● 山形菅家のルーツを辿った。
2018 年夏にアップした旧ブログ(契約解除で見ることができない)の記事に大幅加筆した)
祖父も曾祖父も名前も知らない子孫が、自力で先祖の明治初戸籍までたどり着くことが出来るか?
● 山形県生まれの父(菅カン 吉清)は、「戊辰戦争で戦死した祖父の塚が秋田県南の増田町にある」と酔っぱらうとよく言っていた。
今回の調査でわかった事は、父の云う「祖父」は実は父から見た「曾祖父」であり、私(貴代志)から見ると「高祖父」だったことがなにより意外だった。
父は、私の「祖父(芳栄)」の話は(少なくても息子である貴代志には)一度も話したことが無く、今回の調査で初めて父が勘違いしていたことを知った事だし、父がなぜ曾祖父芳栄のことを飛ばしたのかは永遠の謎のままである。
この現横手市増田町真人に祀られている高祖父「菅芳之助吉重」の事を話した当時の父は、秋田市の私服刑事から上司と揉めて左遷された(担当の共産党員の弁護をしたことで)増田警察署管内の川連(漆器名産地)や稲庭(うどん生産地)、小安温泉につながる皆瀬川沿いの駒形駐在所、三梨駐在所を転任していた。
● 私は、自宅から一番近い増田高校に入って、増田町と周辺の事はかなり知っていたが、酔っぱらった父のホラ話だと思い(酔った時には「我が菅家は菅原道真の子孫だ」などというので…)近くにありながら信用していなかったので一度も確かめたことは無かった。
しかし、自分がずいぶんと歳を経て老人になり、また元々歴史が大好きなこともあって、面倒そうなルーツをたどるのも無職渡世にはちょうどいいと思い、今回ドライブがてら重い腰を上げて調べてみた。
なぜなら、山形に父の実家があった我が菅(カン)家は、現在いとこが秋田市に住んでいるだけで父の両親兄弟など、秋田県、山形県に誰もいなくて、俺自身が祖父の名前さえ知らない状態なので、戸籍を遡る以外に自分のルーツへの手掛かりが無いので、役所回りや現地踏査をするにはかなりの手間暇がかかると思われとても行動する気にはなれなかったのだ。
今回のフィールドワークを時系列で記録し、また郷土史に興味があって読んでいた手元の本で調べてみた。
ちょっとしたルーツを探ってみたい人には、手続きなどのちょっとした参考になれば幸いである。
これ以上遡るとすれば、江戸時代の藩士であるからには菩提寺に行って過去帳を見せてもらったら、少なくても新庄藩戸村氏の藩士になった頃まではわかると思う。
しかし、高祖父まで知ることができたのでこれで満足したので終りにする。
● たまたま、土地の権利書を見なければならなくなって、亡母の残していたものを発掘いていたら、父吉清の謎だった軍歴ができたので長くなるのはしょうがないのですが最後に記録しておくことにした。
中国・太平洋戦争の話をしたがらない帰還した兵士たちが、現在の軍事優先の政治家や憲法改悪の潮流を作り出したと考えているので、父もその例にもれず、ほとんど戦地での話はしなかった。
銭湯での父親たちの戦場の話しか聞いたことがないのが、今でも残念だし、徴兵された兵隊たちが「反戦・平和」を本気で感じていたら、話すべきだったと思う。
人類にとっては、「無限の長さ」を放射能で汚染させる原発を稼働しろと煽る財界、100万人しかいない富裕階層の富の独占のために、「無限の消費」である軍需産業と原子力発電所へ投資するための安倍晋三の憲法改悪策動が進んでいる。
父の軍歴(詳しく調べる方法はまだいくつかあるが)については、現在できる事だけを記録しておくにとどめる。
● 「漢書」は西暦60年ころに班固、班昭が編纂した。
劉邦が項羽を破り、「漢(前漢)」を建国してからの歴史を四つの項目(本紀・列伝・表・志)で著述されています。
その「志」のなかの「地理志」のなかに当時、中国皇帝が把握していた日本の様子が書かれています。
そこで引用するのが、朝鮮半島の楽浪まで勢力を伸ばした前漢が、初めて海の向こうにあるらしい国(後の倭)の情報を得て「漢書地理史」にその事を書いた日本を記述した最初の有名な一文だ。
2000年前から日本人は、独裁権力者に抵抗しないで、強いものに従うと噂されていたという・・・
と感じさせる世界で最初の「東夷(日本はもちろん、倭でさえない)」の認識だ。
『漢書地理志』
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
***** ***** *****
「菅芳之助吉重(高祖父)を現在からたどる」
① 秋田市役所
父、菅吉清の除籍謄本。
除籍謄本で初めてわかった祖父の名前「友吉」(読みは不明)。
そして、友吉の父(父が一度も話したことのない)貴代志の曾祖父「芳栄」まで確認した。
ここで秋田市役所での取得できる書類は終わり、吉清の生地であり、祖父友吉の戸籍があった「芳栄」の除籍謄本がある山形県大蔵村役場に行くことになる。
② 山形県大蔵村役場
ここで秋田市役所で取った友吉の除籍謄本、友吉→吉清→貴代志の血縁証明が出来る貴代志の戸籍謄本、免許証を提示し、申込書類(認印必要)を書いて友吉の除籍謄本を申し込む。
ところが、友吉は大蔵村の前に新庄町に戸籍があったことがわかり、大蔵村役場では友吉の父(貴代志の曾祖父)までは行きつかないことが分かった。
③ 新庄市役所
さらにわかった事は、新庄町の戸籍の後で最上郡入向村本合海に戸籍を移しているので、まずはその除籍謄本をとる。
続いて曾祖父芳栄と祖父友吉の新庄町での除籍謄本をとる。
ようやく私貴代志(昭和25年生まれ)の父吉清(大正11年生まれ)曾祖父友吉(明治11年生まれ)、父吉清の祖父芳栄(嘉永元年生まれ)、吉清の曾祖父、「菅芳之助」の名前が出た。
つまり、自分・父・祖父・曾祖父・高祖父という自分から数えて五代前までの菅(カン)家の血統は、高祖父芳之助の生まれ年以外は証明されたことになる。芳之助長男である曾祖父芳栄(貴代志の祖父友吉の父)が嘉永元年生まれだから、ペリーの黒船4隻が姿を現す5年も前だ。
これ以上は、新庄藩士だから新庄市内にあるはずの菅家の菩提寺で過去帳を見せてもらわないと、芳之助の先祖にはたどり着かない。
しかし、秋田市寺内の全良寺(通称官軍寺)には、秋田県内での戊辰戦争の薩長官軍側戦死者数百人の墓があるので、そこに行って明治政府が管理していた寺の墓の記録に芳之助の生年月日がわかる資料があるかもしれない。
また、増田町の「二人塚」に祀られている芳之助の墓からも生まれた年などが判明するかもしれない。
藩士であり、戊辰戦争での戦死した階級が「新庄藩銃隊司令士」である芳之助であるならば、おそらく寺の過去帳には元禄辺りまで遡れると思うが、父が言っていた通り、高祖父芳之助が実在し、戊辰戦争では庄内藩に追われ、秋田藩に敗走し、増田町での戦闘で戦死したことが証明されたことで満足したので、今回の菅家のルーツをたどるのはいったん終わる。
最後に父吉清が産まれ、走り廻ったえあろう大蔵村清水2720に行ってみた。
明治の住所なのでもちろんナビは周辺で到着を告げているが、歩いてみるとなんとなく「やっぱりここだな」と感ずる場所だった。
「菅芳之助吉重」について
● しかし、名前が分かっただけでは極めて不十分だ。
いつ生まれ、いつ戦死したのか、どこで生まれ、どこで死んだのか?
この際なので、ようやく行きついた曾祖父「菅芳之助吉重」の生まれた年だけでも知ろうと二か所の現地で調べた。
市立体育館の裏手の小高い丘にある全良寺の菅芳之助の墓には、「慶應4年行年54」とあるので 1867 年から53年さかのぼると、芳之助は「文化11年(1814)」生まれということになる。
ようやくにして、およそ200年の菅家の歴史の一端が明らかになり、とても満足する行脚になった。
● 全良寺(通称官軍寺)秋田市寺内
前衛的なデザインの本堂の裏の階段を登ると150年前の官軍戦死者の墓がある。
階段を登って右の一番近い場所に芳之助の墓があった。
明治政府の記録が寺にあり、住職から見せていただいてわかった事は、ネットや酒田庄内藩、新庄藩、秋田藩関係の郷土史本での高祖父芳之助の戦死した場所の記録は「羽後番場村」となっていたが、しかし、「羽後の国番場村」では、秋田県全部が対象なので場所は全くわからなかった。
ところが、寺の明治政府の記録でも、墓石の裏の表記でも「平鹿郡的(マト)村戦争」となっている。
これは大発見だった。
新庄藩士銃隊司令士菅芳之助吉重が、150年前に追撃して秋田藩に攻め込んだ庄内藩との戦闘で戦死した場所に塚を作り、長きに渡って地元の人が大事にしているその地元の地名が「真人(マト)」であることがようやく確認された。
● 増田町真人郵便局前の新庄藩士の戦死した高祖父芳之助と部下の二人塚。
ここでは、「平鹿村戦死」となっている。おそらく、明治政府の記録での「平鹿郡的村戦争」から、伝聞などの不正確さによって、「郡的」が抜けたのではないかと思われる。
部下の方の墓が立派なのは、近年になって子孫が新しく建てたからで、元々は身分に応じた粗末なもので、経年劣化が酷かったようだ。
菅一族が山形県から離散し、かろうじて高祖父芳之助の玄孫である貴代志が今回確認しなかったら、次の世代にはもう誰も個人では調べる子孫はいないと思う。
銃隊司令士 武山良勇(菅芳之助吉重)
藩兵 義光良基
● 新庄藩(戸沢)の幕末
新庄藩は、慶応3年(1867年)の江戸薩摩藩邸焼討に庄内藩・上山藩・出羽松山藩と共に派兵したが、直接「薩摩藩」とは交戦せず、江戸市中の警備を担当した。翌慶応4年(1868年)に勃発した「戊辰戦争」では開戦当初に新政府軍の「奥羽鎮撫軍」が新庄に入ったため、新政府軍と共に庄内藩領内へ攻め込むが、逆に迎撃され惨敗した。
同年、「奥羽越列藩同盟」が締結され「新庄藩」も当初これに参加した。
同盟後は庄内藩に協力して新政府軍を圧倒したが、新庄藩の北に位置する久保田藩(秋田藩)が新政府軍へ寝返ったことを機に、奥羽越列同盟から離脱した。
新政府軍を国境で防いでいた「庄内藩」はこの離脱に激怒し、新庄藩に攻撃を加え城を攻め落とした。
この戦で城下町の大半が焼失ししまい、藩主「戸沢正実」は久保田藩(秋田藩)へ落ち延びている。
以後、新庄城は新政府軍が庄内藩に反撃するまでの間、庄内藩によって占領された。
明治2年(1869年)、戊辰戦争の終結とともに新政府軍への寝返りの功により、1万5000石を加増された。
同年6月には「版籍奉還」により藩主「戸沢正実」は新庄藩知事となる。
そして明治4年(1871年)の「廃藩置県」にて新庄藩は廃藩となり新庄県となる。そして同年には山形県に編入された。
● 久保田藩(秋田 佐竹)の幕末
国学の第一人者であった平田篤胤の生没地である久保田藩は、平田の影響から若手を中心として勤王思想を持っている者がもともと他藩よりも多かった。
鳥羽・伏見の戦いが終了して間もない慶応4年1月15日(1868年1月29日)、新政府は奥羽諸藩に東征軍を派遣するから応援するように命じた。
2月17日(1868年3月10日)、京都の東征大総督府は奥羽鎮撫隊総督九条道孝に会津・庄内両藩の処置についての回答を与えた。
九条は海路仙台に到着、直ちに仙台・米沢両藩に会津討伐を命じ、4月6日(1868年4月28日)には久保田藩にも庄内討伐を命じた。
この命令を受けて久保田藩は亀田藩、本荘藩、矢島藩(当時は立藩前)、弘前藩、新庄藩などと共同し由利地方や新庄藩に兵を集結し、庄内藩を攻めようとした。
ただ、庄内藩が討伐対象とされる経緯に疑問を持ち、鹿児島藩の私怨と考える兵士も多く士気はふるわなかった。
由利地区に攻勢にでた連合軍に対し、庄内藩はこれをいち早く察知して閏4月20日(1868年6月10日)に反撃してきた。
そのため、久保田連合軍は総崩れとなった。その後、仙台藩による白石同盟の呼びかけにより、この連合はなし崩し的に解散となった。
奥羽鎮撫隊の命令を受けて兵を集めていた仙台藩と米沢藩は、逆に会津への支持を表明した。
仙台藩が白石会議を呼びかけると、久保田藩からは家老の戸村十太夫が出席して、奥羽越列藩同盟に調印した。
九条総督と参謀の醍醐忠敬は仙台城下に軟禁されたが、佐賀藩の部隊が到着すると引き渡されて仙台を退去し、盛岡へ向かった。
盛岡藩はこの時点で藩論統一されておらず、1万両を献金したのみで奥羽鎮撫隊へ協力しなかった。
次いで九条総督の一行は久保田へ向かった。
そのため、久保田藩の領内には鹿児島藩・山口藩・佐賀藩などの官軍が入ってきた。
また、以前から久保田領内にいた副総督の澤為量隊やその参謀の大山格之助・桂太郎らは、次の目的地であった弘前藩に入領することを拒否されていた。
これは弘前藩が藩内の勤皇派が勢いづくことを恐れたためとも言われている。
このため結果的に、久保田藩には奥羽鎮撫隊の全ての部隊がそろうことになった。
列藩同盟の盟主の仙台藩はこの動きを批判して、九条らの仙台への引き上げを申し入れた。
それに対して久保田城内では、吉川忠安らの勤皇派と同盟派が激しく争ったものの、最終的に奥羽鎮撫隊や藩内の若手勤皇派の意見を容れる形で久保田藩主佐竹義堯は裁断を行い、7月4日(1868年8月21日)、同盟離脱を決定して同盟派の家老らを更迭した。
そして大山格之助の命令で、仙台藩使節の志茂又左衛門以下11名を殺害し、久保田城下五丁目橋に首をさらした。
このことで仙台藩は怒り、秋田戦争が始まった。
慶應四年(1868)七月十四日、新庄が落城すると、同盟軍は秋田への進攻を開始した。
同盟軍は庄内藩を主力として、米沢、山形、上山、天童、仙台、一関各藩兵が加わり、大軍となっていた。
秋田軍は、八月八日、雄物川と支流の皆瀬川に沿った広い範囲(現在の地名でいうと稲川、増田、湯沢、十文字、羽後など)で戦闘を開始するが、皆瀬川を越えることはできなかった。
秋田軍はあっさりと反撃を諦め、北方の大曲まで退却した。
これに怒った横手城代戸村大学は、家臣二百八十名とともに横手城に拠って三千人の同盟軍を迎え討った。
八月十一日、横手城は二時間ほどの戦闘の末、落城した。
戸村大学自身も二人を斬り倒すほどだったという。
このときの砲火により、横手城は炎上し灰燼に帰した。
二ノ丸跡にはこの時戦死した二十一名を慰霊する戊辰戦死碑が建てられている。
東北の幕末での諸藩のうち、尊王運動の思想的源流を唱えていた平田篤胤が秋田出身の為もあり、若手の藩士を中心に錦旗を掲げる薩長軍に与する勢力が力を得ていた。
京都守護を精勤した会津藩、江戸での薩長のテロを抑え、薩摩屋敷襲撃が鳥羽伏見の戦いのきっかけにされた庄内藩の助命嘆願を趣旨とした奥羽越列藩同盟からの仙台藩からの使者を斬殺することで秋田藩が同盟から離脱し、官軍幹部が来た新庄藩も薩長に着いた。
それによって、新庄藩、秋田藩は東北で最も近代的軍事訓練と最新武器を装備した庄内藩との戦争になり、瞬く間に新庄藩は壊滅し、雄勝峠を越えて秋田藩に敗走し、最終的には県南の湯沢、横手などの秋田藩の拠点は庄内藩に落とされ、川辺地域でようやく九州からの援軍によって押し返すありさまだった。
この後で、列藩同盟の南部盛岡藩も県北鹿角に主力を集め、大舘方面に総攻撃をかけていた。
二ツ井近くのきみまち坂の戦闘なども秋田藩は敗北し、押し込まれる一方だったが、仙台藩他の列藩同盟中心藩が降伏し、盛岡藩も降伏し戦闘は終了した。
● その秋田藩での戦闘は、雄勝峠を越えた最県南の院内・横堀をはじめとして、湯沢からの雄物川沿い、増田町で合流する皆瀬川・成瀬川などでも敗走しながらの新庄藩士と攻め上る庄内藩との小競り合いが繰り返された。
湯沢の戦い(ゆざわのたたかい)は、久保田藩領の湯沢(現・秋田県湯沢市)を、庄内藩軍を中心とする奥羽越列藩同盟軍が奇襲して起こった戦闘である。
おそらく、敗走しながら真人山の下の集落で、新庄藩の掃討戦にあい、塚に祀られた二人は月8日に戦死したと思われる。
● 慶応4年8月5日(1868年9月20日)未明、庄内軍の惣右衛門隊と権蔵隊を先鋒にして、山形藩兵とともに横堀を出発した。
雄物川の対岸をひそかに進み、山田村(湯沢市外の南西)に出た。ここに山形兵を残して雄物川を舟で渡り、湯沢に奇襲上陸した。
守将の佐竹義隣(三郎)はすでに横手へ逃亡していた。
館は若干の久保田藩兵が守備していたが、庄内軍が鬨の声をあげて攻撃すると、久保田兵は潰走した。
惣右衛門隊が表門を壊して、分隊長・野沢権内が邸内を捜索したが、敵兵はいなかった。
おのまま庄内軍は湯沢に本営を置いた。
この日、鶴岡より早馬の使者が駆けつけて、庄内藩主・酒井忠篤およびその父(先々代藩主)の酒井忠発より、一番大隊長・松平久厚(甚三郎)と二番大隊長・酒井了恒(吉之丞)へ、院内攻略に対する御意と感状が届いた。
● これが5日の戦闘であるが、湯沢の北は十文字、東北は増田町であり、どちらも徒歩進軍で半日で済む。当然翌6日からは庄内藩兵は北上したと思われる。
十文字や増田に残っていた秋田・新庄の軍勢は、すでに指揮を執るべき佐竹が横手に敗走しているので、わずかな抑えしか残さなかっただろう。
6~7日に北へ進軍して橋頭堡を確保した庄内軍は、そこに残っていたわずかな敵と掃討戦をすることになり、その最中の8日、増田町「的村」(現「真人」)で曾祖父の新庄藩銃隊司令士菅芳之助吉重が戦死したと想像できる。
これが、今回の(手がかりがありながら、50年も放っていた)祖父、曾祖父、高祖父の名前であり、その在所であり、高祖父「菅芳之助吉重」の事跡である。
全良寺で全てを調べ終わって帰ろうとしたら挨拶しに来たにゃんこたち🐈🐈
***** ***** *****
「菅吉清 軍歴」(S28年7月26日 秋田県厚生部福祉課長印)
菅吉清( カン ヨシキヨ )
1922年(大正11年)生まれ
1936 年、高等小学校卒業(14歳)
不明なのは、①卒業後の仕事、②山形県生まれで秋田連隊に招集されたこと、③高等小学校卒業で、3年で伍長になれたこと、の三つだ。
① 叔父の話では外国航路の船員(雑用係)として、主に東南アジアを回っていた。
② 本籍の在郷軍人会名簿や警察の住民名簿で確認し召集令状が送られる。少なくても父吉清は、山形県新庄市あるいは大蔵村の高等小学校を出てからは秋田市に本籍を移していたことになる。
吉清の兄弟の長男は秋田市の営林局に勤めていたので、そこに同居していた可能性が大きい。
③ 二等兵で招集され、教育を終えると一等兵、上等兵、兵長、伍長と昇進するシステムなので、衛生看護兵としての教育のたびに階級が上がったのであろう。
「徴兵された兵隊の中で(士官学校は出ていない)優秀な者を選抜して下士官(伍長・軍曹・曹長)になる事を承諾した者に専門教育を施した後に下士官に昇進させます。(昇進すると上級の専門教育を受けなければなりません。)」という記事があった。
※ 参考
召集令状(赤紙・白紙・青紙)は陸軍省が作成した動員計画に基づき連隊区司令部で対象者を指定して発行される。
発行された令状は最寄の警察署の金庫に密封保管され、動員令が発令されると警察官が市区役所・町村役場にこれを持参し、役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡し(不在の場合はその家族に)交付した。
令状は本記と受領証の2枚からなり、本記には応召者氏名、住所、召集部隊名、到着日時等が書かれ、これは部隊までの交通切符代わりになる。
受領証は受取人が受領日と時刻を分単位で記入、捺印の上で官吏に渡す。
官吏はこれを役場に持ち帰り、「召集令状受領綴」という記録簿に保管していた。
本記の表面には、召集される者の氏名、配属される部隊名、部隊に出頭すべき日時などが記載される。
裏面には、伝染病など理由あって期日までに部隊に出頭できない場合の連絡先、応召集員の心得などの備考及び注意事項が記載されていた。
また、理由なく召集に応じなかった場合、罰金刑もしくは拘留に処せられると書かれている。
(浅田次郎対談から)
召集令状は、役場の兵事係から本人や家族に直接渡されるのが原則で、応召した本人が兵営へ持参し提出するため、現存するものは極めて少ない。
赤紙は、召集される人の本籍地の市町村役場の「兵事係」つまり公務員によって届けられていた。
ただし、役場では居住地を正確には把握していない場合もある。
そのときに重要な役割を果たしたのが、国民を細かく管理できていた交番である。
お巡りさんは分担区域の個人情報を持っていたんだ。
交番のルーツというのは江戸時代の番所で、それでも行き届かないエリアはヤクザの親分が十手や捕縄を持って管理をするっていう綿密な治安維持網があった。
その証拠に江戸時代の地図を今の地図に重ねると、番所があった場所に、不思議なくらい今は交番があるんだよ」
本籍地の役場と軍を繋ぐのに、警察のネットワークが活用されたというわけだ。
しかし、必ずしも召集される人が本籍地に住んでいるわけではない。
その場合、実家にいる家族が、本人に知らせる必要がある。
当時のハガキは一銭五厘。
郷里からのハガキで召集を知らされることも多く「一銭五厘の命」とも言われていた。
そのほか、電報や電話で伝えられることもあった。
会社員の場合、本籍地にいる家族から、会社に電話や電報が届くケースも。
会社員の場合、召集令状が届くと、すぐに給与が停止され、有無を言わさず1週間以内に本籍地まで出向いて入営することになった。これが赤紙による召集のしくみだ。
以上、浅田次郎氏
●1942(S17)
12月 陸軍二等兵「歩兵第117連隊」補充隊入隊
「歩兵第117連隊」補充隊入隊 第 117 連隊(第 17 連隊の補充隊)
※ 参考
「雪 第 3524 部隊の歴史」より
雪 第 3524 部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田(歩兵第17連隊)、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
雪3524部隊は、昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。
当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、聨合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。
部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。
12/1 「北支派遣第3524部隊」要員として秋田出発
※ 参考
(俗称)北支派遣軍→(正式名)北支那方面軍
雪 3524 部隊→(正式名)第三十六師団 歩兵第二百二十三連隊
12/12 下関出航
12/13 釜山上陸
12/14 鮮満国境通過
12/16 山西省潞安着「第3524部隊 歩兵第223連隊6中隊」補充隊編入
●1943(S18)
6/1 陸軍衛生一等兵 衛生教育のため「潞安陸軍病院衛生兵教育隊」入隊
11/1 「独立歩兵第200大隊(将部隊)」転属
※ 参考
第83歩兵団:青山清少将( 独立歩兵第199大隊、独立歩兵第200大隊)
12/1 陸軍衛生上等兵 衛生教育修了。原隊(歩兵第223連隊)復帰、大隊本部付き
12/10 衛生下士官教育のため北京陸軍病院「北支方面軍衛生下士官候補者隊」入隊
華北(北京):北支那方面軍
●1944(S19)
6/1 陸軍衛生兵長
9/1 衛生下士官教育修了、原隊(歩兵第223連隊)復帰。山西省太原「北支方面軍第一軍司令部付き」転属
12/1 陸軍衛生伍長
●1945(S20)
3/30 河北省三河県「独立警備歩兵第14大隊」(伸長)転属
討伐参加
※ 参考
「伸長部隊の思い出」より
通称伸張部隊と呼んだ。5個中隊に銃砲隊。
それまで春兵団が警備した所をこの部隊が警備することに。
大隊長以下がそっくりそのままこの部隊に。
三河が大隊本部。薊縣(けいけん)が中隊本部。
4か所の分遣隊。上倉鎮(じょうそうちん)というところの分遣隊長をやった。城壁の中にあった。分遣隊は10名。
ここには保安隊が1個大隊いた。
馬(まー)大佐が指揮官で、自分の指揮下に入った。
馬大佐は後に八路軍が進駐してきた時に銃殺された。
装備がすごくよかった。
重機1丁、軽機1丁、擲弾筒3挺あった。
年がら年中試射と言って重機をぶっ放していた。
敵はたまに出る。
保安隊に頼まれてたまに戦闘に出た。
5名残して5名で行った。
ほとんど戦闘はやらなかった。
敵襲は3回あった。
そのときは出なかった。
出るとやられる。
10/1 天津終結 復員船船員として徴用(吉清談~集合地点の天津で船員経験のある内地引き上げ兵が選抜された)
●1946(S21)
1/31 天津出航
2/2 佐世保上陸復員
5/5 地方事務官補、秋田県巡査
11/15 秋田警察署
***** ***** *****
以上が、「菅貴代志ー吉清ー友吉ー芳栄ー芳之助吉重」という五代前の先祖を遡って調べたことと、父吉清の中国での軍歴を記録した現在わかっているすべてである。
これより深く掘り下げるには、新庄藩士菅家の菩提寺(不明)での過去帳を見せてもらう必要があるし、新庄藩戸沢氏も遡らなければならないので、孫子に伝えられることは一応明らかにしたし、老齢でもあり現実的にこれでルーツ探しは終了である。
2018 年夏にアップした旧ブログ(契約解除で見ることができない)の記事に大幅加筆した)
祖父も曾祖父も名前も知らない子孫が、自力で先祖の明治初戸籍までたどり着くことが出来るか?
● 山形県生まれの父(菅カン 吉清)は、「戊辰戦争で戦死した祖父の塚が秋田県南の増田町にある」と酔っぱらうとよく言っていた。
今回の調査でわかった事は、父の云う「祖父」は実は父から見た「曾祖父」であり、私(貴代志)から見ると「高祖父」だったことがなにより意外だった。
父は、私の「祖父(芳栄)」の話は(少なくても息子である貴代志には)一度も話したことが無く、今回の調査で初めて父が勘違いしていたことを知った事だし、父がなぜ曾祖父芳栄のことを飛ばしたのかは永遠の謎のままである。
この現横手市増田町真人に祀られている高祖父「菅芳之助吉重」の事を話した当時の父は、秋田市の私服刑事から上司と揉めて左遷された(担当の共産党員の弁護をしたことで)増田警察署管内の川連(漆器名産地)や稲庭(うどん生産地)、小安温泉につながる皆瀬川沿いの駒形駐在所、三梨駐在所を転任していた。
● 私は、自宅から一番近い増田高校に入って、増田町と周辺の事はかなり知っていたが、酔っぱらった父のホラ話だと思い(酔った時には「我が菅家は菅原道真の子孫だ」などというので…)近くにありながら信用していなかったので一度も確かめたことは無かった。
しかし、自分がずいぶんと歳を経て老人になり、また元々歴史が大好きなこともあって、面倒そうなルーツをたどるのも無職渡世にはちょうどいいと思い、今回ドライブがてら重い腰を上げて調べてみた。
なぜなら、山形に父の実家があった我が菅(カン)家は、現在いとこが秋田市に住んでいるだけで父の両親兄弟など、秋田県、山形県に誰もいなくて、俺自身が祖父の名前さえ知らない状態なので、戸籍を遡る以外に自分のルーツへの手掛かりが無いので、役所回りや現地踏査をするにはかなりの手間暇がかかると思われとても行動する気にはなれなかったのだ。
今回のフィールドワークを時系列で記録し、また郷土史に興味があって読んでいた手元の本で調べてみた。
ちょっとしたルーツを探ってみたい人には、手続きなどのちょっとした参考になれば幸いである。
これ以上遡るとすれば、江戸時代の藩士であるからには菩提寺に行って過去帳を見せてもらったら、少なくても新庄藩戸村氏の藩士になった頃まではわかると思う。
しかし、高祖父まで知ることができたのでこれで満足したので終りにする。
● たまたま、土地の権利書を見なければならなくなって、亡母の残していたものを発掘いていたら、父吉清の謎だった軍歴ができたので長くなるのはしょうがないのですが最後に記録しておくことにした。
中国・太平洋戦争の話をしたがらない帰還した兵士たちが、現在の軍事優先の政治家や憲法改悪の潮流を作り出したと考えているので、父もその例にもれず、ほとんど戦地での話はしなかった。
銭湯での父親たちの戦場の話しか聞いたことがないのが、今でも残念だし、徴兵された兵隊たちが「反戦・平和」を本気で感じていたら、話すべきだったと思う。
人類にとっては、「無限の長さ」を放射能で汚染させる原発を稼働しろと煽る財界、100万人しかいない富裕階層の富の独占のために、「無限の消費」である軍需産業と原子力発電所へ投資するための安倍晋三の憲法改悪策動が進んでいる。
父の軍歴(詳しく調べる方法はまだいくつかあるが)については、現在できる事だけを記録しておくにとどめる。
● 「漢書」は西暦60年ころに班固、班昭が編纂した。
劉邦が項羽を破り、「漢(前漢)」を建国してからの歴史を四つの項目(本紀・列伝・表・志)で著述されています。
その「志」のなかの「地理志」のなかに当時、中国皇帝が把握していた日本の様子が書かれています。
そこで引用するのが、朝鮮半島の楽浪まで勢力を伸ばした前漢が、初めて海の向こうにあるらしい国(後の倭)の情報を得て「漢書地理史」にその事を書いた日本を記述した最初の有名な一文だ。
2000年前から日本人は、独裁権力者に抵抗しないで、強いものに従うと噂されていたという・・・
と感じさせる世界で最初の「東夷(日本はもちろん、倭でさえない)」の認識だ。
『漢書地理志』
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
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「菅芳之助吉重(高祖父)を現在からたどる」
① 秋田市役所
父、菅吉清の除籍謄本。
除籍謄本で初めてわかった祖父の名前「友吉」(読みは不明)。
そして、友吉の父(父が一度も話したことのない)貴代志の曾祖父「芳栄」まで確認した。
ここで秋田市役所での取得できる書類は終わり、吉清の生地であり、祖父友吉の戸籍があった「芳栄」の除籍謄本がある山形県大蔵村役場に行くことになる。
② 山形県大蔵村役場
ここで秋田市役所で取った友吉の除籍謄本、友吉→吉清→貴代志の血縁証明が出来る貴代志の戸籍謄本、免許証を提示し、申込書類(認印必要)を書いて友吉の除籍謄本を申し込む。
ところが、友吉は大蔵村の前に新庄町に戸籍があったことがわかり、大蔵村役場では友吉の父(貴代志の曾祖父)までは行きつかないことが分かった。
③ 新庄市役所
さらにわかった事は、新庄町の戸籍の後で最上郡入向村本合海に戸籍を移しているので、まずはその除籍謄本をとる。
続いて曾祖父芳栄と祖父友吉の新庄町での除籍謄本をとる。
ようやく私貴代志(昭和25年生まれ)の父吉清(大正11年生まれ)曾祖父友吉(明治11年生まれ)、父吉清の祖父芳栄(嘉永元年生まれ)、吉清の曾祖父、「菅芳之助」の名前が出た。
つまり、自分・父・祖父・曾祖父・高祖父という自分から数えて五代前までの菅(カン)家の血統は、高祖父芳之助の生まれ年以外は証明されたことになる。芳之助長男である曾祖父芳栄(貴代志の祖父友吉の父)が嘉永元年生まれだから、ペリーの黒船4隻が姿を現す5年も前だ。
これ以上は、新庄藩士だから新庄市内にあるはずの菅家の菩提寺で過去帳を見せてもらわないと、芳之助の先祖にはたどり着かない。
しかし、秋田市寺内の全良寺(通称官軍寺)には、秋田県内での戊辰戦争の薩長官軍側戦死者数百人の墓があるので、そこに行って明治政府が管理していた寺の墓の記録に芳之助の生年月日がわかる資料があるかもしれない。
また、増田町の「二人塚」に祀られている芳之助の墓からも生まれた年などが判明するかもしれない。
藩士であり、戊辰戦争での戦死した階級が「新庄藩銃隊司令士」である芳之助であるならば、おそらく寺の過去帳には元禄辺りまで遡れると思うが、父が言っていた通り、高祖父芳之助が実在し、戊辰戦争では庄内藩に追われ、秋田藩に敗走し、増田町での戦闘で戦死したことが証明されたことで満足したので、今回の菅家のルーツをたどるのはいったん終わる。
最後に父吉清が産まれ、走り廻ったえあろう大蔵村清水2720に行ってみた。
明治の住所なのでもちろんナビは周辺で到着を告げているが、歩いてみるとなんとなく「やっぱりここだな」と感ずる場所だった。
「菅芳之助吉重」について
● しかし、名前が分かっただけでは極めて不十分だ。
いつ生まれ、いつ戦死したのか、どこで生まれ、どこで死んだのか?
この際なので、ようやく行きついた曾祖父「菅芳之助吉重」の生まれた年だけでも知ろうと二か所の現地で調べた。
市立体育館の裏手の小高い丘にある全良寺の菅芳之助の墓には、「慶應4年行年54」とあるので 1867 年から53年さかのぼると、芳之助は「文化11年(1814)」生まれということになる。
ようやくにして、およそ200年の菅家の歴史の一端が明らかになり、とても満足する行脚になった。
● 全良寺(通称官軍寺)秋田市寺内
前衛的なデザインの本堂の裏の階段を登ると150年前の官軍戦死者の墓がある。
階段を登って右の一番近い場所に芳之助の墓があった。
明治政府の記録が寺にあり、住職から見せていただいてわかった事は、ネットや酒田庄内藩、新庄藩、秋田藩関係の郷土史本での高祖父芳之助の戦死した場所の記録は「羽後番場村」となっていたが、しかし、「羽後の国番場村」では、秋田県全部が対象なので場所は全くわからなかった。
ところが、寺の明治政府の記録でも、墓石の裏の表記でも「平鹿郡的(マト)村戦争」となっている。
これは大発見だった。
新庄藩士銃隊司令士菅芳之助吉重が、150年前に追撃して秋田藩に攻め込んだ庄内藩との戦闘で戦死した場所に塚を作り、長きに渡って地元の人が大事にしているその地元の地名が「真人(マト)」であることがようやく確認された。
● 増田町真人郵便局前の新庄藩士の戦死した高祖父芳之助と部下の二人塚。
ここでは、「平鹿村戦死」となっている。おそらく、明治政府の記録での「平鹿郡的村戦争」から、伝聞などの不正確さによって、「郡的」が抜けたのではないかと思われる。
部下の方の墓が立派なのは、近年になって子孫が新しく建てたからで、元々は身分に応じた粗末なもので、経年劣化が酷かったようだ。
菅一族が山形県から離散し、かろうじて高祖父芳之助の玄孫である貴代志が今回確認しなかったら、次の世代にはもう誰も個人では調べる子孫はいないと思う。
銃隊司令士 武山良勇(菅芳之助吉重)
藩兵 義光良基
● 新庄藩(戸沢)の幕末
新庄藩は、慶応3年(1867年)の江戸薩摩藩邸焼討に庄内藩・上山藩・出羽松山藩と共に派兵したが、直接「薩摩藩」とは交戦せず、江戸市中の警備を担当した。翌慶応4年(1868年)に勃発した「戊辰戦争」では開戦当初に新政府軍の「奥羽鎮撫軍」が新庄に入ったため、新政府軍と共に庄内藩領内へ攻め込むが、逆に迎撃され惨敗した。
同年、「奥羽越列藩同盟」が締結され「新庄藩」も当初これに参加した。
同盟後は庄内藩に協力して新政府軍を圧倒したが、新庄藩の北に位置する久保田藩(秋田藩)が新政府軍へ寝返ったことを機に、奥羽越列同盟から離脱した。
新政府軍を国境で防いでいた「庄内藩」はこの離脱に激怒し、新庄藩に攻撃を加え城を攻め落とした。
この戦で城下町の大半が焼失ししまい、藩主「戸沢正実」は久保田藩(秋田藩)へ落ち延びている。
以後、新庄城は新政府軍が庄内藩に反撃するまでの間、庄内藩によって占領された。
明治2年(1869年)、戊辰戦争の終結とともに新政府軍への寝返りの功により、1万5000石を加増された。
同年6月には「版籍奉還」により藩主「戸沢正実」は新庄藩知事となる。
そして明治4年(1871年)の「廃藩置県」にて新庄藩は廃藩となり新庄県となる。そして同年には山形県に編入された。
● 久保田藩(秋田 佐竹)の幕末
国学の第一人者であった平田篤胤の生没地である久保田藩は、平田の影響から若手を中心として勤王思想を持っている者がもともと他藩よりも多かった。
鳥羽・伏見の戦いが終了して間もない慶応4年1月15日(1868年1月29日)、新政府は奥羽諸藩に東征軍を派遣するから応援するように命じた。
2月17日(1868年3月10日)、京都の東征大総督府は奥羽鎮撫隊総督九条道孝に会津・庄内両藩の処置についての回答を与えた。
九条は海路仙台に到着、直ちに仙台・米沢両藩に会津討伐を命じ、4月6日(1868年4月28日)には久保田藩にも庄内討伐を命じた。
この命令を受けて久保田藩は亀田藩、本荘藩、矢島藩(当時は立藩前)、弘前藩、新庄藩などと共同し由利地方や新庄藩に兵を集結し、庄内藩を攻めようとした。
ただ、庄内藩が討伐対象とされる経緯に疑問を持ち、鹿児島藩の私怨と考える兵士も多く士気はふるわなかった。
由利地区に攻勢にでた連合軍に対し、庄内藩はこれをいち早く察知して閏4月20日(1868年6月10日)に反撃してきた。
そのため、久保田連合軍は総崩れとなった。その後、仙台藩による白石同盟の呼びかけにより、この連合はなし崩し的に解散となった。
奥羽鎮撫隊の命令を受けて兵を集めていた仙台藩と米沢藩は、逆に会津への支持を表明した。
仙台藩が白石会議を呼びかけると、久保田藩からは家老の戸村十太夫が出席して、奥羽越列藩同盟に調印した。
九条総督と参謀の醍醐忠敬は仙台城下に軟禁されたが、佐賀藩の部隊が到着すると引き渡されて仙台を退去し、盛岡へ向かった。
盛岡藩はこの時点で藩論統一されておらず、1万両を献金したのみで奥羽鎮撫隊へ協力しなかった。
次いで九条総督の一行は久保田へ向かった。
そのため、久保田藩の領内には鹿児島藩・山口藩・佐賀藩などの官軍が入ってきた。
また、以前から久保田領内にいた副総督の澤為量隊やその参謀の大山格之助・桂太郎らは、次の目的地であった弘前藩に入領することを拒否されていた。
これは弘前藩が藩内の勤皇派が勢いづくことを恐れたためとも言われている。
このため結果的に、久保田藩には奥羽鎮撫隊の全ての部隊がそろうことになった。
列藩同盟の盟主の仙台藩はこの動きを批判して、九条らの仙台への引き上げを申し入れた。
それに対して久保田城内では、吉川忠安らの勤皇派と同盟派が激しく争ったものの、最終的に奥羽鎮撫隊や藩内の若手勤皇派の意見を容れる形で久保田藩主佐竹義堯は裁断を行い、7月4日(1868年8月21日)、同盟離脱を決定して同盟派の家老らを更迭した。
そして大山格之助の命令で、仙台藩使節の志茂又左衛門以下11名を殺害し、久保田城下五丁目橋に首をさらした。
このことで仙台藩は怒り、秋田戦争が始まった。
慶應四年(1868)七月十四日、新庄が落城すると、同盟軍は秋田への進攻を開始した。
同盟軍は庄内藩を主力として、米沢、山形、上山、天童、仙台、一関各藩兵が加わり、大軍となっていた。
秋田軍は、八月八日、雄物川と支流の皆瀬川に沿った広い範囲(現在の地名でいうと稲川、増田、湯沢、十文字、羽後など)で戦闘を開始するが、皆瀬川を越えることはできなかった。
秋田軍はあっさりと反撃を諦め、北方の大曲まで退却した。
これに怒った横手城代戸村大学は、家臣二百八十名とともに横手城に拠って三千人の同盟軍を迎え討った。
八月十一日、横手城は二時間ほどの戦闘の末、落城した。
戸村大学自身も二人を斬り倒すほどだったという。
このときの砲火により、横手城は炎上し灰燼に帰した。
二ノ丸跡にはこの時戦死した二十一名を慰霊する戊辰戦死碑が建てられている。
東北の幕末での諸藩のうち、尊王運動の思想的源流を唱えていた平田篤胤が秋田出身の為もあり、若手の藩士を中心に錦旗を掲げる薩長軍に与する勢力が力を得ていた。
京都守護を精勤した会津藩、江戸での薩長のテロを抑え、薩摩屋敷襲撃が鳥羽伏見の戦いのきっかけにされた庄内藩の助命嘆願を趣旨とした奥羽越列藩同盟からの仙台藩からの使者を斬殺することで秋田藩が同盟から離脱し、官軍幹部が来た新庄藩も薩長に着いた。
それによって、新庄藩、秋田藩は東北で最も近代的軍事訓練と最新武器を装備した庄内藩との戦争になり、瞬く間に新庄藩は壊滅し、雄勝峠を越えて秋田藩に敗走し、最終的には県南の湯沢、横手などの秋田藩の拠点は庄内藩に落とされ、川辺地域でようやく九州からの援軍によって押し返すありさまだった。
この後で、列藩同盟の南部盛岡藩も県北鹿角に主力を集め、大舘方面に総攻撃をかけていた。
二ツ井近くのきみまち坂の戦闘なども秋田藩は敗北し、押し込まれる一方だったが、仙台藩他の列藩同盟中心藩が降伏し、盛岡藩も降伏し戦闘は終了した。
● その秋田藩での戦闘は、雄勝峠を越えた最県南の院内・横堀をはじめとして、湯沢からの雄物川沿い、増田町で合流する皆瀬川・成瀬川などでも敗走しながらの新庄藩士と攻め上る庄内藩との小競り合いが繰り返された。
湯沢の戦い(ゆざわのたたかい)は、久保田藩領の湯沢(現・秋田県湯沢市)を、庄内藩軍を中心とする奥羽越列藩同盟軍が奇襲して起こった戦闘である。
おそらく、敗走しながら真人山の下の集落で、新庄藩の掃討戦にあい、塚に祀られた二人は月8日に戦死したと思われる。
● 慶応4年8月5日(1868年9月20日)未明、庄内軍の惣右衛門隊と権蔵隊を先鋒にして、山形藩兵とともに横堀を出発した。
雄物川の対岸をひそかに進み、山田村(湯沢市外の南西)に出た。ここに山形兵を残して雄物川を舟で渡り、湯沢に奇襲上陸した。
守将の佐竹義隣(三郎)はすでに横手へ逃亡していた。
館は若干の久保田藩兵が守備していたが、庄内軍が鬨の声をあげて攻撃すると、久保田兵は潰走した。
惣右衛門隊が表門を壊して、分隊長・野沢権内が邸内を捜索したが、敵兵はいなかった。
おのまま庄内軍は湯沢に本営を置いた。
この日、鶴岡より早馬の使者が駆けつけて、庄内藩主・酒井忠篤およびその父(先々代藩主)の酒井忠発より、一番大隊長・松平久厚(甚三郎)と二番大隊長・酒井了恒(吉之丞)へ、院内攻略に対する御意と感状が届いた。
● これが5日の戦闘であるが、湯沢の北は十文字、東北は増田町であり、どちらも徒歩進軍で半日で済む。当然翌6日からは庄内藩兵は北上したと思われる。
十文字や増田に残っていた秋田・新庄の軍勢は、すでに指揮を執るべき佐竹が横手に敗走しているので、わずかな抑えしか残さなかっただろう。
6~7日に北へ進軍して橋頭堡を確保した庄内軍は、そこに残っていたわずかな敵と掃討戦をすることになり、その最中の8日、増田町「的村」(現「真人」)で曾祖父の新庄藩銃隊司令士菅芳之助吉重が戦死したと想像できる。
これが、今回の(手がかりがありながら、50年も放っていた)祖父、曾祖父、高祖父の名前であり、その在所であり、高祖父「菅芳之助吉重」の事跡である。
全良寺で全てを調べ終わって帰ろうとしたら挨拶しに来たにゃんこたち🐈🐈
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「菅吉清 軍歴」(S28年7月26日 秋田県厚生部福祉課長印)
菅吉清( カン ヨシキヨ )
1922年(大正11年)生まれ
1936 年、高等小学校卒業(14歳)
不明なのは、①卒業後の仕事、②山形県生まれで秋田連隊に招集されたこと、③高等小学校卒業で、3年で伍長になれたこと、の三つだ。
① 叔父の話では外国航路の船員(雑用係)として、主に東南アジアを回っていた。
② 本籍の在郷軍人会名簿や警察の住民名簿で確認し召集令状が送られる。少なくても父吉清は、山形県新庄市あるいは大蔵村の高等小学校を出てからは秋田市に本籍を移していたことになる。
吉清の兄弟の長男は秋田市の営林局に勤めていたので、そこに同居していた可能性が大きい。
③ 二等兵で招集され、教育を終えると一等兵、上等兵、兵長、伍長と昇進するシステムなので、衛生看護兵としての教育のたびに階級が上がったのであろう。
「徴兵された兵隊の中で(士官学校は出ていない)優秀な者を選抜して下士官(伍長・軍曹・曹長)になる事を承諾した者に専門教育を施した後に下士官に昇進させます。(昇進すると上級の専門教育を受けなければなりません。)」という記事があった。
※ 参考
召集令状(赤紙・白紙・青紙)は陸軍省が作成した動員計画に基づき連隊区司令部で対象者を指定して発行される。
発行された令状は最寄の警察署の金庫に密封保管され、動員令が発令されると警察官が市区役所・町村役場にこれを持参し、役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡し(不在の場合はその家族に)交付した。
令状は本記と受領証の2枚からなり、本記には応召者氏名、住所、召集部隊名、到着日時等が書かれ、これは部隊までの交通切符代わりになる。
受領証は受取人が受領日と時刻を分単位で記入、捺印の上で官吏に渡す。
官吏はこれを役場に持ち帰り、「召集令状受領綴」という記録簿に保管していた。
本記の表面には、召集される者の氏名、配属される部隊名、部隊に出頭すべき日時などが記載される。
裏面には、伝染病など理由あって期日までに部隊に出頭できない場合の連絡先、応召集員の心得などの備考及び注意事項が記載されていた。
また、理由なく召集に応じなかった場合、罰金刑もしくは拘留に処せられると書かれている。
(浅田次郎対談から)
召集令状は、役場の兵事係から本人や家族に直接渡されるのが原則で、応召した本人が兵営へ持参し提出するため、現存するものは極めて少ない。
赤紙は、召集される人の本籍地の市町村役場の「兵事係」つまり公務員によって届けられていた。
ただし、役場では居住地を正確には把握していない場合もある。
そのときに重要な役割を果たしたのが、国民を細かく管理できていた交番である。
お巡りさんは分担区域の個人情報を持っていたんだ。
交番のルーツというのは江戸時代の番所で、それでも行き届かないエリアはヤクザの親分が十手や捕縄を持って管理をするっていう綿密な治安維持網があった。
その証拠に江戸時代の地図を今の地図に重ねると、番所があった場所に、不思議なくらい今は交番があるんだよ」
本籍地の役場と軍を繋ぐのに、警察のネットワークが活用されたというわけだ。
しかし、必ずしも召集される人が本籍地に住んでいるわけではない。
その場合、実家にいる家族が、本人に知らせる必要がある。
当時のハガキは一銭五厘。
郷里からのハガキで召集を知らされることも多く「一銭五厘の命」とも言われていた。
そのほか、電報や電話で伝えられることもあった。
会社員の場合、本籍地にいる家族から、会社に電話や電報が届くケースも。
会社員の場合、召集令状が届くと、すぐに給与が停止され、有無を言わさず1週間以内に本籍地まで出向いて入営することになった。これが赤紙による召集のしくみだ。
以上、浅田次郎氏
●1942(S17)
12月 陸軍二等兵「歩兵第117連隊」補充隊入隊
「歩兵第117連隊」補充隊入隊 第 117 連隊(第 17 連隊の補充隊)
※ 参考
「雪 第 3524 部隊の歴史」より
雪 第 3524 部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田(歩兵第17連隊)、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
雪3524部隊は、昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。
当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、聨合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。
部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。
12/1 「北支派遣第3524部隊」要員として秋田出発
※ 参考
(俗称)北支派遣軍→(正式名)北支那方面軍
雪 3524 部隊→(正式名)第三十六師団 歩兵第二百二十三連隊
12/12 下関出航
12/13 釜山上陸
12/14 鮮満国境通過
12/16 山西省潞安着「第3524部隊 歩兵第223連隊6中隊」補充隊編入
●1943(S18)
6/1 陸軍衛生一等兵 衛生教育のため「潞安陸軍病院衛生兵教育隊」入隊
11/1 「独立歩兵第200大隊(将部隊)」転属
※ 参考
第83歩兵団:青山清少将( 独立歩兵第199大隊、独立歩兵第200大隊)
12/1 陸軍衛生上等兵 衛生教育修了。原隊(歩兵第223連隊)復帰、大隊本部付き
12/10 衛生下士官教育のため北京陸軍病院「北支方面軍衛生下士官候補者隊」入隊
華北(北京):北支那方面軍
●1944(S19)
6/1 陸軍衛生兵長
9/1 衛生下士官教育修了、原隊(歩兵第223連隊)復帰。山西省太原「北支方面軍第一軍司令部付き」転属
12/1 陸軍衛生伍長
●1945(S20)
3/30 河北省三河県「独立警備歩兵第14大隊」(伸長)転属
討伐参加
※ 参考
「伸長部隊の思い出」より
通称伸張部隊と呼んだ。5個中隊に銃砲隊。
それまで春兵団が警備した所をこの部隊が警備することに。
大隊長以下がそっくりそのままこの部隊に。
三河が大隊本部。薊縣(けいけん)が中隊本部。
4か所の分遣隊。上倉鎮(じょうそうちん)というところの分遣隊長をやった。城壁の中にあった。分遣隊は10名。
ここには保安隊が1個大隊いた。
馬(まー)大佐が指揮官で、自分の指揮下に入った。
馬大佐は後に八路軍が進駐してきた時に銃殺された。
装備がすごくよかった。
重機1丁、軽機1丁、擲弾筒3挺あった。
年がら年中試射と言って重機をぶっ放していた。
敵はたまに出る。
保安隊に頼まれてたまに戦闘に出た。
5名残して5名で行った。
ほとんど戦闘はやらなかった。
敵襲は3回あった。
そのときは出なかった。
出るとやられる。
10/1 天津終結 復員船船員として徴用(吉清談~集合地点の天津で船員経験のある内地引き上げ兵が選抜された)
●1946(S21)
1/31 天津出航
2/2 佐世保上陸復員
5/5 地方事務官補、秋田県巡査
11/15 秋田警察署
***** ***** *****
以上が、「菅貴代志ー吉清ー友吉ー芳栄ー芳之助吉重」という五代前の先祖を遡って調べたことと、父吉清の中国での軍歴を記録した現在わかっているすべてである。
これより深く掘り下げるには、新庄藩士菅家の菩提寺(不明)での過去帳を見せてもらう必要があるし、新庄藩戸沢氏も遡らなければならないので、孫子に伝えられることは一応明らかにしたし、老齢でもあり現実的にこれでルーツ探しは終了である。