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2015年10月まで、右半身麻痺で車いす生活だった母を介護しながら、日々の出来事や思いを書き綴っていました。

在宅介護の様子や心の葛藤をできるだけ隠さず書いたつもりです。 もし参考にしていただける部分があればと思い、古い情報になる日記もそのままにしてありますのでお許しください。



母も最後まで女優??でした^^

2015-11-09 21:00:06 | 特養

母が父の元へと急ぐように旅立ってしまったのは10月18日
食べられなくなってからちょうど1週間でした。

まだまだがんばってくれると信じていたのですが、
今思えば6月ごろ、満90歳になったころから急に衰弱が進んできて、7月に「老衰」と言われ、それでも今までよく頑張ってくれたと思います。

特養K苑で看取ることにして、本当に、良かったと思っています。
過ごしやすい個室で職員の皆さんが本当によく看てくれることは前回も書きましたが、何度でも感謝したいくらい良くしてくれました。
それに特養というのは夜勤専門の職員というのは採用しないそうで、夜も昼間のいつもの職員さんなので安心できます。
私たち家族も毎日うるさいくらい面会に行ってるのにそのたびに職員さんたちが大歓迎してくれて
10月7日に退院してから特養にいた10日間のあいだに母の妹2人、娘3人とその夫たち、孫5人、ひ孫まで全員がそれぞれ会いに行けて、母もわかって、「ありがとうよ・・」 「孫は可愛いなぁ」など言葉にできて・・・

私や姉たちは毎日何時間もずっと母のそばにいたのですが、母は眠っている時間が多かったです。
でも眠っているあいだは、苦痛がないのがわかるから安心できました。

最後の2日間は、目覚めている時間はとても苦しそうでした。
それは私達の希望もあってずっと点滴をしてもらっていたから、もう体が水を排出できなくなっていたのに、わずかずつではあるけど点滴を入れてたから、
体に、たぶん肺にも水が溜まってしまっていたからだったようです。
看護師さんが、これでは苦しそうでかわいそうだから、点滴を抜いてもいいですか、そうすれば少しずつ水が引けてくるはずです、と話があって、ええ、ぜひそうしてください、と頼んで、
母に、 
苦しいの? ごめんね・・・ いま看護婦さんが点滴を抜いてくれるからね、そうしたら水が引けてきてだんだん楽になるって。 だからもうちょっと待っててね。 と言うと、
母は少しホッとしたように黙って何度もうなずいて、

点滴を抜いてしばらくすると寝息をたててよく眠り始めました。  それは夕方5時ごろでした。

そのままよく眠っていたので安心していました。 でもそのすぐあとで看護師さんが見たら、それまでは眠っていても呼びかければ反応していたのが反応しなくなって、指先にチアノーゼが始まっているから、危篤状態と思ったほうがいいかもしれない、看取り希望なら今夜は泊まったほうがいい、と話があって、

姉二人にも特養に来るように電話したり、職員さんたちが部屋に簡易ベッドを運びこんだり、娘3人で母のベッドを両側から見守れるように模様替えしてくれたり、
もう暗くなっていたから私たちの夕食は間に合わないということでコンビニでおにぎりを買ったり、
ドキドキでしたが、私たちには母は寝息をたててよく眠っているとしか見えなくて、今夜はここでみんなで喋っていようよ なんて、母のそばで姉妹で世間話もしていました。

でも見守っているうちにだんだんと、一生懸命な呼吸をするのが増えてきて、
3人で母の顔や手を撫でたりさすったり、 返事はしなくても耳はずっと聞こえてるはずですよ、と看護師さんが言ってたので、耳元でたくさん話しかけたり、

私は母の額を撫でて 大丈夫だよ、大丈夫だよ、そばにいるよ、みんなそばにいるよ、と
よく眠っているだけに見えたのに、みるみるうちに呼吸が一生懸命ばかりになってきて、 職員さんも様子を頻繁に見に来て、いったん帰宅していた看護師さんや相談員さんたちを呼んでくれて、
私たちも一生懸命あちこちさすったり話しかけて、 ・・・何を話しかけたかな・・・ お母さん、ありがとう、たくさん一緒にいさせてくれてありがとう、
そんなに急いでお父さんとこ行きたいの?! そんなに急がないでよ!まだこっちにいてよ! 聞いてるの?!返事しなよ! 起きてよ!そろそろ起きなきゃだめだよ!
とか・・・言ってたなぁ

そしたら母は返事はしないけど、最後に目をパッチリと開いたんですよ
そしたら上の姉が、「カワシマナオミかっ」って
その少し前に、かの美しい女優さんが、息を引き取る前に目をパッチリ開いた、最期まで女優でした・・・ ってパティシエのご主人がテレビで言ってたんだよね・・ って、その姉が話していたばかりだったから。
私と下の姉も、思わず笑いながら お母さん、お母さんも女優なの 見える?見えてるの?!と声をかけ続けましたが、やはり返事はなかったです。
夜9時ごろだったと思います


後日、例の療養病院でナースをしている友人に聞いてみたら、 よくあることなんだよ~ 見えてるのかどうかはわからないんだけどね。 って言ってました。 どうなんでしょうね。

最後は私達にしてみたらあまりにもあっけなくて、
でも苦しそうだったのは最後の数日間だったから、良かったのかな・・・ あの最期の数時間は一生忘れられないね・・・ きっとお母さん、自分の身をもって一生懸命生きる姿を私達に見せてくれたのかな、 きっと、娘たちが寝不足で体調悪くなると可哀想だからって、急いだのかな。
なんて姉たちが話していました。

前の日とその日の、苦しそうな時間を私は見ていたので母に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、
確認しに来た医師が書いた診断書には 死因・・・ 老衰  と書いてあるのを見た時、
ああ・・・ 母は寿命を全うできた ってことなのかな・・・ と思えて、気持ちが落ち着きました。
医師が到着して確認した時間は午後10時近くでした。

その後いろいろ、いちばん気に入ってた服に着替えしてもらって、やっと母と家に帰って、父の時にお世話になった業者さんを呼んで枕飾りなどしてもらって、寂しくないように電気はつけたまま、私たちは茶の間に布団を敷いて姉妹3人で川の字で(初めてでした)床に就いたのは夜中の2時過ぎていました。

私だけは母を寝かせる部屋を片付けるために一足先に帰ったのですが、姉たちが言うにはK苑を出るとき、ユニットから出るときも、建物を出るとき、車が出るときは外で、すべての職員が並んで深く頭を下げ見送ってくれたそうです。
結局、入所期間は2ヶ月弱、そのうち1か月以上は入院してたのに、本当に良くしていただきました。


今まできちんと報告しなくてすみませんでした。
当初は放心状態に近いような感じで・・・ しなきゃいけないことは山ほどあるので少なくとも世間の人に迷惑をかけないように、毎日するべきことをこなして、こなしてるつもりでも考えられないようなポカミスしてたり・・
感情は自分の胸にしまって、
・・・

自分のブログを開くのもつらい日が続きましたが、この説明し難い感情を理解してもらえるのは、やっぱりブログを読んでくれる皆様だけなんだ・・ と思いました。
現実にはなかなかこんなふうに話せないですし。

考えてみたら、普通は人生のうちで自分の親と一緒に暮らす期間はそれほど長くないものかもしれないのに、結局私はほとんど親と一緒でした。
 K苑でも、葬儀でも、母の思い出アルバムや写真コーナーをつくるのに昔の写真を選んでいても、私との写真ばかり多くて あらためてそのことに気付かされました。
ずっと一緒に生活していた家族がいなくなることは、なかなか・・・
まだ語るのがつらいということもあります。

でも大丈夫です
昨日やっと父の一周忌法要を終え、今月末にはもう母の七七忌法要、納骨、その準備に忙しくしています。
まだ始めてないけどいろんな手続きもまたこれから長くかかるのでしょう。




私の友人の皆様がもしも読んでくださっていましたら、 今回はどうか、たいへん失礼ながらおこころざしや御供え物などは遠慮させてください。 父のことでいただいてからもまだ一年経ってもいませんし。
お気持ちだけ、ありがたくいただきます。 何も言わなくても、心配していただいていることをヒシヒシと感じます・・・ ありがとうございます。
葬儀も近親者のみで行いました。 でも小じんまりと良い式でしたよ 遺影は、5年前にデイサービスで貰った誕生会カードから。 車椅子生活になってから初めてデイで美容師さんにパーマをかけてもらって満足そうな顔。
その写真だけは母が自分で気に入ってたんです。 ・・・それを知っていたのも私だけでした。



                          





今年はなかなか季節感が感じられない秋のような気がしますが、寒い日も増えてくるかと思います。
どうぞ皆様が体調を崩されたりなさいませんように・・・