざるを得ないような状況もあり、難しいといえるのもしれませんけれど、それでもどこかで暖かい目がある
社会であるように、と願う思いです。


                                  


カラスと鳶から自分でも思わぬ方向へ話が行きました。
これもまた纏まらない話の一つとなってしまいましたが、いいたい事は、互いが思いやれる関係がどこにおいてもあってほしいということです。

同じ世界に住むもの同士、出来ればいがみ合うことなく穏やかに過ごせていければなと思います。


いつにも増しての、なんでもない話に終始してしまいました。
そんなブログに今日も皆さん、お付き合い有難うございました。


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