自民党も吉本もジャニーズも、みーんな同じ構図 ‼️‼️‼️‼️https://bunshun.jp/articles/comment/68103?fbclid=IwAR0ppMqnCQ_jiRGr0jylgwV1TJ-Jqsl8thfThpa93X3u62J4qSIiBlTz3cY#ulCommentWidget
西沢昭裕
自民党最大派閥の安倍派崩壊の足音が聞こえる。
“多情院統一協会居士”のご戒名を進呈した安倍派会長だった細田博之氏はすでにいない。
松野官房長官をはじめ下村、西村、高木、萩生田、世耕、塩谷らの面々に東京地検特捜部の事情聴取が迫っていると報じられる。安倍派は自民党政治腐敗の中心格で統一協会とももっとも近かった。
松野は読売新聞にも見放されたから更迭はカウントダウンに入った。岸田も官房長官の後任人事で元々ない知恵を絞るが最側近の知恵袋だった木原誠二もスキャンダルで青息吐息。
官房機密費と内閣人事局の両方を差配できる官房長官は誰でもいいというわけにはいかない。
となると、岸田政権も歳を越せるかどうか。広島サミットをやったあのときに解散総選挙をやればよかったと夕べも眠れず悔やんでいるだろうが後の祭。
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話は少し飛ぶが、安倍首相は傀儡だった黒川東京高検検事長を検事総長にしようと執拗に画策していた。森友事件を全員不起訴にしたのも賭け麻雀でクビになった黒川の息のかかる山本真千子検事ら大阪地検特捜部。
あのころ安倍晋三のために検察の威信は地に落ち惨憺たる有様だった。秋霜烈日バッチが泥に塗れていた。
晋三亡きあと東京五輪汚職に切り込んで検察はやっと息を吹き返したように見える。がんばれ東京地検特捜部。世論がついてる。
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また話はそれるが、最近、三浦瑠麗だけでなく岩田明子もテレビから消えたのでやれやれ。
救いようのない安倍信者だった岩田はNHK政治部腐敗のシンボルだった。
NHK解説委員として晋三を天まで持ち上げていた岩田は安倍晋三没後も「毎晩のように安倍さんと私はどちらからともなく電話しあっていた。また明日もがんばろうねとお互い励ましあって深夜の総理との長電話を終える日々だった。・・安倍さんさようなら」などと恥ずかしげもなく「文藝春秋」に寄稿している。
羞恥心というものが全くない稀有な女性で、詩織さん事件を起こした山口敬之とのツーショットも有名だった。
岩田が総理の私邸に臆面もなく深夜に電話してくるとき、昭恵夫人は一体どこにいたのだろうか。不思議な夫婦だった。
安倍元首相の資金集めをしていた政治団体を、昭恵夫人が晋三死亡後に平然と継承している。
自民党山口県第4選挙区支部と晋和会は一昨年末の時点で残金は約2億4400万円を持っていた。原資は政党助成金などの税金やパーティ券のキックバックの違法な溜め込み金だろう。「昭恵夫人は私人」とふざけた閣議決定まで晋三はしているから議員でもないくせに露骨な相続税逃れ。
昭恵夫人が赤木俊夫さんのお墓参りをしたという話も今だに耳にしていない。どこまでもひとの道から外れたご夫婦だったというしかない。
岸田首相はとんでもない人物の「国葬」を強行したものだとつくづく思う。
今朝から考えていたことですが、従来の現代日本人形成論をまとめてみました。
後になると忘れるし、気力が衰えるので。
7~8年前、ホモサピエンスがアフリカから北上、中近東で西へ行くグループと東に行くグループに別れる。
さらに東に向かうグループは、北東と南東に別れてアジアに定住。
留まることのない流れは、まだ陸続きだった極東まで移動し太平洋に遮られ、日本に定住し縄文文化1万3千年を栄えさせる。
戦争のない社会だ。
氷期が終わり、縄文海進で海面が 100m も上昇し、孤立した日本列島が形成される。
弥生時代と呼ばれる頃、大陸から数多くの海を越えた金属文化と農耕を生業とする人たちの移住があり、縄文人との混血で現代の日本人が作られた。
これが従来の「日本人はどこから来たのか❓️」の定説だ。
しかしだ。
最新の古代人骨の DNA ゲノム解析で驚くべき事が示唆された。
弥生時代から古墳時代までに、(何らかの事情による)現在の中国、朝鮮半島と、その外縁の東アジアのあらゆる民族の大移動があり、現代日本人の根幹が作られた事が証明されようとしている。
ネトウヨたちが「純粋な日本人」として批判侮辱している大陸の人々と日本の政府批判の国民を貶めているネトウヨの DNA のほとんどが、アジア大陸の人たちなのが面白すぎる。
そして、ヨーロッパに移動した縁もゆかりもない子孫の白人アメリカ人に土下座している政府を擁護する道化ぶり。
Hiroshi B.Matsuura
*【#人生】「たとえ姿が消えても、遺された愛はあなたの心の中で永遠に生き続ける」
... 若くして人生の大事に気づいた者は、幸せな人生を送るだろう。
しかし、多くの者が財産や権力など虚しいものを追って滅びの道をたどる。
それゆえ、誰があなたの行く末を大事に思っているかを見極める知恵が必要だ。
形あるものはすべて滅びる。
そして、愛だけが永遠に生きる。
善行に理由などない ... それでは、なぜ窮状にある人々を見て哀れみの念が起こるのか?それは、あなたがまだ幼い頃、まだ何者でもなかったときに、何の見返りも期待せず世話をしてくれた親の愛の記憶が残っているからだ。窮状にある人、非力な人、貧しい人、病める人は、幼い頃のあなたなのだ。
坪倉正和
ここで先生が言われているのは、共同体の中ではない、他者との愛ですよね。
それはつまり、共同体の外に出ることとイコールなのです。共同体への固執は、結局は「羨望と嫉妬」を生むだけです。。
俺はクリスチャンではないですが、幼稚園まではカトリックの教育を受けて育ちました。なので、聖書の教えは絵本などで、幼児期に学んでいます。聖書の凄さは信仰心のあるものだけではなく、誰が読んでも素晴らしいのです!
人間とは社会性の動物です。
弱きもの、小さきものに対して、寄り添って生きることこそが、社会に貢献しているという人間性「人間の喜び」なのだと思います。
このことと共同体に貢献していることを混同してはいけません。日本では特にこのことの理解出来ない人が多いです。
マネーとは本来コミュニケーションのツールであり、ありがとうと言う感謝の意味がありました(互酬性)。それが、資本主義の到来以降、その倫理性は破壊され、富めるものの権利と、貧しいものからの収奪の道具に成り下がってしまったのです。。
俺はもとの倫理的なコミュニケーションを取り戻すには、宗教(=外部性への信仰)しかないのではないかと思っています。共同体に疑問を持つための規範が必要です。が、国際連盟にしろ、国際連合にしろ、なかなかうまくいきません。。
それを乗り越えるには、信仰心しかないのではないか?と、先生に出会ってから考えるようになりました。本当はマルクスもそう言うことを考えていたのだと思います。
とにかく、地球の環境のリミットは近づいています。。早くそう言う社会にしなければ、人類は次の生物に地球を明け渡す事になるでしょう。
エジプトにしろ、メソポタミアにしろ、インダスにしろ、黄河にしろ、本来は国際都市(経済都市)だったのだと言う事にもっと注目してほしいです。そこは全く言語や考え方の違う人々が、交差する場所なのです。そういうところではマネーと言うコミュニケーションのツールと、倫理と言う規範が必要だったのです。
ユダヤ=キリスト教、イスラム教、仏教、そして儒教の教えの持つ倫理性とは、そう言う場所だったからこそ現れた共同体の外部性によるものなのです。
それのない共同体やそれを失ってしまった共同体は衰退し、滅亡を繰り返して来ました。
Hiroshi B.Matsuura
そうです … ① アメリカによって繰り返される中東介入の真の理由は、石油ではなく、イスラム経済の倫理性を破壊し、市場経済に組み込み効率よく搾取するためなのです。② イスラエルによるガザの破壊も同じ理由。③ 中東紛争は、民族とも宗教とも何の関係もないのですが、池上彰や佐藤優などが無知な人々を騙しているのです。
Yさんの投稿から。
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画家、小説家、脚本家の島之内芸協、なにわ創生塾の山下孝夫さんは、27日文化評論を語った。
わかりやすい例を挙げ、筋道を立てて主張す。あまりにも、おもしろいので、みなさんにお読みいただきたい。
本論は以下。
戦争をなくし平和を築くには、徳川幕府のように、諸国大名たちへ、軍事費を費消させ、土木建設・治水・旅行・諸芸・遊郭などに金を消費させる政策を図るほかになかった。徳川4代目以降、太平の世を長く続けることができた。
民主主義時代ではそれは不可能である、理由は軍需産業は科学技術的でかつ儲かるからである。儲かることが価値になり、だから大富豪が現れているのだ。
江戸時代の大富豪は土地を持っていかった家は結局武士の踏み倒しで全滅した。
現代も債権帳簿しか持っていないのは遠からず全滅するだろう。その時には芸術も全滅するだろう。江戸時代の260年より長く平和が持つだろうか。
カズオ・イシグロの出世作「浮世の画家」はそう言う芸術観を提供してすべての芸術家を巧妙に批判している。
話のあらすじは、
主人公の日本画家は、江戸時代は個人観賞用だったが、明治以後に世界的に評価された浮世絵の伝統を芸術的近代絵画(作家の個性が光るということ)に発展させた耽美的流派の俊英だったが、画業一筋に燃えて世間の常識はたとえば共産主義については「マルクスがロシア革命を指導した」ということくらいしか知らず、あるとき貧民窟を案内されて欧米列強の帝国主義政策とそのあとを追う日本の資本主義の「悪行」を感じて、なんのための芸術かにとことん悩み、師匠はじめ画壇の非難を無視して孤立覚悟の社会派絵画に転向して、自分独自の画風をうち立てる。
それは、次第に世論の大勢が賛同する大東亜共栄圏の理想を展開した画風であると評価され、出身の耽美派の大家が見る影もない中で自分は芸術的満足の頂点を味わう。
だが戦後に待っていたのは、罵倒とスケープゴートであって、耽美派は国策に乗らなかったとして再評価される。本人も才能を馬鹿な方向に使ったという猛省を迫られたが、ではどうしたらよかったのかという答えは日本ではどこにも見出せなく学者も評論家もタブーとして声をひそめ、半世紀後になってやっとイシグロが英国でこの英語小説で問題を国際化して受賞したのである。
私がこの小説を読んでいまだに突きつけられる芸術の評価は、昔の人に発言力はなく、未来の人にもまだないと言う所で、現代の人々が勝手にするもので、しかもそれは流行や打算や名声と結びついているにすぎないのではということである。
むしろ芸術家と言われたいなら、体制世論にわざと反逆を装うか、馬鹿になって分からないふりをする方が、あとの時代にもある程度普遍的に評価されるのではないだろうか。
友人の故H.S氏のことではない。フランスの19世紀の国家的名誉の中心だった超絶技巧の画家たちが、写真が驚異的に発達したことで、ずっと劣る職人仕事にすぎなかったとして、そういう絵が描けない黒田清輝らの低レベルだった日本では名前も知られないようになってしまったのを考えるとよいだろう。
現在世界一の国では空き缶に入れた絵の具の汁を垂らして描いた(?)画家の方は国が誇る天才として評価を受けているのだから。
日本では阪神タイガース優勝や大谷選手MVPの方が、日本人の誰かが北斎に次ぐ「世界歴史的偉人の百人」として現れるよりはるかに熱望され、世界の戦争は正直日本の世間にはどうでもよい(少なくともマスコミには)ということをパレードが証明したのだ。
つぎは万博の番になるのかも知れない。