最初に、無駄な誤解を与えないために題名の意図を説明する。
ボランティアをしている人々や、ボランティア行為が嫌いなのではない。
「 ボランティア 」の言葉に含まれる矛盾が嫌いなのだ。
『 ボランティアの意味 』
「 ボランティア 」( 英語 : Volunteer )は、もともとは徴集兵の「 Drafts 」とは対極の意味で、十字軍軍遠征時の 自発的な「 志願兵 」を示す言葉として始まり、現在では個人かグループが、自発的に、無報酬で、個人や団体等に対して行なう社会的な奉仕活動の事を指す。
つまり、自発的に、無報酬で、社会的な活動を行なう事が「 ボランティア 」行為だ。
『 ボランディアの矛盾 』
一般的な理解だと、障害を持った人々の生活介護などの他に、災害現場などへ出向き、被害を受けた家財道具の清掃・修理をしたり、避難所での一時的な生活を余儀なくされている方々の食事を提供したりトイレ整備などが「 ボランティア 」として使われているようだ。
では、そういう肉体的活動ではなく、歌や演奏で慰問的活動をする人達はどうだろうか? 生活に困っている人々の為に食品や生活用品を送っている人達は? 外出はせずに義援金を常に送金している人達は「ボランティア」でないのか?
自発的に、無報酬で行なう社会的な活動が「 ボランティア 」であれば、上に挙げた人達も全てボランティアと言えるだろう。
『 日常生活とボランティア 』
私達が生きている “ 社会 ” は、私達が共に協力し合って作るもの。
そういう意味で、日常生活の中で困っている人が目の前に居たら、自発的に無報酬で、何等かの行為を行なう事は人の務めだ。
また、困っている人に対してだけでなく、自身や周囲の人々などに損害を与える可能性の高い行為をしている人が居れば、自発的に、無報酬で、サポートする行為も務めの一つだろう。
だから、日常生活での人としての務めに焦点を当てず、被災地や障害を持った人々だけに対する行為を「 ボランティア 」だとすれば、僕は「 ボランティア 」という言葉に違和感を感じるのだ。
『 ボランティアって何? 』
社会的な活動に、僕は小さい頃から興味は強かった。
地域で行なう社会的活動を除けば、中学校時代に手話を覚えて、大学時代以降に出会った “ ろう者 ” の人達とは50音と簡単な手話で会話をしてきた。
20代後半には、休日の暇を持て余して、福祉事務所へ出向き、生まれつき車椅子生活をしている女性と知り合い、彼女の社会的な活動に合わせて、日本全国各地で開催される会合に付き添って移動を助け、女子トイレにも一緒に入ったし、ノルウェーへの9日間の旅にも同行するなど、「友達」として付き添う生活を約2年間してきた。
そんな彼女のお蔭で、全国各地の身体的な障害を持った人々とも多く知り合い、その人達とも旅に同行するなど、「友達」としてお付き合いもしてきた。
1995年1月、阪神・淡路大地震で自宅が全壊扱いになった際には、近所の人々に助けられ助ける生活が当たり前だったし、2011年3月の 大地震の際には、生まれ故郷が被災した友達数名を通じてお金を支援したのも当たり前だった。
でも、僕は一度も「 ボランティア 」だとは思わなかったし、今も思わない。
『 日常生活の当たり前 』
見て判断できる障害を持った人々や被災地の人々に対する慈善的行為だけを取り上げて「 ボランティア 」と表現する事が誤りを招いている。
日常生活の中で、目には見えない障害を持っている人々に出会う機会や、被災地ではないけど生活に困窮している人々に出会う機会は、誰でも多くあるもの。
また、自身や周囲の誰かに損害を与える可能性のある行為に出会う機会もある。
そういう機会を捉えて、可能な範囲で、社会の為に、自発的・無報酬の行為をするのを務めとして、社会に住む人達が行動するのが “ 当たり前の社会生活 ” でしょう。
仮に、日常生活の中のそういう機会に一切目を向けず、「 ボランティア 」と認められる特別な行為だけに注力するとすれば、決して悪い事では無いけど、とても偽善的に見える。
だから、「 ボランティア 」という言葉が嫌いだ。
ボランティアをしている人々や、ボランティア行為が嫌いなのではない。
「 ボランティア 」の言葉に含まれる矛盾が嫌いなのだ。
『 ボランティアの意味 』
「 ボランティア 」( 英語 : Volunteer )は、もともとは徴集兵の「 Drafts 」とは対極の意味で、十字軍軍遠征時の 自発的な「 志願兵 」を示す言葉として始まり、現在では個人かグループが、自発的に、無報酬で、個人や団体等に対して行なう社会的な奉仕活動の事を指す。
つまり、自発的に、無報酬で、社会的な活動を行なう事が「 ボランティア 」行為だ。
『 ボランディアの矛盾 』
一般的な理解だと、障害を持った人々の生活介護などの他に、災害現場などへ出向き、被害を受けた家財道具の清掃・修理をしたり、避難所での一時的な生活を余儀なくされている方々の食事を提供したりトイレ整備などが「 ボランティア 」として使われているようだ。
では、そういう肉体的活動ではなく、歌や演奏で慰問的活動をする人達はどうだろうか? 生活に困っている人々の為に食品や生活用品を送っている人達は? 外出はせずに義援金を常に送金している人達は「ボランティア」でないのか?
自発的に、無報酬で行なう社会的な活動が「 ボランティア 」であれば、上に挙げた人達も全てボランティアと言えるだろう。
『 日常生活とボランティア 』
私達が生きている “ 社会 ” は、私達が共に協力し合って作るもの。
そういう意味で、日常生活の中で困っている人が目の前に居たら、自発的に無報酬で、何等かの行為を行なう事は人の務めだ。
また、困っている人に対してだけでなく、自身や周囲の人々などに損害を与える可能性の高い行為をしている人が居れば、自発的に、無報酬で、サポートする行為も務めの一つだろう。
だから、日常生活での人としての務めに焦点を当てず、被災地や障害を持った人々だけに対する行為を「 ボランティア 」だとすれば、僕は「 ボランティア 」という言葉に違和感を感じるのだ。
『 ボランティアって何? 』
社会的な活動に、僕は小さい頃から興味は強かった。
地域で行なう社会的活動を除けば、中学校時代に手話を覚えて、大学時代以降に出会った “ ろう者 ” の人達とは50音と簡単な手話で会話をしてきた。
20代後半には、休日の暇を持て余して、福祉事務所へ出向き、生まれつき車椅子生活をしている女性と知り合い、彼女の社会的な活動に合わせて、日本全国各地で開催される会合に付き添って移動を助け、女子トイレにも一緒に入ったし、ノルウェーへの9日間の旅にも同行するなど、「友達」として付き添う生活を約2年間してきた。
そんな彼女のお蔭で、全国各地の身体的な障害を持った人々とも多く知り合い、その人達とも旅に同行するなど、「友達」としてお付き合いもしてきた。
1995年1月、阪神・淡路大地震で自宅が全壊扱いになった際には、近所の人々に助けられ助ける生活が当たり前だったし、2011年3月の 大地震の際には、生まれ故郷が被災した友達数名を通じてお金を支援したのも当たり前だった。
でも、僕は一度も「 ボランティア 」だとは思わなかったし、今も思わない。
『 日常生活の当たり前 』
見て判断できる障害を持った人々や被災地の人々に対する慈善的行為だけを取り上げて「 ボランティア 」と表現する事が誤りを招いている。
日常生活の中で、目には見えない障害を持っている人々に出会う機会や、被災地ではないけど生活に困窮している人々に出会う機会は、誰でも多くあるもの。
また、自身や周囲の誰かに損害を与える可能性のある行為に出会う機会もある。
そういう機会を捉えて、可能な範囲で、社会の為に、自発的・無報酬の行為をするのを務めとして、社会に住む人達が行動するのが “ 当たり前の社会生活 ” でしょう。
仮に、日常生活の中のそういう機会に一切目を向けず、「 ボランティア 」と認められる特別な行為だけに注力するとすれば、決して悪い事では無いけど、とても偽善的に見える。
だから、「 ボランティア 」という言葉が嫌いだ。