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最期の別れ

2019-03-12 08:19:27 | 日記
 大学院のときの友人が難病(病名が覚えられない)となり、もう会えないかも知れないということと、そのお寺の「婦人会」で話をしてほしいということで、新潟まで行ってきました。すでに病院へ入院しているので、彼の妻の運転で病院へ向かいました。
 この前行ったときには、杖をついて歩くことができ、ゆっくりだけど、話ができました。本堂での読誦は声を出すことができたのです。4~5年前になるでしょうか。
 今回はもう話ができないときいていました。
 病院へ着くまでの車の中で、彼のことをいろいろ聞いてもよい話は出ないので、覚悟を決める時間となりました。

 いよいよ病室へ向かうのですが、足が重いことがよくわかります。
 車の中で思い出していたのは、父との別れです。30数年前、胃癌の末期で、父には病名を告げず、入院となり、5月の連休に帰省しました。当時はガンは、まして末期のガンは隠すのがあたりまえでした。明日は帰るという夜、病院へ泊まってほしいと父が言いましたが、なぜかそれはできず、明くる日もう一度来ることを約束して帰りました。その晩いっしょに食事をして、ビールを買ってきて、「呑む?」と差し出しましたが、「いらない」といいました。最期までタバコは吸えましたが、アルコールは受けつけなくなっていました。あれだけ飲んだ人なのに、悲しかったです。
 明くる日、ほんとうにこれが最期だとわかりました。やせ細った体は、次の夏休みまでもつはずがなく、それも死期が近いことがわかるほどでした。
 「お父さん、これが最期」といい、「わかった」と応え、右手を合掌しました。左手は点滴がされていたので、右手だけの合掌です。末期のガンで意識だけははっきりしているので、何かいわねばと思うのですが、ことばがスッと出てこないのです、思ってもいないことばが出て、わたしが一番驚いていたのですが、「次はお浄土で」といっていました。そんなことを信じているわたしではないのに、なぜそのことばが出たのかいまだにわかりません。
 最期の別れができ、それから10日して亡くなりました。

 友人の部屋へ入り、ベッドの傍らにいったとき、予想外の顔にまず驚きました。まったくやせていなかったのです。やせ細っていると想像していたからです。そして、その顔の穏やかなこと、それにも驚きました。わたしに気がついてくれ、わたしが来たことを認識してくれていることがわかります。まったく一方的ではないのが救いです。手を動かし、「アー」とか「ウー」とかに似た声を発してくれるのです。てを握りながら、話すことは多くはありません。ゼミのころの話、お互いの友人のこと、顔が穏やかなこと、明日「婦人会」で話すこと、いろいろ考えるけど、顔をみていたら、話せなくなるのです。もうそろそろ別れるときです。「彼は、「あ、り、が、と、う」とわたしが認識できることばをゆっくり大きな声で言ったのです。わたしは涙が出るしかありませんでした。傍らで、彼のつれあいが「ああ、ありがとうといっている!!」と驚いていました。
 「これが最期」とはいえませんでした。「また呼んでもらうときまで、がんばって、また会えるかも知れない」というのがやっとでした。手を放してベッドを離れたのですが、大きな声が聞こえます。ベッドに駆け寄り、手を握って別れを言いました。そして、ベッドを離れたら、また大きな声が聞こえます。うなり声のようにも聞こえます。また、駆け寄りました。そして、これを最期にしようと、ベッドを離れ、外に出ました。
 友との最期の別れでした。別れは「愛別離苦」といい、仏教では苦と捉えます。真實を教えていると実感します。人生のなかで、こういう辛さを経て、わたしは生きるのだし、わたしも死を迎えるのだと思ったことでした。
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