日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

少しの違いで

2017-07-14 21:31:51 | ものの見方 考え方
こんばんは。
今日も暑い一日となりました。
朝の日も、久しぶりで雲のない空で見ることができました。
これからは、ますますこんな日が増えていくのでしょうね。

                                  

とはいえ、全国的に見ると今日は東海地方でかなりの豪雨となったようで、その映像をニュースで見ましたが、凄まじいほどの雨となっていた
ようです。
私事ですけれど、実は、息子が仕事でこの5月から岐阜へ行っており、どうであるのか心配しておるところです。
朝から何度か連絡はしておりますが、全く返信もなく、どうであるのか気になるところです。
このところ、九州での豪雨に続いて鹿児島での震度5の地震、またこの東海での豪雨など、なんとも気になることばかりが各地で相次ぎ、どうしたも
のなのかと思う次第。
明日からは、人によればカレンダー通りに3連休となり、この期間に何事もない様にと願うばかりです。

                                   

そんなことを考えていた今日ですけれど、全く別々の友人からちょっとしたアクシデントがあったと知らせが入りました。
幸い、それほど酷いことにはならなかったということで、ひとまず安心はしたのですが、これもまたどうしてだか、重なるときには重なるものなの
かしら、とつい考えてしまいました。
これは昨日話したように、どこかで何かが繋がっているからなのかな、とも感じたりしています。
出来るなら、悪い方向で重なるのではなく、よい方向で嬉しいと感じられることが重なれば、これもまたよく言われるように、シンクロしていると
いうことになるのにな、と思ったりしますけれど。

この良い、ということと良くない、あるいは悪いということはしかし、ほんの紙一重なのではとも思います。
ほんの少し、その時の時間がずれていたならばとか、わずかに場所が外れていたら、ということは結構あるのではと思います。
ですけれど、そのほんのわずかのことが、後々に大きな差となって現れてくるのかな、とも思います。
そうして、その少しずつの差が重なってくることで、結果的にはこちらとあちらでは、大きな開きが出てくることになるのだろうかとも感じます。

良い方向へずれるのか、あるいは良くない方向へぶれてしまうのか、この差はどこから来るのでしょうか。

 
                                                                     

これもよく言われることですけれど、考え方によるのではないでしょうか。

以前にも申しましたが、こんな例えがあります。
此処に、コップ半分のお水が入っています。
これを見て、あなたはどう感じるか、というものです。
「もう半分しかない、困った」
と感じるのか、あるいは
「お、まだ半分あるぞ、ラッキー」
と感じるのかでは、この時点で既に大きな差が出てきています。
常に、今このことに対して自分がどう思っているか、感じているかでその後の自分の在りようも変わって来るのでは、と思います。

実際、主人が健在な頃は物事を悲観的に捉えるのではなく、常にどうやってでも楽しい方向へと無理にでも考えるように仕向けられていたように
今にして思います。
ぐずぐず言っている自分に、それでもこれだけのことが出来たじゃないか、とほんのわずかのことであっても、その時点での良いことのみを取り
上げて笑える方向へもっていってくれていたように思います。
何かあっても、また無くても、何か笑えることを常に意識していたのかもしれません。
そう考えるとずれの差は、結局は笑っていられるかどうかで決まってくるのかもしれない、そう思えます。
やはり、常にどこかへユーモアをもって事に当たること、これが一番の方法なのかもしれませんね。

こう書きながら、どうも今の自分自身が笑える事を探していないように感じております。
無理やりにでも笑える何かを見つけよう、そう思います。
さて、何しましょうかね。

                                    


どうにも自分で問題提起して、自分でオチをつけてるだけのようですけれど;
ともあれ、物事がどうぞ良き方へ向かいますように、そう思う今日です。

そんなブログでしたけれど、今日もお付き合い有難うございました。
感謝申し上げます。


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逆のクラウド?

2017-07-13 21:22:54 | ものの見方 考え方
こんばんは。
いやぁ、暑かったですねぇ。
もう梅雨が明けたんじゃない?というくらいのお天気でしたよ。
こんなお天気の中で、被災地では後片付けに様々な形で携わっておられる方々がおられる事と思います。
ご自身方も体調管理に努めながら作業に掛かって頂ければと思うばかりです。
とはいえ、現地は相当な暑さの上に、捗らない事が山積なのではと感じます。
被災された皆さん並びに、申すように現地入りしておられる方にどうぞ体調不良等が無いことを願う思いです。

こちらの朝はこんな感じで曇っていましたが、やがて晴れてきて次第に暑い一日となりました。


                                


そんな暑い日は、涼しい環境へ身を置きたいと誰しもが思うものですよね。
ですけれど、先にも書いたようにあれだけの災害の後ですと、電気の復旧だけでもかなり大変だったのではと思います。
寒ければ暖がいりますし、今の時期のように暑ければ、当然クーラー等で涼を取らなければ、これからは命にも関わります。
ライフラインの中で何かひとつ駄目になっても命取りではありますけれど、今の時代、生活の中で電気がないというのは相当に不便であるのではと
思います。
こんなこと、自分が申すまでもなく、全くの言わずもがなな事ではあるのですけれど。

なぜ、こんな話をしているのか、というと、電気っていえば、ガラガラゴロゴロと鳴るあの雷こそ電気だよね?とふと思ったからです。
当たり前な話ですけれど。
その雷を、もし今後の技術でどうにかして電気というエネルギーに変換?して蓄える事が出来たなら、これは相当なエネルギーを確保出来るのでは
と思ったからです。
ど素人の自分のような者が考え付くくらいですから、これまでにも同様なことを思いついて実用化しようとした人はいるのではないかな、とも思います。
ですけれど、それが出来ていないのは、到底実用に不向きであるか、仮に既に出来る技術があるとしても、いつ落ちるか、またどこへ落ちるか分から
ない雷をどのようにして、どこで蓄えるのかということ自体が困難だからなのかな?とも思います。
それでも、このようなことが実用化出来たとすれば、雷そのものによる被害は当然防げるでしょうし、常にそれで電気をまかなうということにはなら
ないにせよ、緊急時には役立てることが出来るのでは、と思ったからです。
まぁ、あくまでも頭の中に閃いた事にしか過ぎませんけれど。

                              
                                

閃いたというと、随分前のことですが、ある時、これもまたふと頭の中に出てきた考えがありました。
それは、どこか地方なり辺鄙な地域での緊急手術など到底出来そうもない場所であっても、大きな病院の外科医等がこちらでモニターか何かを見ながら手を動かすと、それが実際の手術現場にて機器の操作はロボット等が忠実に再現して、その手術を行うというものです。
これは、おそらく今現在、一部は現実化しているのではと思うのですけれど。
よく存じ上げないので滅多なことは申すべきではありませんけれど、そのようになっておるのならば、患者は遠い病院などへしんどい身体を押して
行かなくても良くなる分、随分とその身体的負担は軽減されるのでは、と感じます。
AIといわれる人工知能が今後ますます活躍してくる時代になるとも言われている昨今、このような技術もますます発達してもらえればな、と思う
自分です。

                                

そんな、普段はとてもこの自分自身が考えようもないような閃きというのかアイディアというのか、そんなものがふと脳裏をよぎることがあります。
これって以前申した、あのクラウド的発想で、逆にあのクラウドからまれに?回線が絡まってしまい、本来下りていくべき人の頭の中ではなく、全く
関係ない自分のような者のところへ降ってわいたように考えが落ちてくるのでは?とも思ってしまいます。
日々、瞬間瞬間、皆さんそれぞれに様々なことを思って生活しているわけですけれど、ごくまれに、あれ、なんだ、これ?というような事はないで
しょうか。
そういう時は、同じ事を皆さんが同じように感じるのとは逆に、先ほど申したように、たまに全く関係ない人間のところへそのアイディアが洩れて
しまったのかもしれない、そんな風に感じます。
でも、その洩れた洩れたアイディアから、これまた突拍子もないものが生まれてきて、それが案外と世の中でのヒット商品に繋がっていたりしたり
して・・・;。


う~む、どうやら、今日はいきなり暑くなったせいか、いつにも増しての妄想話が膨らんでしまいました;。
頭を冷やさねばならぬのは、これまたどうも当の本人の自分のようですね。

どうにも最後は、いつもの煙に巻く話になってしまいました。
明日はもう少し冷静に話しが出来るよう、取り組んでみたいと思います。


今日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。
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空を見上げて

2017-07-12 21:37:02 | ものの見方 考え方
こんばんは。
相変わらず、湿度の高い蒸す感じの暑さです。
カラッと暑いのはまだ楽な気がしますが、まとわりつくような暑さは、なんともやれません。
昨夜も寝苦しく、それでもこのあたりは夜は窓を開けているとかなり涼しいので、そうして寝ておりました。
明け方、ザーッという雨の音で目が覚め、そのおかげで朝のうちは、いつもよりは随分楽に過ごせました。
こうして毎日此処へ貼り付けておるこの写真、もうずっと曇り空ですね。
                           

                             

そんな日でしたが、夕方近くになるとだんだんと雲も少なくなり、青空も覗いて来るようになりました。

                             

申したようにまだ湿度がかなり高いので、すっきりとした空にはなりませんけれど、それでもここ何日かと比べても随分と違います。
そんな空を眺めながらいつも思うのは、この空をこうして見ている人ってどれくらいいるんだろうな、ということです。

何かに捉われていたりすると、自然の持つ大きさに全く気づくことなく過ごしていることも多いのではないのか、そう思ったりします。
捉われると言っても仕事や勉強等に没頭しているのであれば、それはそれでその時点での「今」に集中しているのであり、ある意味、少しずれる
のかもしれませんが、そのことに対して夢中になっていると言えるのではと感じます。
ですけれど、何事かに捉われていると、「今」の時点に集中するのではなく、過ぎてしまっていること,或いはまだ来てもいない事に捉われるのではと思います。
捉われるという言い方を変えれば、心がそのことに奪われてしまい、そこから考えが抜け出せないでいるということかな、とも思います。

何を抽象的なことを言ってるんだ、という感じですけれど、最近の話題になっておられる方の言動をなんとなく拝見していると、どうにもこの「捉われる」ことに捉われてしまっているようで、どうなんだろうな、とつい老婆心ながら感じてしまったからです。
いらぬお世話ではありますけれど、出しておられるエネルギーがどうにも負の感じを受けてしまい、ご本人自身、今は大丈夫でも、だんだんとそのエネルギーにより、ご自身の方が下向きのスパイラルに向かってしまわれそうに思います。
元々お元気な方ですし、パワフルな方なのですから上向きの気流に乗れば、その風に巻き込みながらも周りにいる人も一緒に上昇していけるだけの力はおありなのだと感じます。
ですが、これが下向きのベクトルに転じるとその持てる力が強いだけに、かなりのマイナス部分をも引き込んで余計に重く沈んでいってしまいそうです。

こう考えることすら止めた法がよいのですけれど、周りに与えておられる影響が強いだけに、そのエネルギーの使い方、もって行きようを別の次元で、また更には先にも申したように上向きにしていかれれば、全く違う側面で輝かれるであろうに、と考えてしまいます。

                             


こんなことを書いておる自分自身、ある意味、自分に没頭するものが欠けておるのかもしれません。
また差し迫った危険に直面していないからかもしれません。
自分自身が、いつもこの「今」に直面しつつも、その「今」を果たしてどのくらい感じて生きているのだろうか、とも思います。
過ぎてきたことに、つい気持ちを動かされてそのことばかりを悔やんでみたり、未だになっていないことに先回りして心配してみたり、それを繰り返しているようにも感じます。
「今」を感じ、「今」そのものを感じること、それを大事にしていければな、と思います。
そのように思うと、冒頭で述べたように、頭の上に広がる空を見上げては、その今を感じさせて頂いているようにも感じます。

この空を見させて頂ける事にこそ感謝したいと思います。

 
                                                         


やれやれ、毎回、どうしてこんなこと書くかねぇ、と思いつつも書かせて頂くことも多いのですけれど;。
どうにも今回は失礼致しました。
自分はやはり空を見上げるのが好きだ、そういうことが言いたかったんだ、という結論のような気がしております。

呆れるような今日のブログでございました。
いつにもまして、こんなブログへのお付き合い、まことに有難うございました。




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自分のヒューマンデザインは?

2017-07-05 21:06:00 | ものの見方 考え方
こんばんは。
今日は、昨日の台風時よりも風もあり、一時期はどうなるかという感じでしたけれど昼からは雨も上がり一息ついたようです。
ただ、ところによってはかなりの被害があったり、安佐北区では亡くなられた方もおられるとかで、今回のこの雨はやはり豪雨という類のもの
なのかもしれません。
朝は、昨夜の雨で雲も低く垂れ込めておりました。
 
                                 

先日、「サロン つきのたね」https://tsukinotane.reserven.jp/をご紹介させて頂きましたが、その時に加藤さんにして頂いたのがヒュー
マンリーディングだったとお伝えしました。
その中で、自分のタイプは『プロバイダー』というものになるとお教え頂きました。
このヒューマンリーディング、ネットで検索されると簡単なものは自分でもある程度まではわかる様になっています。
ですけれど、その深い部分については、このリーディングに精通しておられる方から、じかにご教授して頂くしかありません。
日本では、それほど人数がおられるようでもなく、その中でも広島で限って言えば、この加藤さんともうお一人だけ。
そのお二人のうちの一人、加藤さんにお会いして目の前で多少なりとも、このリーディングについてお教え頂けたのは、とてもラッキーだったと思って
おります。

                                                                     

彼女自身、自分よりも遥かに;年下なのですけれどその雰囲気はおっとりとして落ち着いておられ、話をしていても安心感がある方です。
その彼女が、今回アドバイスして下さったのは、元々自ら動くという性質ではないプロジェクターというタイプの自分は(確かにそうだ;)じっと
待っていても埒があかない、ならば今のこの仕事上でどうしていくか、ということについて教えて頂きました。
おっしゃって頂けたことは、ホームページなりを作成し、準備だけは万端に整えて後は来る方を待つこと、ということでした。
確かにそうですね、と思っているところを言われたわけです。
自分としても、できればそのようにしたいなと思いつつも、なかなかこのブログのようには簡単に出来ないように感じられ、未だに二の足を踏んで
おる始末です;。
うーむ、もっと真面目に取り組まねば、と思うばかりで進展していない自分;。
このプロジェクターというタイプ、それほど多いという訳ではなさそうなのですけれど、それでも分類してみると約2割の方がそうなのだとか。
とはいえ、これも非常に大雑把に分けたうちの大きな分類の一部にしか過ぎません。
これをより細部にわたり個人で観ていくものだと思います。

またシグネチャーといい、直訳すると署名とか記号のような意味になるようですが、自分の最もよい状態でいられるのは、自分の場合は成功という
状況にあるときのようです。
これも、そういわれるとなるほどそうかもしれないと感じます。
自分自身、成功といわれるのは、この自分を通して皆さんに良くなって頂くこと、その良くなられた姿を見させて頂くこと、喜んでいただくこと、
それが自分の感じる成功といわれるものではと思っております。
そのような喜びの感情を受け取らせて頂けることこそが、成功と感じているのかもしれません。

このシグネチャーの反対がnot-selfといわれるもので、読んで字の如し、つまりは自身でない状態ということで、自分はこれは苦味と定義されて
おります。
これを彼女に尋ねると、自分がうまくいかない場合、苦い感情を抱くこと、といわれました。
これもまたしかりで、物事がうまく運ばない状態でいると、どうにも口の中でさえも苦味を感じる思いがします。

なお、物作りというのは如何ですかと聞かれたのですけれど、これも好きなことではあります。
絵を描いたり、物を作ったりしたいという思いもあるのはありますが、今の自分の仕事を考えると、物を作る、制作すると言うこと自体、それに
没頭せねばならない時間も多く割くようになろうかと思います。
今の仕事自体、それほど物事を考えぬようにも見受けられますが、案外とそのことの本質について知ろうとすると、考える時間をやはり随分と
使うことも実のところでもあり、そう考えると物づくりに割く時間は取れそうもないのでは、とも思います。
ですけれど、そのように考えるのは不器用な自分の思いであり、出来る方ならば、どのような状況においてもそのように物事を進めていかれるの
かもしれません。
しかし、これもその人のタイプにより様々に分かれるのかもしれませんね。

今回教えて頂けたのは此処まででしたけれど、どれも自分をそのまま言い当てられたようで、より深く知りたいと思えたのでした。


                                

ところでこのリーディング、息子と亡き主人はどうなんだろう、とつい簡単に出してみたのですが、息子は自分と同じこのプロジェクタータイプ、
おや此処でも親子ですか、と思ってしまいました。
片や主人は、ジェネレーターとなっています。
おお、確かにそういう人だっよねとこれも妙に納得、発生させる人、発電機のようであったよねと。


出来れば自分自身がこのヒューマンリーディングそのものをより深く学んでみたいところではありますが、まずはその前に自分自身の仕事を
きちんとこなすこと、それに尽きるのかもしれません。


                                


興味のおありになる方は、是非この加藤さんに貴方ご自身のリーディング、お願いしてみられては如何でしょうか。
思いもよらない言葉を聞かれるようになるか、あるいは共感できる部分が多いのか、それもまた楽しみの一つかと思います。


本日も、このブログへのお付き合い有難うございました。
感謝申し上げます。



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エネルギーの違い? その2

2017-07-02 22:49:38 | ものの見方 考え方
こんばんは。
梅雨が明けたのかも、なんぞと昨日はのたもうておりましたが、なんの;。
やはり今日もムシムシも一日でした。
とはいえ、今日蝉の鳴く声を聞きましたよ。
暦では、今日から六日頃までが半夏生(はんげしょう)の日でもあります。
半夏生の花が咲く頃だからとも言われているようですね。
そう思い、歩いてみましたが、このあたりではまだなのか、見かけることはありませんでした。
そんな朝は、こんな感じ。
はっきりしないお天気の始まりでした。

                             

さて、昨日はいわゆる動物性の食べ物と植物性の食べ物は自分達にとり、どう違ってくるのか、ということをどうやらこ難しく考えておった
途中でしたね。
なぜ、あんなに難しく考えるんだ?と今日読み返して、自分でも、もう一回頭を捻りあぐねておるところですけれど;。
ですが、考え出したことですので、もう少し考えてみたいと思います。
退屈なお話かもしれませんが、何卒ご容赦のほどを。

                             

動物性の食べ物、昨日も書きましたようにその代表といえば、なんといっても肉になりますね。
しつこいくらい書いておりますけれど。
肉が好き、という人は元気な方が多いですね、当然のような話ですが。
肉の持つパワーそのものが形を変えても、その人にも元の元気を与えてくれているのかもしれないとも考えます。
此処はしかし、牛は元来草食性の動物なので元のパワーというならば、いくら身体が大きくても大人しいものになりそうですけれど、実のところは
正反対のように、元気モリモリとなるように感じます。
そこがどうしてなのか、なのですけれど。
自分達が口にする時点では、既に「肉」という形態に変わっているからなのでしょうか。
ここの部分は、もう少し考えないと自分にもよくわかりません、申し訳ありません;。
ただ、自分自身は、普段は牛肉はほとんど口にしません。
菜食だから、というのではなく、ただ単にあまり好きではない、それだけの理由です。
肉として食べるのは、豚であったり鶏であったり、むしろ魚の方だと思います。
ですが、仕事でものすごく体力を消耗した時などは、牛肉でないと身体が間に合わないような時も、以前はありました。
やはり手っ取り早くパワーをもらえる、そんな感じがするのは否めないと感じております。
それほど、やはり肉というものが持つ波動は、自分達により近いからといえるのかも、とも感じます。


片や植物、口に運ぶと考えると野菜ということになりますが、野菜が好きという人は、肉が好きという人に比べると大人しいという印象を持ちます。
穏やかという表現でも良いのかと思います。
実際にベジタリアンといわれる人々を思い浮かべると、そのようにも思えます。
物静かとも思えます。

出雲大社にて大きなお祭を致す前には、殊に宮司である国造は潔斎と申しまして、その祭の一週間ほど前から動物性の食べ物は一切口にせず、
海水を汲んできて、その海水で炊いた野菜とご飯しか口にしないといわれます(ご飯は普通に炊きます、他にもしてならないとされることはありま
すが、この度は食べ物のみについて言及させて頂きます)
こうすることで、穢れを取り除き、清浄な心持で祭に臨む為とされておるようです。

このように考えると、動物性のものを口にしないということは、その性質上からしても気持ちがざわつかない、落ち着いているともいえるので
しょうか。
完全な菜食主義ではない自分には、そこのところはしかとはわかりかねます。
ただ、あまり肉を口にしないということは、やはりその分だけエネルギーを多く取り入れているわけではないので、元気一杯といえない代わりに
静かであるともいえるのかなとも思いますけれど。

                                 

しかし、これら二つは、どこまでもそのように考えただけであり、事実はそれだけではないのかもしれません。
ただ、先にも申したように、肉など動物性のものは自分達に近い分、そのもつ波動も似ているのではと思います。
植物は、その生育段階からして、自身の身体を作るのに、まるで無から有を作り出すかのごとく、その波動も細やかで繊細な部分が多いのでは、
とも思います。
もし、そのように植物が持つ波動が細やかであるならば、それを取り入れる人間の方もそのようになるのでは、と考えたりします。
先に、国造は野菜と穀類しか口にせず祭に臨むと書かせて頂きましたが、古から人間は植物のみを摂取することで、自分達の感じる域よりも、
より高い域での、精妙な部分を感じ取ろうとしていたのではないのか、そのようにも思います。

そう思うと、濃い部分を感じとりながら生活しようとするなら、動物性のものを多く取り入れること、言い方を変えれば元気にモリモリと過ごし
たい、地に足つけておきたいと思うなら、そのようにすることなのではと考えます。
逆に精妙な部分を感じ取ってみたいと思うのならば、植物を主に摂取する生活をする方が、よりその域へ近づけるのかもしれない、そう思います。

ですけれど、やはり生きていく上ではバランスが大事、そう感じます。
どちらかに傾けば、どうしても考え方もそのように偏ってしまうようにも思います。
肉だけ食べて荒々しいばかりでもいけませんし、植物性のものばかりだけでも、どこかで変調をきたすかもしれません。
中庸を保ちながらの食生活を送ること、それが何よりなことなのでは、と思いました。

                               
                    

書いてみると、なんのことはない、結論、そこですか?な話になってしまいましたけれど;。
もう少し続けようかとも思っておりますが、これは回を改めて、もう一度よく練り直してこのことに挑んでみようと思います。


終わってみると、やれやれな今日のブログ、お付き合い頂きました皆様、有難うございました。
感謝申し上げます。


   ご相談等、承っております。
 
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